四。つひの満天星(どうだん)

二十二 すべて摘み取られよう

 土曜日、祭原さいばら景克かげよしが亡くなってちょうど十日。祭原家では新しい遺影と霊璽れいじを前に、十日祭が催された。これをくり返すこと五回、五十日祭で忌み明けだ。

 仏教における法要のようなもので、基本的には遺族だけで行い、五十日祭だけ神職や故人ゆかりの人々を招き、酒肴しゅこう振る舞いをする。


 親族の多くは病院で働いているので、参加者は本家の人間だけだった。広間に長男の克生かい、次男の慈愛しげみ、義弟としてとつぎ森之進もりのしん、故人配偶者の美智代みちよが集まる。

 本来ならここに居るはずの長女・育乃いくのは失踪中、その娘である美登里みどりは原因不明の病で入院しており、十日祭はまことに沈痛な空気となった。


 午前の日差しが庭で咲き乱れる立葵を照らしていたが、明るさは何かに怯えるように家中へ入ろうとしない。常日頃から冥い屋敷が、一層陰気をこもらせている。

 本来なら故人の思い出話や雑談で賑わうはずの席で、積極的に言葉を交わそうとする者はいなかった。聞こえるのは、美智代と克生の話し声だけだ。


 黝黒ゆうこくの兄と白皙の弟、無色の義弟。三者はそれぞれ喪服に身を包み、腹に一物も二物も呑んで会している。それぞれの視線は鞘に入った刃物だ。

 息子たちの対立が、すでに引き返せない所まで来ていることに彼女だけが気がついていなかった。慈愛が料理に手をつけないことも、いぶかりこそすれ問うこともない。

 美智代がこれから起こることを知っていようがいまいが、すでに手遅れだ。


 十日祭は午前の内に終えられ、慈愛は手早く着替えると職場へ向かった。今日は元から一日休みだが、姪の様子を見に行きたい。

 六月下旬、滴るように緑みずみずしい山地を望む祭原総合病院は、角砂糖を積んだように白く四角い建物だ。五階建ての本棟と、三階建ての健診棟で出来ている。

 敷地内には、現在は清掃スタッフの休憩所となっている古い寮や、旧病棟などいくつかの建物も残っているが、職員が利用することは滅多にない。


 美登里が入院している階へ降りると、看護婦の一人が「慈愛先生」と声をかけてきた。勤務時間外だが、人の命を預かる仕事では何が起こるか分からない。

 案内されたのは空の病室だった。入り口には確かに名前のプレートがあったはずだが、看護婦を問いただそうと首を巡らそうとした時。目の前が布に塞がれた。

 袋だ、布袋を被せられ、強く締め付けられている。両手と両足をそれぞれつかまれ、数人がかりで体を持ち上げられた。重い金属音は、非常用扉の音か。

 布越しに口へ物を詰められ、手足には粘着テープが巻かれる。人けのない階段でそれでももがくと、ロープのようなもので首を締め付けられた。

 固い床の上に投げ出されると、やっと袋を外して引き起こされた。倉庫か何かの殺風景な室内に大勢がひしめき、その中心で喪服姿の克生が箱に腰かけている。


「よう、年貢の納め時だな」


 慈愛の顔面に鋭い衝撃が走り、眼鏡が床へ転がった。克生ではない誰かが殴りかかり、それは一人や二人で止まらない。まるで津波に飲まれ、もまれるようだ。

 克生にはさんざん打擲されてきたが、こんな大人数に袋だたきにされるのは初めてだった。鼻がツンと冷たい感覚に貫かれ、口いっぱいに鉄の味が広がる。

 少しずつ意識が薄れ、上下も左右も区別がつかなくなっていく。全身から力が抜け、立っているのか寝ているかも分からないのに、痛みはまったく鈍らなかった。

 むしろ殴られれば殴られるほど、傷だらけの体は苦痛がいや増していく。痛みは乗算だと慈愛は経験則でよく知っていたから、それがどこまで増大するか恐れた。

 とうとう床に倒れこむと、誰かが形の良い鼻を蹴り飛ばす。かくん、と人形のように慈愛の首があらぬ方を向き、鼻血が喉の奥へどろりと垂れた。

 嘔吐えずき、咳きこみ、腹を蹴られて反吐をはく。出来るものなら背中を丸めて頭を抱えていただろうが、その体力すら慈愛にはない。

 ボールのようにあちらからこちらへ何度も蹴り飛ばされ、誰かが足首を踏んでひねった。聞こえるのは罵声と嘲笑と己の苦鳴……いや、一つ違うものがある。


「全員、そこまで! そこまでだって言ってんだろ!!」


 制服姿の河野こうのごうは先ほどから何度も制止をかけていたが、結局は克生の「そのぐらいにしてやれ」という一声に勝てなかった。

 彼が立ち上がると、顎で呼ばれた自警団員がロープを差し出す。そして粘着テープの上から、しっかりと慈愛を縛り始めた。


「昔を思い出すなあ。何かあると、こうしてお前を折檻してやったもんだ」


 克生が言うのは手酷く痛めつけたことではなく、縛ることの方だ。指一本分の太さと重さ、それが服をこすり、布地にシワを作りながら食いこむ感触が忌まわしい。

 体の自由が奪われるおぞましさと苦しさは、克生自身が幼い慈愛にさんざん教えこんだことだ。無理やり固定させられた骨や筋肉、圧迫された血流と神経は時間と共にしびれ、いましめから解かれた後もしばしば残り続ける。最悪、三日経っても取れない。

