十六 痛いの痛いの飛んでいけ、可愛い金魚に

 火曜日、雨が降りしきる中、森之進もりのしんは駐在所を訪れた。通常通りの開庁時間だから、先日のように緊急の用事ではないのだろう。

 梅雨の曇天と細い雨脚の中、森之進の存在は影法師のように薄く見えた。


「おはようございます、駐在さん。自警団の連絡網です」

「おはようございます。昨日の今日で早いですね」


 どこぞの奥さんが愚痴っていた、PTAだのお役所だのより仕事が早いんじゃなかろうか。ごうは紙を広げて、樹形図状に記載された団員名と電話番号を確認した。

 紛失すれば詐欺等に悪用されてしまうので、鍵付きの引き出しにきちんと保管する。森之進から「話せますか」と言われて、号は彼をリビングへ招き入れた。

 戸を開けると、金魚たちはこちらを無視して水槽の中を泳いでいる。前に森之進が来た時、一斉に凝視してきたのは何だったのだろう。


「ご足労いただいて何ですが、まだ監視の方は進展ありませんよ。彼に気づかれず家を見張れる場所はないか、下調べした程度です」


 森之進に椅子を引いて促し、冷蔵庫の麦茶と茶請けのろんこぎ楼凝を出した。餐原町さんばらちょうの土産菓子で、団子のような形の丸ぼうろという印象だ。

 町内会長の話では家庭でも作られ、二人一組で「ろんこぎ、ろんこぎ」と言いながら代わる代わる捏ねるそうな。


「別にそう急がずとも良いのですよ。駐在さんも下手に近づいて、口無し様に見つけられたくはないでしょう?」


 図星だ。野辺送りと埋葬の夢であれに見つかった時、現実に墓地で出くわした時、号は生きた心地がしなかった。


「ですので、私と克生かいが対処法を見つけ出してからでも大丈夫……と言いたいのですが。河野こうのさん、貴方には強力な守護がついてます」

「強力な守護?」

「金魚ですよ。あなた、ご自分では気づいておられないようですが、強く守られているようです。つまり、今後の口無し退治では有効な戦力になれる」


 二度目の図星だ。森之進にオウム返しに聞き返しながら、号は何となく予感していた。守護と言われて思いつく心当たりなんて、それしかない。


「昨日、河野さんは祭原家や口無し様の正体について色々お聞きになりましたよね」

「はあ」


 嫌な予感がして生返事すると、森之進は「ですので、もっと腹を割って話しませんか。この金魚について」と続けた。案の定だ。


「そう言われてましても……オレもあんまりよく分からないんです」


 号としては自分が知る限りのことを話すしかない。故郷が金魚の名産地だったこと、金魚の神社があって毎年詣でていたこと。

 実家に電話して神社の神さまが何だったか訊ねたら、母もあまり知らないようで「今度おばあちゃんに聞いてみるね」とのことだった。


「あ、そうだ。どうだん稲荷に行った時、お参りしておこうと入れた賽銭が返ってきたんですよ。もの凄い勢いで頭に当たって、それでオレは石段から落ちたんです」

「ほう」


 号が倒れたことは森之進も知っているだろうが、その日は彼の妻である育乃が居た最後の日でもある。彼は娘と二人で、フルーツポンチを食べたのだろうか。

 きまり悪さで首の後ろがむずむずしたが、森之進は平常な口調で続けた。


「いくらお気に入りの氏子か何かでも、賽銭すら許さない、というのは妙ですね」


 会話が途切れ、号は自分が出したろんこぎを一つかじる。小麦粉と卵の素朴な甘みは、少しだけ気まずい空気を救ってくれた。森之進も一つ菓子を取る。


「懐かしいですね、ろんこぎ。子供の頃、正月に克生と二人でやったものです」

「あの克生先生と? ろんこぎ、ろんこぎって?」


 何だか意外で、若い頃とはいえ号にはとても想像できなかった。


「うちの神社の由緒はご存じですか。空飛ぶ蛇が、私の姿をかたどった餅を作れと夢で命じ、その通りにして食べたら病が治ったと。その餅がろんこぎです」


