十八 口無し、くちい、くちる、朽ちる、腐る
無防備に
「シゲミィー、コーノゴウを見つけたぞォー」
「兄さま、お手を煩わせました。ありがとうございます」
咳きこ込みながら聞く声は二つ、一つは
瞬間的に締め上げられた気管と血管が解放され、酸素や血流が熱と共に頭へと上るが、腹の底はゾッと冷えこんだ。目眩がするが、立てないほどではない。
すっと白い手のひらが差し出された。ポロシャツ姿の慈愛だ。
「手荒な招待で申し訳ない。河野号さん」
血気にはやるまま号は手を振り払い、後ろに飛び退く格好で立ち上がった。口無し様という化け物を前にして、相手を刺激すべきではなかったかもしれない。
だが慈愛は落ち着いて、ごく静かに言葉を続けた。
「あなたに危害を加えるつもりはありません。私たちはこれから夕食なのですが、ご一緒に一杯いかがですか。夜食につまんでください」
「シゲミの料理は、ウマいぞォー」
天井に頭をすりそうな背丈を折り曲げて、アロハシャツの大男が楽しげに言った。長い黒髪の下から覗く口も笑っているが、白い牙の切っ先が見えている。
この間の着物はなんだ、口無し様ってアロハなんか着るのかと号はやや困惑した。けれど悪夢の中とはガラリと違い、親しみやすい雰囲気だ。
墓場での屍食いは忘れられないが、あの時よりはまだ人間のように見える。
「いや、オレは……差し入れの弁当もらったんで」
取りに行く素振りを見せると止められることもなく、号は拍子抜けした。冷静に考えた結果、今すぐ襲われないと仮定した発言は正解だったようだ。
車に戻って金魚を探したが見つからず、そっと手を合わせて弁当を手に戻ると、彼らはまだ食事せず待っていた。〝あなたは戻ってきて、私たちと話し合う〟と信じて疑っていない。号は降参して、食卓につく前に一つ警告した。
「四時だ」指を四本立てて。「午前四時に見張りの交代が来ることになっているが、他にも誰か来るかもしれない」
「お互い、話したいことを話すには充分な時間だ。さあ、冷めない内に」
指し示された食卓は見事なものだ。大きな丸テーブルにクロスがかけられ、ぎっしり料理や日本酒の瓶が列べられている。隣の台には業務用炊飯器まで。
天ぷら、だし巻き、焼き魚に刺し身の盛り合わせ、ナスとピーマンの揚げ浸し、籠いっぱいのサクランボ、洗い立てのキュウリとトマト、味噌汁の入った大鍋。
七、八人で宴会でもするのかという量だったが、慈愛が帰宅して二時間も経っていない。出前を取ったとは聞いていないし、どうやって用意したのやら。
「これ、もしかして口無し様と慈愛さんが?」
「おれは炊飯器のスイッチ、押しただけだぞォー」
最近の妖怪は家電製品も扱えるのか。慈愛は料理を一人前に取り分けた皿と、汁椀を号の前に置いた。こちらは弁当があるのに、食べないと悪い気がしてきた。
「兄さまが食事を用意したら、火も刃物も使わない素材そのままが出てくるだろうな」前半は柔らかく、後半は誇らしげに。「もちろん、すべて私が料理したが」
「え、あんな短い時間で?」
「先に仕込みを済ませてあるんです。刺し身は店で切ってもらいましたが」
言って、慈愛が柏手を打つと号はぎくりとした。
「御子クチナシの大前に、祭原慈愛かけまくも
祭原景克の遺体が、目の前の怪物に貪り食われた光景が脳裏にひらめく。暗闇で見えなかった細部を想像力が補完しようとするのを、号は懸命に打ち消した。
「
「
五人前はある焼き魚の山が、一瞬で消える。
なるほど、と号は得心した。大皿に乗せられた料理はすべて口無し様の分なので、あらかじめて別皿に取り分けないとすぐ無くなってしまうのか。
号は膝に乗せた弁当をどうすべきか考えた。どうせ冷めているのだから、これは朝食にでも取って置いて、目の前にある熱々の出来立てを頂く方が良かろう。
まずは一つ、天ぷらあたりから。
「いただきます」
きりっとした衣の固さと、崩れる瞬間のサクッという小気味よい食感は最高だ。油に包まれた万願寺唐辛子は肉厚で、甘みの中にほんのり感じる苦みが酒に合う。
しかし号とて、友人の家で夕食に招かれている訳でも、そんな時間でもない。軽やかな油の輝きにきらめく海老や椎茸を横目に、話題の切り口を探す。
「……どこかの店で修行を?」
「そう出来れば良かったが、祭原の男子は医療に携わるのが義務でね」
料理人になりたかったのかと思うと、この腕前も納得だ。
「しかし河野さんが訊きたいのは、そんな話ではないでしょう」
「おかわりィ!」
水を向けられた号が口を開く前に、口無し様は元気いっぱい空の丼を差し出した。慈愛は「彼の食事より重要なことなど他にない」と言わんばかりに、恭しくご飯をよそって返す。肩透かしを食らった号は、味噌汁に口をつけて気を取り直した。
「慈愛先生、いや慈愛さん。お姉さんの
「河野さん、あなたは苗を植え付けられない、貴重な人間だ。出来れば私たちの行いを理解して欲しい。
以前なら何を馬鹿なことを、と取り合わなかっただろうが、今は目の前に口無しが居る。しばらく、当の化け物がどんぶり飯を咀嚼する音だけが続いた。
やがて「おかわりィ!」という脳天気な声が沈黙を破って、慈愛がよそい返した所で号は再び口を開く。
「……何でだ。いくら死んだ人間だとしても、あんたの姉なんだろう」
「大切な相手だからこそ、許せないことがある」
慈愛の声は頑なだが理性的で、固い決意と覚悟があるように号は感じた。彼を狂信者と言ったのは
――死んだ人間が生き返るなんて、気味が悪いものです。
――よみがえった死者がその人自身だと誰が証明できますか?
