十九 金魚は森に棲めないから
※
「これ君の御国治め
(
をすくに、という言葉がある。辞書を引けば「食す国」、天皇が統治する国と説明されており、古事記にて
食う、飲むの敬語形とも説明されるが、ヲスは「我が物にする」という意味合いの用例が多い。自分の物として飲み、食い、着て、統べるのだ。
しかし、現実問題として考えた時、「国を我が物にする」ということは出来かねる。施政者がどうあれ災害は起こるし、民の行いは思い通りに操れない。
中国で生まれた天人相関説は日本にも伝わった。君主が善政を敷けば天が祝福し、悪政を働けば災害を持って咎めるという思想だ。
それは呪術の仕組みとして扱うことは出来るが、一国に対して通用するほど巨大だったことは未だかつて無い。国を我が物にするとは、概念の上でしかないのだ。
例外は、神々だけである。
※
クチナシの目的は分かった。
「
「あなたがすでに、他の神のものだからだ。強力な加護に覚えがあるはず」
「それ、魚に関係するか?」
「心当たりがあるなら何よりです」
だが、それには矛盾が存在する。
「霊術ってのは、植えた苗の力で傷や病気を治すんだろ。オレは
「どの程度の怪我かにもよりますね」
「鳩尾にこう、イイのを一発。内臓にはキてないが、放って置いたらアザになったんじゃねえかな。そんぐらいだ」
言ってから、これ軽いか? と号は森之進の薄い目鼻立ちに思いを馳せた。
「そのぐらいならば、霊術使いの生命力だけで癒やせるでしょうね。祭原も帰も、神の力を受けている以上、常人より強くなっているので」
「便利なもんだなあ」
間の抜けた感想を述べながら、やはりあの神主は油断ならないと認識を新たにする。突然号を殴ったのは、妻の失踪で錯乱している八つ当たりではないかと思っていたが、もしかすると苗を植えられるかどうか、確かめていたのかもしれない。
そもそも、森之進は何も言わなくとも金魚の特異性を見抜いていた。
「少し、オレの話も聞いてもらおうか」
皿はあらかた空になっていた。自らの記憶をたどり、号の呼吸はゆっくりと穏やかになっていく。視線は宙を、さらに遠くを彷徨って焦点が定まらない。
「三年前、オレの妻は祭原総合病院に入院して死んだ。神島の親戚に良い所だって紹介されたが、直前まで、この病院の人間に草が生えているって訴えていた」
――ここはきっと、あの草を治療する病院なんだよ。そう、苗床、苗床にされた人から退院して、誰も見ないフリして。
暗闇、あるいは黒一色の空間で、ひびきが必死に叫んでいる。彼女は自分の体を抱きしめて、苦痛を押さえこむように身をよじっていた。
『ごっちゃん、助けて! 痛い、痛いよ。体の中で何か……』
手が痛いと言えば、爪が剥がれて草が伸びる。血塗れの生爪が散らばる様は、皮肉にも花弁のようだった。
足が痛いと言えば、膝を割って枝が伸びる。醜く節くれ立った樹皮は、聞くに堪えない絶叫をそのまま形にしたようだ。
腹が痛いと言う彼女に「何も言うな!」と叫ぼうと、号の声は形にならない。表皮も皮下脂肪もぶちぶちと音を立てて裂け、咲け、赤や青や紫や白や桃の花々が粘膜をめくり、胆汁や血液やリンパやその他もろもろの体液を飛び散らせる。
ひびき、と号が妻を呼ぶと、彼女の体から生えるつる草が、無惨な姿を暗闇の奥へと引きずり込んだ。追いかけた号の前に、一本の大樹が現れる。
空間いっぱいに広がって端が見えないほど、現実感のない巨樹には注連縄が巻かれていた。ひびきの姿を探し、何気なく上を見た号は後悔した。
苦痛に眼を剥き、血にまみれた彼女の頭が何十個と、果実のようにぶら下がっている。それらが一斉に、亡霊のようにうっそりと呻いた。
『たすけて』『ごっちゃん』『みのって、おちて』『つぶれて、くさって』『ここに』『なりつづけるの』『えいえんに』『たすけて』
