二十一 嵐の前に蕾がつく

「駐在さん、お疲れさまッス」


 木曜夜。祭原さいばら慈愛しげみの自宅からほど近くの雑木林、望月哲也は車体を隠すように停められた車の窓を叩いた。家主を監視するため、乗っていた駐在が車窓を開ける。


「若先生から差し入れの夜食です。四時になったら交代が来るから、駐在さんはその後帰って、お仕事に備えてくださいとのことです」

「どうも」


 弁当と茶を渡して、自分の仕事は終わりだ。自警団の交代要員は別に居るし、風呂には先に入ってきた。

 望月工務店の従業員である哲也は、店に戻ると誰もいない事務所で教科書を広げた。社長は父で、住居部分には当然哲也の部屋もあるが、ここが落ち着く。

 数字は苦手だが、検定に受かるよう簿記の勉強がしたかった。


 安っぽい木目調の壁に、勤怠管理表やカレンダー、今月の目標や予定が掲げられた事務所は、哲也には子供の頃から馴染みのあるものだ。

 明日の仕事に少し思いを巡らせながら、鉛筆を動かす。

 静寂の中、蛍光灯がブーン……と低く唸る音がよく響いた。管に入っているコンデンサーが経年劣化して、振動やノイズを出している。


 がたん、と音がして頭を上げると、よく眠ったなという感覚がある。どうやら勉強している内に寝入ってしまったらしい。


「父ちゃん?」


 誰か様子を見にきたのかと思って声を上げたが、返事はない。頭を振って事務所を見回すと、誰の気配もなかった。今のは野良猫か何かだろうか。

 かろうじて、教科書の56ページまで進んだ記憶があった。時計を確認すると、時刻は四時半を示している。自警活動で疲れたのか、時間を無駄にしてしまった。


「朝じゃん」


 冷蔵庫から母謹製のシソジュースを失敬して、頭脳に糖分を供給する。六月はまだまだ肌寒いが、シソ特有の芳香がついた甘酸っぱい味は夏の味がした。

 仮眠して、身支度を整えて、その前に寝る直前までかかっていた箇所の復習をしておこう。哲也が鉛筆を手に席へ戻ると、再びがたん、と音がした。

 びくっと肩を跳ね、そういえば何の音だ、と血が巡りだした頭が疑問を持つ。


「なんだよ」


 室内に普段と変わった様子はない。戸締まりや事務用品を確認したが、哲也が聞いた物音の原因はやはり見つからなかった。

 ポケットから煙草の箱を取り出して、鉛筆がないことに気がつく。音がした拍子に落とすとは、存外自分は臆病なのかもしれない。いや、急に音がすれば誰だって。

 事務机の下にもぐると、スチールの脚が狭苦しい空間を作っていた。部屋の電灯は半分しか点けておらず、反対側の机はほとんど闇の中だ。


 この暗闇を何かが横切ったりするだろうか。あるいはまた、物音がしたりは。こんなことに怯えるのは男らしくないが、今は〝口無し様〟が町にいる。

 鉛筆はほどなくして見つかった。哲也は無事に蛍光灯が照らす光の中に戻り、ほっと安堵する権利を与えられる。灰皿を引き寄せ、哲也は深々と煙草を吸った。

――ほら、結局何も起きないじゃないか。

 くだらない思いこみをしてしまった、と己を恥じて哲也は教科書を開いた。自分には簿記や店の業務など、もっと重要なことがいくらでもある。

 事務所の中でまた、かたりと音がしたが、それはごく小さなさざめきに過ぎず、哲也の興味を引かなかった。彼はもはや心乱されることなく、勉強に集中している。

 さざめきは哲也の背後へ近づいてきた。



 金曜朝。妻子が居なくなり、がらんとしたとつぎ家に黒電話の呼び鈴が鳴り響く。


「はい、帰ですが」

森之進もりのしんさん! あのばけ……口無し様がうちに来ました』


 挨拶もそこそこに、若い男の声が興奮してまくし立てた。


「君は確か、工務店の」

『あ、すみません。望月工務店の哲也ッス』


 それで森之進は相手を思い出した。昨夜、河野こうのごうが祭原慈愛を監視するにあたって寄越した連絡役だ。今の所、慈愛に不審な動きはないようだが。


「で、君やご家族は無事なのかい」

『はい、この通りぴんぴんしているッス。森之進さんがくれた御札のおかげで、口無し様は逃げていきました! なんかアロハシャツとか着ているんですよ』


 アロハ? と一瞬首を傾げたが、重要な点ではないので森之進は無視した。身長や長い黒髪、縫われた口など特徴を確認し、確かに口無しに襲われたと判定する。

 哲也との通話を終え、森之進ははやる気持ちを抑えながらも、満足感を覚えた。

 月曜に自警団が結成され、今日で五日。四日の間に森之進は不眠不休で、家に伝わる文書を改め、口無しの封印を施した先祖の日記を見つけ出した。


 哲也が言う御札とは文字通りではなく、森之進がこれはと思う呪詞じゅしを書き記したものだ。いざとなればこの通り唱えるよう、団員に配っておいた。

 ただし河野号には渡していない。賽銭さえも拒まれるような奴に持たせたら、こちらにどんな火の粉が降りかかるか、分かったものではないからだ。

 その危険性を踏まえた上で彼に霊術を試してみたが、生命力を吸い取られるような感覚があった。やはり号の身体はどうだん様の苗を拒むのだ。

 その状態でも、霊術は森之進の生命力を使って作用をもたらした。妙なものだ。


(霊術とは本来、そういう物だったのかもしれないな)


