十七 命も時も思い出も、腐りゆく
料理人になりたかったな、と思い巡らすたび、
嫌々ながら就いたものでも人の命を預かる職、疎かにしてはならない。
「研修医の
新しく入院してきた患者に、慈愛はお馴染みの挨拶をした。患者は五十代男性、飯田幾三郎、腎臓病だ。白髪混じりの灰色の髪を伸ばして、うなじで軽くくくっていた。飯田は「慈愛と書いてシゲミ?」と名札をじろじろ見る。
変わった字面と読みだから、珍しがられるのは慣れていた。画数の多い漢字を覚えるのは大変だったが、母が自分に遺せた数少ないもの。気に入っている。
成人して身につけた愛想笑いであはは、と流していると、飯田が問うた。
「もしかして先生、旧姓は
「そう、ですが」
「母親の名前は
飯田は自分の顔を指さし、ぐっと身を乗り出した。
確かに慈愛の母は柘植由美子、職業は舞台女優だった。自分はよく母の興業に連れ回されて、いつも劇団の大人たちに囲まれていた。詳細はもう思い出せないが、漠然と当時はとても温かく、楽しかった感触がある。つまり幸せだったのだろう。
彼女が亡くなったのは七歳の時で、優しかった劇団員のことは顔も思い出せない。
「……カラツドーおじさん?」
胸中で何度か転がした名前が、心に隠れた型にはまると記憶の扉が開いた。
色艶は変わり果てても髪型は同じだ。きりりとした太い眉と、ほどよく焼けた小麦色の肌が特徴的なハンサムで、笑うと肌が輝き出すような魅力溢れる人だった。
一度思い出すと、顔立ちはほとんど変わっていなくて、すぐ気がつかなかったのが不思議なほどだ。病の影を抱えながら活き活きした表情筋は、今も魅力的だった。
「そう! そうだよ、やっぱりシゲ坊か~! 懐かしいなあ」
唐津土居は明らかに芸名なので、飯田が本名なのだろう。飯田は慈愛をぐっと引き寄せ抱きしめると、手のひらで背中を叩いた。
姉を別にすれば、慈愛は他人からの身体的接触を避ける。だが幼い日々を共に過ごした〝カラツドーおじさん〟に、そんな拒否反応は起こさなかった。
あのまま母が死ななければ、あるいは祭原に引き取られなかったら、自分はもっと人のぬくもりと共に生きてこられたのだろうか。
「……すまんなあ、シゲ坊」
飯田の声がしんみりと力を落とす。
「由美ちゃんのこと。おれら、何も出来んでよ……」
「二十年以上前のことですよ、別に今さら」
「いやいや! これはケジメってもんで」
慈愛を離したと思ったら、今度はベッドの上で正座し、飯田は深々と土下座した。病棟の大部屋で、そんな真似をされては困る。
抱擁された時から、実は他の入院患者から好奇の視線を向けられていた。
飯田は俳優としてのキャリアを積むことを優先して、由美子の見舞いをやめ、慈愛のことも他人事と切り捨てたことを詫びたが、もう終わったことだ。
「飯田さん、気が済んだら検診よろしいですか?」
「はは、あのシゲ坊が医者だなんてビックリだよ。顔立ちもちょっと、由美ちゃんの面影がある。女の子にモテるだろ」
「まさか」
業務に戻りながら、胸の奥が温かく埋まるのを慈愛は感じていた。飯田の謝罪はパフォーマンスじみていたが、彼は悪い人ではない。
忘れたことさえ忘却の彼方にやっていた思い出が帰ってくると、懐かしさで胸がいっぱいになる。普段緊張していた神経がくつろぎ、安らかな湿度を抱いた。
懐旧という感情には独特の味わいがあった。嬉しい、楽しい、悲しい、幸せ、それらのどれにも似ているがどれとも異なる、時間そのものに恋い焦がれる気持ちは。
時間の流れとは物質の変化だ。対して、過ぎ去ってしまった時は完成した箱庭のように変化することはない。人がそれを思い出せるか否かに、永遠はかかっている。
飯田と会うたびに、短いながらも昔話を聞いた。団員一同で祝った誕生日会のこと、慈愛がおもちゃを紛失して泣いたこと、飯田とは別の団員の手品で笑ったこと。
あんなことがあった、こんなことがあった、そういえば……とパズルのピースを埋めるように当時の記憶が鮮明になっていく。映像で、感触で、匂いで、音で。
ふちに幾つもの照明をつけた鏡、台本や進行表に目を通しているスタッフ、衣装係も音響も大道具も小道具も誰もが走り回って、幼い自分はやがて舞台袖へ誘導される。ステージへ飛び出してしまわないよう堪えながら、母の登場を待つのだ。
「具合はいかがですか、……飯田さん」
「すっかり良いよ。こんな田舎でと最初は思ったけど、シゲ坊には会えるし、腕は確かだって評判も噂以上だ! 腎臓がまだ二つともあるなんてな」
手術を終えて一般病棟に戻ってきた飯田は、胴体から葉やツル植物を生やしていた。これが全身に回る頃には完全に回復し、退院することだろう。