 号は菓子鉢に入れたろんこぎを一粒取って、まじまじと見た。


「そちらの焼き菓子は、どこかの和菓子屋が思いついて勝手に名付けたものですけれどね。餐原町には餅つきで作るろんこぎと、焼き菓子の二種類があるわけです」

「へええ、コイツがどうだんさま由来とは知りませんでした」


 ということは、名前だけとはいえ分霊だという口無し様にも関係する菓子ということだ。菓子の袋に書いてあった「楼凝」の由来は森之進にも不明だと言う。

 少し話は逸れたが、号の気分はいくらか和らいだ。


「まあ、それと、一番肝心な話なんですけれど」


 森之進に腹を割れと言われた時は緊張したが、ようやく覚悟が出来た。


「オレは時々、金魚を吐くんです。口からこう、オゲェーッって。それから二、三日の間に悪いことが起きて、吐いた金魚は死にます」

「口から。金魚を」

「はい。で……なぜか餐原町に来てから、吐いた金魚が全然死なないんですよね」


 何て馬鹿なことを話しているんだろうと思いながら、相手の反応は淡泊で、何を考えているか読めない。しかし餐原町の出来事を思えば、信じてもらえるはずだ。


「では表の『金魚あげ〼。』とは」

「……すいません。一年経ってずいぶんと殖えちまって、水槽ももう一つ増やしたぐらいで。せっかく生きているなら、出来るだけ可愛がってもらおうかと……」


 自分が吐いた生き物を無償とはいえ人に配る。その中には目の前で話している男の妻と娘も居て、すぐ死なせてしまったと悲しませてしまったのだ。


「河野さんも好きで吐いているわけではないのでしょう? なら、仕方がないことです。ただの魚ではないと思っていましたが、これで納得しました」


 森之進の返答はあっさりとしていた。好意的と言えば好意的かもしれないが、あっさりとし過ぎていて号は自信が持てない。


「それであの、神主さんはコイツに何か心当たりありませんか? 克生先生に色々馬鹿にされたように、オレはこういう方面に詳しくなくて」

「そうですね……ここで吐いてみることは出来ますか?」

「いや、何か悪いことが起きるか、起きそうでないと」

「それはもう起きているでしょう?」


 ぎらりと、森之進の眼が光った。稲妻がひらめくような、一瞬だが鋭く攻撃的な輝きだ。号は帰らない母親を待つ少女のことを思い浮かべた。

 美登里みどりとは小学校の防犯講習や、町内の見回りで何かと顔を合わせる。「おまわりさん、こんにちは!」「おしごとがんばってね!」と元気に挨拶してくれて、可愛いものだ。いつだったか、財布の落とし物を届けに来てくれたこともあった。

 彼はまさに苦しい状況の中にあり、必死なのだ。「分かりました」と言って、号は風呂場から持ってきた洗面器をフローリングに置き、その前に座る。

 さてここからどうしたものか。とりあえず号は目を閉じて集中した。


「吐くということは、胃の中に金魚の存在を感じますか」

「あ、はい。突然腹の中に現れて、オレが耐えられなくなって吐き出すんです」

「今はまったく?」

「残念ながら……」


 やっぱり無理なんじゃないか。号が嘆息しながらまぶたを上げると、いつの間にか森之進も床に座っていた。


「失礼ながら、少し腹を見せていただいて良いですか」

「あ、はい」


 制服と下着をめくり上げると、まあまあ引き締まった腹が出る。警察官として、柔道家の端くれとして、日々の鍛錬は欠かしていない。

 森之進は医師が触診するような手つきで、何度か軽く号の腹を押す。

 立ち上がりかけたと思った時、そのまま鳩尾を掌底で打ち抜いた。

 傍から見れば、号の体は面白いほど「く」の字に曲がっただろう。ものを考える力が爆ぜ散じ、呼吸と呼吸が衝突し、こみ上げる反吐が喉とも胃ともつかぬ所でうねる。吐きたいのに吐けない。号は青ざめた顔で細い呼吸をくり返し、何度も嘔吐えづいて今朝の朝食や、先ほどのろんこぎと対面した。顔は涙と鼻水と胃液でびっしょりだ。