 最近良く聞く気の力、中国拳法や気功なるものに通じるのではないか。己が生命力を操って心身を保ち、時にその作用を他者にまで及ぼす。

 では今の霊術は、と思わないでもなかったが、何事も時間と共に変わるものだ。狂った神がどうだんでも、口無しでも、関係はない。

 森之進にとって大事なことは、他にある。



 昨夜から今日の昼にかけて、〝口無し様〟による複数の襲撃が確認されたが、どれも自警団の所属者で〝御札〟を持っていたため事なきを得た。

 唱える前にやられては意味がないのでは、という意見もあったが、「書いた紙を持つだけでも霊験あらたかなのでは」との見解が出た。


「これで決まりだな。まず慈愛を引っ捕らえて、口無しを仕留める」


 今週の克生は午前中だけ出勤し、午後はクチナシへの対処に当たっている。それは今のように祭原の大広間を開放し、自警団と会議を行うことも含まれた。

 号も駐在としての業務のほとんどをこちらに割くハメになっているが、むしろそれを断った方が住民に非難されそうな有り様だ。

 火曜から水曜にかけては安否が分からない年寄りなども出たが、襲われたのか単なる耄碌もうろくか判断しづらい。号は嫌な予感と共に挙手する。


「あの、すみません。引っ捕らえるって何をしようってんですか?」

「そりゃ痛い目を見せて、好き勝手出来ないよう閉じこめるんだよ」


 克生は艶やかな黒いかおに、残忍そうな笑みを浮かべた。団員たちが同調する。


「なんだよ、駐在さん。暴力はいけないとか言わねえよな」

「相手は化け物の手先だぞ」

「早くしねえと何人死ぬか」


 彼らの慈愛に対する敵意は日々高まっていたが、リンチが起きるのは避けられないようだ。号としては署に応援を頼みたいのだが、

――何もかもやっこさんの言った通りか。

 無力を感じながら、号は大人しく彼らに従うことにした。だが胸中では、かえって復讐の炎が燃え立つ。誰が悪いとか何が悪いとかはもう、どうでも良かった。

 会議が終わって人がはけた後、克生に話しかける。


「克生さん。昔、祭原の病院にオレの妻がお世話になったことがあったんですよ」

「へえ、縁があったもんだな。今はどうしているんだ?」


 自分たちにかかれば治らないなどということはない、と。まったく疑っていない様子が、克生の目元からも口調からもありありと感じられた。


「死にました」


 話の振り方としては非常識なのは、号も承知している。当然の権利として、克生は眉をしかめて口元を歪めた。何だ急に、言いがかりなんて付けやがって、と。

 ぴりっと静電気のようなものが克生の体に走った気がした。


「祭原の病院には一族の方が多く勤めていて、現代医学と並行して霊術での治療も行っているんですよね? だからほとんどの人は快癒する」

「ほとんどは、な。事故で即死したり、手遅れの人間までは無理だ」


 そこまでは号にも分かっている。


「妻はそういうのじゃないんですよ。婦人科の病気で、長期入院していたんですが、容態が急変して、そのまま命を落としました」


 克生がまとう気配が、ぴりぴりした静電気からチリチリと空気を焦がす火花に変わっていくのを号は感じた。不愉快で堪らないという言外の威圧と共に。


「それを訊いてどうしようってんだ? 俺は外科だからまず担当者じゃないし、当主だからって今さら遺族に詫びろってのかよ」

「そういうのじゃない、そういうのじゃないんですよ」


 へらり、と号は如才ない、だが薄っぺらい笑みを満面に貼り付けた。


「オレ霊術って仕組みはよく分からないんですけどね。あれって傷や病を治せるんですよね? じゃあ、その反対も便利に出来ちまうんじゃ――」


 口が滑ったと思った瞬間、号は克生に首元を締め上げられていた。

 ひびきの死について彼の見解を訊こうと思ったはずなのに、お前が殺したのかと言っているようなものだ。森之進が「克生!」と声を上げ、友人の腕を押さえる。

