二十 汝が憤怒は誰がものか
ある男子がカエルの肛門にストローを突っこんで、空気を入れて破裂させたのを見た時は大笑いしたが、真似しなかった自分はずっと優しいとさえ思う。
実態は、単に克生がカエルやミミズは手が汚れるから嫌だった、程度のことでしかない。芋虫は、刺されると毒があるからと母に止められた。
『
ある日、母がぱちん、ぱちん、と花鋏を使って生け花を作るのを見て、克生は蝶の羽根をハサミで切り刻むことを思いついた。女の子はチョウチョが好きだ。
育乃は箱を嬉しそうに箱を受け取ったが、中を見るなり悲鳴をあげて泣き出した。
『おにいなんか、だいきらい!!』
その後は激しい兄妹喧嘩だ。いや、克生が妹の髪を引っぱり、一方的にビンタをくり返したので、喧嘩にすらなっていなかったが。
彼は彼で、純真な真心で手間をかけた贈り物を拒絶されて、かんしゃくを起こしていた。大人たちに引き離され、育乃は酷いやつだと母の膝で泣いたのを覚えている。
今思い返しても、脚や眼のある胴体のない羽根だけが、なんであんなに嫌がられねばならないのかと、克生は腑に落ちない。
十一歳の時、『昆虫採集セット』が発売された。
箱には蝶やトンボ、蝉、カブトムシといった昆虫のイラストと、虫取り網を持った麦わら帽子の少年が描かれている。克生は母にねだって早速買ってもらった。
「悪いことをしなさい。少しずつ、少しずつ」
その時初めて、
セットの中身は注射器・ルーペ・ピンセット・防虫剤・防腐剤・虫ピン。
生きた虫の体に針を刺し、薬を注入する。その防虫剤だの防腐剤だのはただの色水で、薬効も何もなかった代物だが、克生はすっかり昆虫少年になった。
初めて図鑑を手に取り、自分が今まで殺めてきた虫たちが何という名前なのか、どういう生態かを知るとその無知に恥ずかしくなる。こんな面白い生き物がいたのに、あんな風に遊び散らしてしまうなんて。世界が広がるとはこのことだった。
だが。
「昆虫学者になるだと? 将来は医者になると自分で言ったのを忘れたか」
十一歳が降参するには充分な暴力と恐怖だった。景克の前では怒りも気概もたちまち逃げ出して、ただただ怖くて、怖くて仕方がない。
父の怒鳴り声に時々混じる、「もうやめて」と叫ぶ母の声だけが救いだった。幼い育乃は怯えてどこかに隠れて、終わってから慰めに来る。
もちろん、集めた昆虫標本も図鑑もすべて捨てられた。
そして
小学校に上がる前から克生には家庭教師がつけられ、定期的に行われるテストの点数が悪いと父の部屋に呼び出された。そして長々と説教され、打擲される。
冬の夜に外へ追い出されると、暗闇が怖く、寒さが辛く、何より明かりが灯る家の中に自分が居ないことが惨めで、喉を枯らして父に許しを乞うた。
だが、違う。
――うちのおとうさん、おにいにすごく、ものすごーくキビしいんです。テストでまんてんじゃないと、たたいたり、どなったり。だから、らんぼうモノになってしまった、っておかあさんはいっていました。
人づてに育乃が、いや母がそんなことを言ったのを耳にした時、克生は酷く怒りを覚えた。違う、違う、自分は父から受けた仕打ち程度で乱暴を働くのではない。
祭原家の長男である自分に無礼を働いた者には、思い知らせてやらねば気が済まない、そうだろう? 欲しいものを手に入れるには、恐怖と暴力こそが有効だ。自分の力を利用して、他者を支配していると証明するときの快感は何にも代えがたい。
この衝動も、悪意も、自分自身のものだ。父の影響は関係ない。怒りこそが己だと克生は自負している。それに、教育方針は正しかったではないか。
どいつもこいつも馬鹿だらけの学校で、優秀な成績を収めることは容易かった。スポーツは生来の気質に合い、ほどほどに打ちこめばどの競技でも結果が出せる。
容姿だって、父の若い頃に似てハンサムだ。
だが自主学習は欠かさない。夜遅くまで勉強していると、母が夜食や温かい飲み物を持ってきてねぎらってくれるので、それを区切りにして休んだ。
日々の憂さ晴らしに誰かを小突いたり、押したり、時には殴ることもある。自分の手を汚さず追いつめることも。それで壊れるなら、弱いのが悪い。
そして十四歳の時、父が母以外に女を作り、しかも遺された男児を引き取ると言い出した。正気かと思った。母の美智代ほど素晴らしい女性はいない。
いつも夫の三歩後ろをついて歩く淑やかな女性で、若い頃はさぞ美女だっただろうが、いかに年月を経ようと所作の上品さ、心の美しさは変わらない。