 だが慈愛には、抗おうにも指一本動かす余力すらないのだ。


――お前は無力だ。簡単に身動きが取れなくなって、声も出せない、誰も助けてくれないでくのぼうになる。


 いつかの過去で聞いたささやきは、克生が言ったのか、打ちひしがれる慈愛の心自身が耳打ちしたものか、もはや区別がつかなかった。

 縄が巻きこんだ服のシワやよれも、時間が経てば肌を傷つけていくだろう。それ以上に、「自分がしたいことをさせてもらえない」根本的な暴力こそが苦しい。


〝人間水時計〟という拷問がある。拘束した犠牲者の頭髪を剃り、そこに一滴ずつ、一定間隔で水を落とすというものだ。たったそれだけ? と犠牲者も始めは思う。

 滴に打たれるのは不快であっても、耐えられないことではない。少々うざったいかもしれないが、無視できる。だが時間と共に身体が濡れ、冷えていくだろう。

 例えば叫んでもわめいても誰も来ない暗闇で、ひたすら水滴に打たれ続けていれば。犠牲者は苛立ち、もがき、わずか0.1cc前後の水を意識の外に追いやろうとする。体さえ動けばすぐ逃れられる他愛ない一滴も、自由を奪われ終わることなく打たれ続けば、人間を発狂させるには充分だ。かくて不自由は人を殺す。


「ところで、まさか自分がこうされる謂れはないなんて思っていないよな?」


 慈愛を拘束し終え、克生は手をさすりながらさも親切そうな声音を出した。わざとらしく片眉を上げて首を傾げ、冷ややかなニヤニヤ笑いを浮かべている。


「十六年前に逃げた口無し様が帰ってきたことは、もう分かっている。お前は昔みたいに奴のお世話係に収まって、この所の失踪事件を引き起こした、だろ?」


 慈愛の鼻から下は、流れ出た血で真っ赤に染まっていた。

 息をするだけで全身がズキズキと痛み、自由を奪われた屈辱と恐怖で血管の隅々まで満たしている。それでも、と胸で叫び、慈愛は克生を睨み返した。

 自分一人なら、このまま殺されるのかと命を諦めていただろう。だが今は、兄さまがいる。帰ってきたクチナシのために、自分はまだまだ出来ることがあるのだ。

 その敵愾心を、克生はすでに支配した者のつまらない反抗と流して笑った。


「そうかそうか、まだ何か企んでいるって訳か」

「口無しの御杖代みつえしろだ、これ以上痛めつけても口を割らないと思うよ」


 暴行に関わらず、神主姿で突っ立っていた森之進が告げる。「そんなことは分かっている」と返して、克生は自警団員たちに指示した。号が何をするのかと問うたが無視され、部屋の隅で横倒しになっていたスチールロッカーの中へ放りこむ。

 あちこちぶつけ、こすれて傷みにうめく慈愛の目の前で、無慈悲に扉が閉じられた。そして割れんばかりの金属音で、頭がガンガンと痛めつけられる。

 外から他の机や椅子やロッカーを乗せて、出られないようにしているのだ。克生が子供の頃の慈愛に何度もやったように、縛って閉じこめる。


――いやだ。それだけはやめてくれ。


 十四歳や十二歳や十歳、あるいはもっと幼いままの慈愛の心が一斉に悲鳴を上げた。こんな狭くて苦しい場所は嫌だ、ぎちぎちに詰められて動けないのは嫌だ。

 閉所に押しこめられていると、ちっぽけな自分が凶暴で恐ろしい兄の手に包まれ、ゆっくりと握り潰されていく気がする。闇の中へ気概も誇りも後退し、声を出す力が残っていれば慈愛はなりふり構わず泣き叫んでいた。その代わりに何度か咳きこむ。

 懐かしい地獄に帰ってきた。



 慈愛に集団で暴行を加え、閉じこめたのは昔使われていた職員寮だ。号は暴行者たちを時に引き剥がし、時に羽交い締めにして制しようとした結果、何発か殴られて顔にすり傷を作った。克生と自警団たちは何食わぬ顔で、祭原の屋敷へ戻る。