祭原総合病院では、軽い病気や怪我なら草に侵されないことがある。飯田もそうならば、という慈愛のもくろみは脆かった。
祭原や
あるのは元居た人間が植物に食い荒らされ、やがて骨と皮だけ残して乗っ取られるのでは、という不安だ。実際、以後の飯田と言葉を交わしてもどこか違和感がある。
思い出のカラツドーおじさんでも、入院患者の飯田幾三郎でもない、ゴムで作られた偽物のようだ。本人自身が発するのではなく、コピーした言葉を口にするだけ。
夜、一人だけの宿直室で、慈愛は飯田のことを思って泣いた。
患者が苗床に変えられるのは今に始まったことではないが、知った相手であること、思い出を穢された気持ちとが手酷く己を打ちのめす。
――辞めるだと? 何が不満かは知らんが、私への当てこすりで人生を棒に振りたいのか? この仕事の偉大さは、お前もよく理解したと思っていたがな。
辞職を頭に思い浮かべると、
祭原で働くのが嫌なだけだ。だが、余所で勤務医になっても、日々治療と称して草人間が作られていることを、自分が忘れることはないだろう。
何より、慈愛は
地下の座敷牢で兄さまの世話をしている間、慈愛はめきめきと料理の腕を上げていった。厨房に立つと「男が料理なんて」と変な目で見られるから、育乃の練習を手伝うという名目まで作って。プロの料理人は男ばかりなのに、変な話だ。
しかし景克は「祭原の男子たるもの医者となれ」と猛反対し、結局内科医に落ち着いてしまった。まったく、人はいつでも、自分以外のもので出来ている。
見るもの、聞くもの、食べるもの。他人の言葉、着飾る服、雨や風まで。ことに飲み食いは、一つ一つが己の身体を構築する過程そのものだ。
あんな葉緑素の侵略者ではない、もっと人間らしいもので人間は形作られるべきだろう。クチナシに再会するまで、慈愛は己の成すべき仕事に打ちこんだ。
◆
「おばあちゃん、ママ、どこにいっちゃったのかな」
水曜日、慈愛は院内で
姪は残念ながら、元気そうとは言いがたかった。何しろ日曜日からずっと母親が帰ってこないのだ、小学生の少女でなくとも辛いのは想像に難くない。
美登里に声をかけようと近づくと、美智代が何の色も乗っていない眼差しで慈愛を見つめた。貴方はここに居ないのよ、そうでしょう? と断じるように。
いつものことだ。見なかったことにして慈愛は立ち去った。美智代も孫娘のことは可愛がっているから、きっと励ましたり、お菓子を買って慰めるてくれるだろう。
木曜日、連日降り続いた雨が止んだが、心は晴れない。小児病棟に美登里が入院したからだ。もはや一刻の猶予もなかった。
土曜日には、景克の没後十日に伴い
こちらとしても時間切れが近づいている、そろそろ彼を迎え入れよう。
※
『駐在、慈愛がそろそろ帰宅するから見張りに行け。奴が口無しと接触したり、怪しい動きがあれば森の字に連絡しろ、いいな?』
ほとんど命令口調で一方的に言って、克生からの電話は切れた。あんたはオレの上司じゃないだろ、と思いながら
パトカーと自転車だけでは、田舎暮らしの足たりえない。まだまだ梅雨の季節だが、車内で待機しなければ、虫がわずらわしいだろう。
号は当たりを付けておいた雑木林に車体を隠すように停め、双眼鏡を構えた。瓦屋根の洋館は一部屋だけ灯りがついて、確かに家主が帰宅したばかりのようだ。
「駐在さん、お疲れさまッス」
見知らぬ……いや、自警団員の若者が運転席の窓を叩いた。手回しで車窓を開けると、弁当箱とプラスチックのボトルに入った茶が渡される。
「若先生から差し入れの夜食です。四時になったら交代が来るから、駐在さんはその後帰って、お仕事に備えてくださいとのことです」
「どうも」
若先生とは、景克と比した克生の呼び名だ。少しは良い弁当だと思いたいが、四時に帰って仮眠を取ってまた仕事とは。号は交番勤務時代の激務を思い出した。
厳しいが、やれないことはない。墓場で祭原景克の遺体を食った妖怪〝口無し様〟、失踪した祭原/帰育乃、祭原一族の霊術……ここは不可解なことが多すぎる。
克生も森之進も、号にはまだ山ほど隠し事があるに違いなかった。自分が知りたいのは、なぜ妻のひびきが祭原総合病院で死んだか、だけだったのだが。
人体に繁茂する植物は、忌まわしい何かだと――
(げ、来た)
号は車から転がり出て金魚を吐いた。
来る、何かが、来る。不吉な予感などというものではない、猛獣の吐息がうなじにかかったような直感が、己のこめかみを貫いた。逃げなくては。
間髪入れず襟首をつかまれ、自由落下そのものの速度で号は連れ去られた。
後には扉が開いたままの車と、胃液の上で力なく跳ねる金魚だけだ。
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