二十三 花を向けよ、破滅の方へ

くもあやかしこきどうだん稲荷の神社かみのやしろ大前おほまへ斎主いわいぬしとつぎ森之進もりのしんつつしかしこまをさく。不晴日はるぬひや、潤田うるた見すつ、あまぬ堅きは、祟りなきこそ神の御心」


 木漏れ日の中にぱっと血潮が飛び散り、ぱたぱたと樹皮や草を濡らす。クチナシは身じろぎもせず、赤く染まっていく前髪をかき上げて、「あはァ」と笑った。

 耳元まで裂けた口と、それを縫い閉じる黒い糸、そして黒い瞳が露わになる。ごうは初めて、クチナシの顔をしっかりと確認した。

 案外と目も鼻も品良く優しげで、体つきから厳ついものを想像していたので驚いてしまう。だが見目が柔和であればあるほど、裂けた口の異形ぶりが際立った。


「しかして先つ頃より餐原さんばらさと騒々障さざささまは、妖しき霊の災いにして、種々くさぐさすべを尽くし、方法てだてを怠る事無く務め、速やかにはらさむと思ひはべれど、其のしるし捗々はかばかしからねば今は早、大神のしくたへなる御恵のまにま神徳みうつくしびかがふり奉らむと」


 攻撃が効いていないように見えるが、自警団員たちは怯んだ様子を見せない。克生かいが無線で指示すると、円を描くようにクチナシを囲んだ。

 作戦会議でそれぞれ何時の方向と役割を割り振っていたから、射線が重なって同士討ちになることを避けている。号は遊撃のポジションだ。

 ひとまず克生に付いているが、森之進も同行して先ほどから祝詞――いや、クチナシ退治にかつて使われたという呪詞を唱え続けている。


「諸々の罪過ざいかさわに穢れ持てるみたまなるが故に、あまつぬかたく、穂波ほなみきび死せうぶ芽吹いて騒々障るなかれと、霊幸たまさちはひ給ひて」


 号令一下、銃口が一斉に火を噴いた。


科戸しなとの風のあめ八重雲やへぐもを吹き放つ事の如く、あした御霧みきりを朝風・夕風ゆふかぜの吹きはらふ事の如く、しるしをばあらはし給ひてすみやけく鎮め給ひ幸ひ給えと乞いまつらくと白す」


 巣を叩かれて怒った蜂が飛び出すように、わあっと血飛沫が広がる。ぐらり、とクチナシの大きな体が不安定に回転し、後ろに倒れた。

「今だ!」と意気込む者、「呪詞を続けろ!」と叱責する者らが、克生の指示で口を閉じて陣形を保つ。じりじりと秒を数え、分を刻み、静寂。

 ぴくりともしないクチナシの体を、克生はもう一度撃った。動かない。


「陣形を解除しろ。死体を確認するぞ」


 指示の元、武器を持った男たちはぞろぞろと集合した。森之進は呪詞をしたためた紙を懐に入れ、枯れた喉を水筒で潤している。

 号は一発も撃たないままだった。

 積み重なった枯れ葉や小枝が血の海に浮き、その上に長い黒髪が広がっている。それが人を誘いこむ穴のように見えたが、号以外誰もそうは思っていないようだ。

 クチナシの黒いスーツは穴だらけで、弾丸に貫かれた布地は爆ぜ、皮膚や肉はめくれ返っていた。中の構造は分からないが、弾は骨で止められたり砕いたりしているのだろうか。頭部は最初の一発だけで、銃創は胴体に集中していた。


「お、わ、り、かァー?」


 痰が詰まったような声が明るく上がり、全員が後ずさって武器を構える。だがクチナシが動いたり、起き上がる様子はない。泥が張りつくように、仰臥ぎょうがしたままだ。

 森之進が小突く真似をし、嫌そうに克生が前へ出た。クチナシを見下ろし、「どうした、抵抗しないのか?」と問う。


「答えたら、何くれる?」

「お前、この状況で命令できる立場か」

「問い返しの作法だ」


 逆に問い返されて苛立つ克生に、森之進が思い当たったように説明した。


「一つ問われれば一つ答え、答えた者は一つ問う権利を持つ。彼は化現だからな。我々が最初の問いを発するには、何か捧げるものが必要だ」

「……殺すのを五分待ってやる」

「それじゃあー、駄目だァー」


 血まみれで瀕死のはずだが、顔色も変えずクチナシは言う。いや、流石に血の気がなくなってきたようだが、先日号が晩餐を共にした時と同じマイペースさだ。

 イライラと克生は片足で地面を叩いた。


「おいシン、何を出せばいい」

「ふむ。どなたか食べ物を持っていませんか。飴でもガムでも構いません」


 何人かが挙手し、森之進は近い者から一つ受け取った。一口サイズのチョコレート、山中でのエネルギー補給用だろう。それを手に克生は問い直した。


「もう一度訊くぞ、お前は抵抗する力がないのか? 答えたらチョコをくれてやる」

「命に手を出せるのは、命だけだァ……おれは、違う」

「そうかい、化け物め」


 克生は銀紙ごとチョコレートを放りこんだが、クチナシは気にせず咀嚼して「甘ーい」と子供のように喜んだ。声も表情も状況にまったく合っていない。

 その頭に、ひげ面の団員が斧を叩きこんだ。薪割りの要領で、丸い頭蓋骨に滑らせることなく刃を立て、額を割る。流れ出す血は脳漿と混ざって色が薄い。

 それを合図に、団員たちは刃物でクチナシを襲い始めた。


「駐在、今度はお前も手伝え」


 病院で慈愛のリンチに加わらず、止めに回ったことを言われている。山中での行動用に、号自身もサバイバルナイフは用意してきた。しかし。


「もうオレの入る隙はなさそうですけどね」


 いくらクチナシが大柄でも、数十人からいる団員が囲んで刺し切りするには場所が足りない。頭を割られた時点で絶命したのか、悲鳴は聞こえてこなかった。

 重たい刃物が骨を砕く音が断続的に聞こえる。血の川が枯れ葉を押し流し、隠れていた虫が逃げ出していくのが、視界の端でやけに鮮明に見えた。


 涼やかな初夏の森は、生き物の体内から立ち上がる温度で蒸し暑くなる。人垣の向こうで、クチナシの腹がさばかれているのだ。胃液のような悪臭からもそれは明らかだった。ねっとりと肌や喉に張りつく、彼の体温だったものに体の芯が冷える。