――ペット・セマタリーがあったとしても、何者も埋めてはならない。愛する者をもう一度葬りたくなければ。
「よみがえった彼女は、彼女自身じゃない、から?」
「良い線ですね、河野さん。あれは特に森之進が手がけた特別製ですが、それでも歪みが出ていた。ゾンビや吸血鬼、不死の怪物を英語でアンデッドと言いますが、 Un-deadの語そのものは〝死にぞこない〟という意味だ。よみがえらされた死者は、生きることも死ぬことも許されない、おぞましい存在に身を
慈愛は自ら酒瓶を傾けて、日本酒をコップであおった。ぐ、ぐ、と一飲みごとに白い喉が動き、半分以上残った杯を置いて言葉を続ける。
「それが、私には耐えがたかった」
「姪の
「ええ」
静かな声音は文章につけられた句点のように、決してここを動かないという断固とした意志を見せていた。それで、彼は感情だけで言っているのではないと知れる。
「冷めたり乾いたりする前に、どうぞ。ここからの説明は長い話になるので、ゆっくりお食事しながら聞いてください」
とてもそんな気分ではなかったが、号は従うことにした。やり方はどうあれ招待を受けた身なら、主の意向に沿わないのも失礼というものだ。
白身の刺し身に箸をつけると、脂がのっていて美味い。今が旬のイサキだろうか。
「祭原には、代々伝わる不思議な力があります」
「霊術のことか」
「ご存じなら話が早い。いつしか彼らは霊術の究極を求め、死者の蘇生という禁忌に手を出しました。結果、力の源であるどうだん様は狂った」
来たぞ、と胸を殴られたような鼓動が号の胸を衝き上げた。死者蘇生、反魂樹、ひびきの死。それに繋がるかもしれないパズルのピースが。
はやる心を静めるように味噌汁をすすると、身体にグルタミン酸が満ちた。
「狂ったどうだん様が正気の部分として切り離した分霊は、神としての格を保つのも危ういほど力を失い、何とか肉の器を得て身を守った。それがここに
「なんか話が大きくなってきたな」
本格的に酒が欲しくなり、号はとうとう瓶ビールを一本もらった。もはや素面で聞ける内容ではなさそうだ。酔い潰れては元も子もないから、一本だけ。
「死者蘇生のすべを手放したくなかった彼らにとって、もはや兄さま――正気のどうだん様は不要な存在だったが、かと言って人間ごときが殺せるものでもない。かくして、彼らは〝口無し様〟という呪いの名を与え、他にもさまざまな封印を施して祭原の地下に閉じこめた。ここまでは良いか?」
「ああ、実際に地下の座敷牢も見たよ」
――祭原慈愛は不義の子で、霊的な力を持つ一族で才能にも恵まれず、化け物の世話をする捨て駒にしたと、あんたらはそう言うのか。
「祭原は傷や病を治療する霊術と、死者を蘇らせる秘術に現代医学を合わせて栄えた。しかし、力の源が生死を狂わす白痴の神となったため、それはもはや呪われた行為でしかない」
「……そいつはもしかして、反魂樹か?」
二本目のビールを空けて、号は確信を持った眼で問う。慈愛は軽く首を振った。
「反魂樹は例えであって、そのものではない。祭原が古くから崇めるどうだん稲荷の本体は、植物と蛇の神だ。祭原の霊術は、どうだん様の苗を人の身に植え付けて、霊魂を補完、または
「苗を、よそ者に植え付けたらどうなる」
「蝕まれる。そもそも、どうだん様の苗を受け容れることは、どうだん様がそのものををす、ということ。
「……お中元とお歳暮か」
つい最近、克生から同じような話を聞いたばかりだ。口無し……いや、もはや号もその呼び名を使いづらい。仮にクチナシとしておこう。
クチナシは一升瓶に口をつけて、ごくごくと豪快に中身をあおり出した。
「そう。あなたも知っての通り祭原は病院を建て、大勢にどうだんの苗を植え付けた。本来なら、よそ者に苗は根付かず枯れ落ちる。だが狂ったどうだんは、共生する苗ではなく、寄生虫と成り果てた。苗床にされた人々は、魂を食い荒らされている」
ごとん、と重々しく音を立てて一升瓶が床に置かれる。クチナシは二股に裂けた長い舌を出して、顎を濡らす酒を拭った。
「おれは、それを正しに来た。生ける死者、〝
「黄人草?」
慈愛が補足する。
「よみがえらされた人ならざる人、生きている振りをした死者のことだ。神道では人間のことを青人草と呼ぶが、黄はそれが朽ちた色ゆえに」
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