 ぎらぎらと張りつめた黒い瞳の中に、剣先のような破壊衝動がずらりと並ぶのが見える気がした。ミキサーのような奈落の奥に、なぜだか一つまみの恐怖がある。

 号のではない、激しい怒りと憎しみに隠れながら、克生が何かに怯えているのだ。


(まさかコイツ、本当に誰か殺したんじゃないだろうな)


 森之進によって引き離され、号は呼吸を思い出して咳きこむ。克生は音を立てて、近くの襖を蹴った。それをなだめながら、森之進が「何のつもりですか」と訊ねる。


「何って……」


 問いただすにしても、もっと言い方があっただろうに。号は恥じ入りながら、どう言い訳した物かと思案した。


「オレは別に、責めようとか謝罪して欲しいとかじゃないんですよ。ただ、霊術が何かのきっかけで、人に害を及ぼすことがあるのか、確かめたかったんです」


 本当か? と二人はじろじろと疑いの眼差しで舐め回す。森之進は「皆気が立っている時に、妙なことを言い出さないでください」とため息を吐いた。

 克生は頭痛を堪えるように、深くシワを刻んだ眉間を手で押さえる。


「駐在、慈愛に妙なことを吹きこまれたんなら、忘れちまえ、そんなモン」

「はい、失礼しました。監視して分かりましたが、確かに彼は魅入られています」


 号の感想は嘘ではない。慈愛はクチナシをちやほやし、かいがいしく世話を焼いて勝手に幸せになっている。無償の愛を捧げられること自体を悦んでいた。

 しばらく克生にぶつくさと文句を言われ、説教されたがそれで終わりだ。


(オレはただ、ひびきの魂が救われるよう働くだけだ。兄弟のどっちが正しいかなんて、知ったこっちゃないね)


 昨夜の晩餐で号は色々な話を聞かされた。検証も済んでいない情報を克生たちに渡すのは、今ではない。手がかりはもう、号の手の中にすべて集まっていた。



「まま……」


 病室のベッドで、美登里は高熱を出して眠っている。両腕には紫のアザでまだらになり、他の皮膚は所々が腐乱死体のように暗緑色に変わっていた。

 昨日一昨日までは半身を起こし、会話も食事も出来ていたのに今日はこれだ。傍らの森之進は娘の腕を取って、祝詞を唱えながら懸命に霊術を施し続けている。

 汗にまみれるか細い手は不自然に熱く、父の手を握り返す力もない。


(これが、ぼくの報いか?)


 ずっと、森之進が恐れていた日が来てしまった。

 相手がよみがえった死者だと分かっていてなお、育乃を愛することも、夫婦になることも諦められなかった。そして生まれてしまったのだ、死者と生者の間の子が。

 美登里は死体から生まれたのか、生者から生まれたのか判断がつかなかった。ただ、自分と愛する妻の子だということだけが事実だ。


 四人目の育乃が車に轢かれて死んだ時、森之進はいつも通り遺体を腑分ふわけして、〝どうだんの苗〟と共に鉢へ植えた。

 鉢植えが芽吹いて彼女を形作り、根を切って動けるようになるまでの数週間――周囲には入院だと偽って――美登里は体調を崩した。

 それは今ほど激しくはないが、アザや発熱、暗緑色に変わる皮膚といった症状は共通している。森之進は、娘がまさしく生者と死者の合いの子だと理解した。


 よみがえった死者である母がこの世にいる間は、美登里も元気だ。だが母が死者に戻れば、娘もまた徐々に死者へ戻ろうとする――つまり、死に向かう。

 ただ愛する人を求めただけだった。この世はただそこに居るだけで、大きな対価を支払わされる。時に押し流されて、過ぎ去らないものは一つとしてない。

 そんなことは我慢できない。

 育乃を喪った上に、娘を苦痛にまみれた死に落としてなるものか。もしクチナシを捕らえることが出来たなら、奴の力で美登里の命を救えないだろうか?


 カーテンの向こうで、誰かが入ってくる音がした。

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