美智代は掌中の珠を愛でるがごとく、ずっとずっと克生に寄り添ってくれた。あの温かな愛情を伴侶として得た男が、それで満足できないのが不思議で仕方がない。
瞬間的に、父を殺そうと思った。自分が罵られるのも、辱められるのもずっと飲みこんで期待に添おうと生きてきたのだ。優秀な自分を確かにあの男は作り出した。
だが母を裏切るのだけは駄目だ。
誰もが寝静まった夜。克生は金鎚とタオルを持って、景克の寝室を訪れた。手早く殺したら部屋を荒らして、窓を割って強盗のせいにする。
じくじくと心臓が膿んだような胸の痛みが、憎悪なのか殺意なのか分からない。ただ腑分け出来ない泥づくの感情が、夜闇をよりいっそう深めて見せた。
不倫の一件が判明して以来、母は父と寝室を別にしている。だからこそ安心して襲えると言うものだ――金鎚を構え、いつ襖を開けるか克生は機会をはかった。
あいつの顔を見るも無惨なものにしてやる。刃物ですぐに死なれてはつまらないから、鈍器で苦しめてやろう。目玉が飛び出すほど殴って、鼻の骨を完全に潰して、歯は全部叩き折る。指の骨もだ。顔中血まみれにするまでトドメは刺さない。それから、それから――
「私が憎いか?」
克生は逃げ出した。
頭は真っ白で、脊髄反射だけで動くロボットのようだ。自分の部屋で布団に飛びこみ、どっと汗が噴き出すと同時に怒りと恥と恐怖に塗り潰された。
うっと嗚咽が出て、呼吸は浅く、鼓動は激しすぎて、心臓が消し飛んだようだ。泣くことも出来ずに、克生は朝まで眼を見開いて縮こまっていた。
父に気づかれたことが何よりも恐ろしくて、どんな罰を受けるのかと怯えていたのに、翌日は何もなかった。何も起きていないことにされた。
父にとっては、息子に殺されかけたこともその程度なのか。いいや、それで良いのだ、だって彼は正しい。自分は景克の最高傑作で、異母弟はそのスペアに過ぎない。
だが母を苦しめるものは許せない。
「はじめまして、カイおにいさん。ぼくはシゲミっていいます」
そいつを前にした時、克生は怒りで目の前がはじけ飛んだ。
◆
「先生、奥様からお電話です」
勤務中に看護婦から連絡され、今さら何の用だと克生は苛立ちを覚えた。
『お義父さん、亡くなったんですって?』
「葬式の案内ぐらい見ただろうが」
百合子とは大阪に出張した時に出会ったが、いい女だったと思う。美しく、更に己を魅力的に飾り立てる方法をよく知っていて、会話していて楽しい。
男は彼女を一目見れば、三分でも話してみたいと思うだろう。三分話せば三時間はともに過ごしたいと思い、三時間過ごせば三ヶ月を過ごしたくなる。
だが三年も過ごすことには耐えられない。
『出席しなかったのは本当に悪かったって思っている。でも、私アメリカに居たのよ? やっと日本に帰ってきたんだから、そう怒らないで』
「海外から電報ぐらい出せ」
『へぇ、そういうの使えばいいのね』
多少値は張るが、海外から日本に弔電を送るぐらい不自由ないカネは持っているはずだ。だが百合子の口調は、分かっていてとぼけている。
「あのな――」
『でも、あなただって死んでスッキリしてるんでしょ? お義父さんのこと大嫌いだったもんね。もしかしたら、自分でやっちゃったりしてない?』
克生は受話器を叩きつけた。遺産がどうのと最後に聞こえたが、あの女にはどうせ関係のないことだ。
――もしかしたら、自分でやっちゃったりしてない?
は、と愛情がまた一枚、剥がれ落ちるように笑いがこぼれた。
まったく嫌な女だ、馬鹿な振りして核心を突いてくる。百合子の冗談と本気の区別がつくぐらいには、克生も一時心を寄せていた。
確かに景克を殺したのは自分だ。
やってみればずいぶんと簡単だった。霊術が生命力を賦活するものであれば、それを逆用できないかとは以前から考えていたのだ。
免疫機構が暴走して自分の細胞を攻撃してしまうように、人体は何でもかんでも折り目正しく仕事する訳ではない。
――確と人体の仕組みを覚えろ……霊術は漠然と使うよりも、患部を把握して力を送りこむ方が覿面に効く。
まさに父の言った通り。大動脈解離に見せかけて心臓を仕留めるという克生の案は、完璧だった。景克が高血圧を抱えた時から、死んでくれないかなと思ってはいたが、それを自分の手で早められるとは。高齢を理由に蘇生もしなかった。
これで自由だ。俺はようやく、自分で選んだ俺に成った。
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