 森之進いわく、団員たちに渡した呪詞じゅしで何度か口無しを退けた結果、その縁をたどって居場所を探ることが出来るらしい。


「そんなモンあったら、警察はいりませんね」皮肉交じりに号は言った。

「複数人からたどれるからこそ、確実性が高いのですよ。今回は運が良い」

「今回は?」

「痛くもない腹を探るのはおやめなさい。私だって占い師の真似事は本業じゃないんですから」


 大広間。男たちは慈愛を殴った拳に出来た傷を手当てし、軽く飲み食いをしていたが、号は何か口にする気にはなれない。いや、ここで食事したくない。

――〝渡す〟と〝受け取る〟ってのはまじないの作法なんだ。

 克生と森之進から提供されるものを、受け取りたくないのだ。昨夜差し入れられた弁当は食べてしまったが、極力避けたいと思う。

 森之進も賽銭の一件から同じことを思ったようで、号には呪詞を渡さなかった。


「やはり、ここですね」


 間もなく森之進が餐原町地図の一点を指し示す。克生の号令のもと、一同はどうだん稲荷へ、正確にはその背後にある満天星どうだん山のふもとへ集合した。

 真っ赤なジャガー XJから降りた克生は、すっかり狩猟スタイルだ。目立つオレンジの帽子にベスト、足元はスパイクつきの地下足袋で種々の装備品を所持している。

 その一つに、全員に配られた無線があった。


「駐在、銃は持ってきたのか?」

「万が一のために。でもオレ、撃つのは嫌ですからね。報告書に化け物に向けて発砲しましたなんて書けませんよ」


 号も防刃ベストとブーツに着替え、銃を携帯している。小さな回転式拳銃、ニューナンブM60は何とも頼りないが、人間にとって銃火器とは恐ろしいものだ。

 それに対し、克生は狩猟用のボルトアクションライフル・豊和ほうわM1500を装備していた。最大装填数は両者とも5発。

 猟銃を所持している団員はそれを、なければ斧や鉈をそれぞれ持ち出していた。まるで熊かイノシシ退治だが、相手は人食いの化け物だ。


「さあ、口無し様を退治してやるぞ」


 堂々と克生は宣言し、団員は山へ分け入っていく。といっても登山道だ。一人だけ白衣と袴姿で登って行く森之進は違和感のある存在だったが、足取りは軽快だった。

 前提として、クチナシは神の分霊が人間の姿を取った化現だ。神でありながら、同時に人でもある。それは殺害できるという可能性を示していると森之進は言った。


――「口無し様は祭原の地下で、長い間仮死状態になっていました。察するに、それは飢え死にをまぬがれるためです。かつて御山に生えていた御神木が倒れた時、幹の中から生まれた彼はその場に居合わせた者を食い殺しました。それだけを糧に辛うじて命をつなぎ、慈愛くんに朝晩供え物を捧げられ、じわじわと力を蓄えたのです」


 金曜日の作戦会議で彼はこのように説明したが、号は一つ腑に落ちないことがある。そもそも、なぜ祭原景克は慈愛をクチナシの世話係にしたのか?


「親父は霊術を研究するため、奴を飼おうと考えていたんだよ」


 号の疑問に克生が答えて言う。


「まず餌付けして手懐けようって魂胆だったが、餌をやり過ぎたんだな。力をつけて逃げ出しちまいやがって、こうなったのは何もかも慈愛のせいだ」


 そうだそうだ、と男たちが拳を突き上げて同調する様に、号は内心うんざりだ。


「とにかく、奴は人間にはない力を持っている化け物だが、森之進がそいつを抑える手立てを見つけた。後は銃でも何でも持ち出して、死ぬまで殺してやれば良いんだよ。手足を使えなくして、火を点けてやれば何とかなるだろ」

「人間を灰にする火力、かなり要りますよ」


 号は立場上知っている知識で突っこんだが無視された。

 こいつらは何を言っているんだろう。クチナシがどんなものか、本当は誰も理解していないのだ。圧倒的に巨大な、別の宇宙そのものの闇が詰まった瞳を。

 それを訴えても、また無視されるだろう。明日はきっと大勢が死ぬ、だがもう自分には止められないし、止まらない。

 餐原町そのものが、もはや血を求めている――


「居たぞ!」


 無線機からの鋭い声で、号は物思いを打ち切った。


騒々障さざさるな!!」

あまつぬかたく、穂波ほなみきび死せうぶ!」

罪過ざいか潤田うるた見すつ、天ぬ堅きは!」


 一斉に団員たちが用意された呪詞を唱え出し、号はターゲットの発見地点に向かう。何のことはない、それは登山道の途中に突っ立っていた。

 二メートルと半分はあろうかという背丈は、立木の一つかと思うほど大きい。特別あつらえなのか、喪服のような黒いスーツとネクタイは体にぴったりだ。

 ふくらはぎまで伸びた黒い髪は、木々の中に緩やかに漂っている。

 ぱん、と。その頭に、克生はライフル弾を当てた。

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