号が子供の頃、絵で見た地獄の亡者だってここまで酷くはない。日差しのように温かく明るい声も、輝く笑顔の面影もなく、助けを請う苦鳴だけがこだまする。
なぜここまで、妻が貶められなければいけないのか。
「……最近、彼女が苦しんでいる悪夢ばかり見る。身体を葉やツタに食い破られて苦しんだり、木の実みたいに同じ顔がいくつも、助けて助けてって言うんだよ……」
頼むから、あれはただの夢だと言ってくれ。ひびきはまだ死に切っていなくて、この世ならざる地獄で今も苦しんでいるのではないと。
「ひびき……妻の名前だ。平仮名で書く。ひびきが祭原に苗を植え付けられたら、治療されて退院出来るはずなのに、そうはならなかったのは何故だ? 彼女は……まあ、婦人科の病で……でも、すぐ死ぬような状態とはほど遠かった」
「何故彼女が命を落としたか、答えるのは簡単ですが。聞きたいですか?」
慈愛の言葉に号は席を立ち、身を乗り出した。
「それを知るためオレはずっと動いていた!」
「では言いましょう。彼女がお亡くなりになったのは、おそらく祭原の霊術と、あなたが受けている加護が反発しあった結果です」
怜悧な眉の根を寄せ、慈愛は憐憫の眼差しを向けた。あなたの苦しみに覚えがある、という理解と、自分にはどうしようもないという冷たさ。
けれど、同情や共感の生半可な温度を取り払った瞳が、号には心地よかった。
「……どうして、オレの加護が彼女に関係する」
「婚姻です。あなたと彼女は夫婦になり、呪術的に強い結びつきを持った。あるいはあなたが彼女を愛するが故に、加護の範囲が広がったのかもしれません」
どういうことだ。
「どっちみち、祭原に入院した時点で死ぬか、ゾンビになるかの二択だってか」
「中途半端は良くないからなァ」
あっけらかんとクチナシが言った。慈愛が冷蔵庫から出してきたさくらんぼを二股の舌でもてあそびつつ、ちまちまと食べていた所だ。
アロハシャツに印刷されたハイビスカスの鮮やかさが、悪夢を思い出させて嫌になる。クチナシは号に人差し指を向けた。
「加護を与えるものを夫婦で拝めば、それは祭原に行くことを許さなかったはずだァー。おまえが神助にあぐらをかいて、礼儀を欠いたのが悪ーぃ」
けらけらけら、と笑われて、煮えた血が頭に上り――
ぶつん、とブレーカーのように号の気勢が落ちた。
人間以上であることと、人間以下であることにどれほどの差があるだろう? 同じヒトではない何かの言うことに、いちいち腹を立てても仕方がない。
号はため息をついて座り直した。
クチナシのことは正直怖いとは思う。だがそれは台風のように、深海のように、自分には手も足も出ない脅威だ。目を付けられたら、諦めるしか出来ないほどの。
「あんたらの言うことを、頭から信じたりはできない」
「そのぐらい慎重な方がこちらも助かる」
入れ替わりに慈愛は立ち上がって、空の皿を片付け始めた。
「奥さんの死について、彼らに問いただしてみるといい。おそらく、満足できる回答は得られないだろう。どうだん様を狂わせたことすら、記録から葬った連中だから」
「記録にないことをアンタが知っているのは?」
「兄さまから教えられた」
案の定だと思いながら、号も残りを平らげて後片付けに入る。結局たんまりとご馳走になったのだから、手伝わず帰るのも悪い気がした。
悪夢のことを慈愛やクチナシに問う勇気はない。クチナシは一人、手伝いもせずごろんとソファに寝っ転がった。それを見る慈愛の眼差しは優しい。
親と子のような、ペットと飼い主のような、底なしの愛情、だろうか。
別れ際に、慈愛は一言付け加えた。
「この地は穢れたしびとの町だ」と。
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