「失礼しました、手当てしますから逃げないでください。どうだん稲荷を祀るとつぎ家は、元々は祭原さいばら家と祖先を同じくするから、霊術を扱えるのですよ」


 森之進はティッシュで号の顔を拭きながら、再び腹に手のひらを当てていた。身体が逃げようとするが、片手で後頭部を押さえられている。頭の芯が戦慄した。

 腹にカイロをくっつけられたような温かさを覚えると、暴れ狂っていた筋肉と神経が静かになり、ぐちゃぐちゃに散らばった内臓たちがすとんと整理されて行くのを感じる。物理的にそうなっていた訳ではないだろうが、痛みと気持ち悪さが消えた。


「あんた、何、考え、て」

「金魚が出てくるかと思いましたが、そう上手くは行きませんね」


 もし居たとしても、今の一撃で死んでしまう。

 警察官相手に堂々と暴行するとはとんでもない奴だと号は考えて、そういえば証拠を隠滅されてしまったなと気がついた。

 号も柔道の黒帯だから分かるが、森之進は確実に何らかの経験者だ。そのくせ殴る時もその後の対処も、さっきまで話していた時と何も変わらない。

 眉一つ動かさない、とはまさにことことだ。克生は思ったよりろくでもない人間だと思い始めていた号だったが、もっと恐ろしい奴がすぐ近くに居た。


「ともあれ、後日改めてお詫びの品を持って参ります。お酒は飲まれますか?」


 別に、と断ろうと思ったが、もらえるものはもらっておこう。一瞬前まで腹を殴られた痛みと嘔吐きで苦しみ悶えていたのに、数秒でそれが消え去る感覚は気色悪い。

 克生はゲームと一緒にするなと言っていたが、これでは回復魔法と同じだ。


「酒は何でも……あー、帰家ってことは、美登里ちゃんもそうなんですか?」

「ええ、あの子は祭原、帰両家の血を受け継いでいますからね。友だちが怪我をすると、つい〝痛いの痛いの飛んでいけ〟しているようです」


 娘の優しさの何割かも、この父親にあるのだろうか。号が洗面器と共に奥へ下がり、吐瀉物を片付けて戻ってくるとまだ森之進は待っていた。

 帰るよう勧めるべきだったなと胸中で舌打ちしつつ、号は彼の正面に座り直し、麦茶で喉を潤す。口は洗面台ですすいだが、ようやくほっとした。


「金魚は元来フナの突然変異ですが、金運をもたらす魚、という意味で名付けられたそうです。いえ、これは釈迦に説法ですか」

「郷土史でよく聞かされましたね。確か……平和な江戸時代、武士の副業で金魚の養殖で行われて、日本に広まったそうです。うちのご先祖様も、まあ傍流も傍流でしょうが、藩士だったとかで。何でオレなんかについているんだか」


 今日は彼の顔は見たくもない思いだったが、号は長年の疑問を解く手がかりになるかも、という思いで話を続けた。


「殿様の食事の毒味役に使われたり、戦時中は金魚を飼うと爆弾が落ちてこないとか、色んな所で縁起物として引き合いに出されていますね、金魚」

「ええ。爆弾避けにはらっきょうが良いなんて俗信もありましたが、銃後の人間にも容赦しない空襲は酸鼻を極めたと言います。防ぐことも逃げることもない絶望的な状況で、人ただの駄洒落だろうが何だろうが、すがるものを求めたのでしょう」


 ぱきん、と森之進がろんこぎを噛み砕く音が甲高く響いた。


「私が思うに、金魚とはさまざまな物を都合良く押しつけられる器のようなものです。やれ金魚の黒焼きは病に効く、血肉は怪我に効く、すり潰して塗ると良いなどと民間療法もあれば、大鯰の代わりに地震を起こすと信じる地もあり……。元々は鑑賞のために作られた、どこまでも人間の身勝手を体現する哀れな魚です」

「金魚を特産にしている土地の生まれとしちゃ、耳が痛いですね」


 号の親戚や友人にも、金魚養殖関係者はいくらでもいるのだ。非合理な民間療法はぞっとするが、それよりも森之進の言い様の方が不快だった。


「河野さん。貴方が何かの加護を受けているとして、それは金魚とは限りませんよ。神さまとするには新しすぎる。誰かか、何かが貴方の身代わりになるよう、金魚を遣わしていると、私はそう思いますね」


 最後にそう結論を述べて、森之進は駐在所を辞していった。

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