 室内ではなく山中なだけマシかもしれないが、風はさほどない。

 むわっと温められた血と臓物の臭いが、否応なく号の全身を包み、隅々まで染みこむ。口も胃も肺もけたたましい侵入者にかき回され、胸が緑に腐る気がした。

 警官として働いてきて、号はいくつも凄惨な場面を目撃してきたが、人の形をしたものがグチャグチャにされる現場など経験がない。


――こいつらは、何で嘔吐もせずこんな真似が出来るんだ?


 口と鼻を、引いてはぐるぐる回る内臓を抑えるよう手で覆いながら、号は団員たちに怖気をふるった。医師の克生はまだ分かるが、自警団は普段は農業や小売店を営み、あるいは学生をやっているような一般人たちのはずだ。

 こういう惨殺は初めてではないのか?

 それともとっくに皆イカれているのか。どちらにせよ最悪だが、号は「穢れたしびとの町」という慈愛の言葉の確信を深めた。


「うわっ」


 老齢の団員が尻餅をつく。何が起きたのかと思ったが、号は急激な異物感にそちらを確認するいとまはなかった。誰かに見られては困ると、手近な繁みに隠れる。


「何だこりゃ」

「溶けちまった」

「死んだのか!?」


 金魚を二匹、三匹と吐く間に、男たちの怒鳴り声で何とか状況を把握した。溶けたというのがどういう状態か、号にはまだよく分からない。

 水筒に金魚を入れている間に、事態は急転し始めていた。騒ぎを確認しようとした矢先、先日のように襟首をつかまれる。


「おまえはこっちだァ」


 聞き覚えのある声が、号を奈落に引きずり込んだ。



 ずたずたにされたクチナシの死体は黒々とした液体に変わり、濡れたスーツや靴だけを後に残した。これが吉と出たのか凶と出たのか、克生は森之進に説明を求めようとした。その時だ。


「……先生ェ」


 若い団員の一人が、奇妙な音程で話しかけてきた。無視しようとしたが、そいつは進路に回りこみ、貌を見せつけてくる。確か望月工務店のせがれだ。

 望月の顔には、左目の上から目の横、頬、顎、首に至るまで、桃色のつぼみがイボかこぶのようにびっしり生えていた。その眼は正気のものではない。


「お疲れさまでエす。御前ごぜんはこれで、手間が省けマした」


 ごとり、ごとりと、斧やナイフや鉈が地面に放り出される。武器を手放した連中は、浜辺の岩につくフジツボのように蕾だらけになっていた。

 蛍光色の帽子やベストを来た男たちが、老いも若きも色とりどりの花芽はなめをつけている。白いものも青いものも黄色いものもあり、単体でなら愛くるしいものだ。


 克生や蕾のない団員たちは猟銃や刃物を持ち直し、近くの者と背中を合わせて逃げ道を探した。残っている連中はやけに若年層に偏っている。


「なるほど、こうなるのか」

「どういうことだ森之進! 呪詞は効いたんじゃないのか」


 一人納得している神主に、克生は青筋を立てて怒鳴りつけた。まるでこうなることを知っていたような態度は、あまりに不可解だ。

 柏手が鳴り響いた。


「ぱぁ――ん!」


 無邪気そのもののクチナシの声がどこからか響き、蕾がなだれを打って開花する。男たちは広がる花弁に裏返されるように飲みこまれ、花の塊となって崩れ落ちた。

 ふわりと、甘く心地よい香りすら漂ってくる。

 彼らは死んだ、と直観的に克生は悟った。それも人間ではないものに変えられて。だが、蕾憑きたちに襲わせないなら、奴の目的は何だ?


 ぎしり、と何かが軋む音がした。樹が倒れる時の予兆を思わせる不吉な調べは、しかしまったく異なる現象の始まりに過ぎない。ぎちぎちと、樹の幹が身をよじり、鈴なりの葉を揺らしながら枝がうごめき始めた。

 地面がめくれ上がって根がずるずると姿を現し、樹木が立ち上がる。草の一本、花の一輪までがそれに習い、苔は素早く大地や岩を這った。


「彼はさ」


 森之進が、飲みこみの悪い生徒に対するように説く。


「抵抗出来ないんじゃなくて、する必要がなかったってことさ、克生。化現は人でもあり神でもある、だから神の部分を呪術で抑えこみ、人の部分を殺そうというのは、この場所でだけはやってはいけなかったんだよ」


 この場所は、克生も妹も森之進も、小さい頃よく駆け回って遊んだ山だ。ここまで奥深く入って遊んだわけではないが、自分たちの庭も同然だった。

 その名は満天星どうだん山、どうだん稲荷の御神体である。


「奴は人の部分を捨てて、御神体の元に戻ったってことか……? 一度切り離した本体に!? しかし、そんなことが可能なのか。拒まれたら終わりじゃないか」

「可能だから彼はここへ来たんだろう。どうだん様を支える信徒、いや供奉を……つまりは、苗床の数を充分に減らしてから」


 森之進がそれだけ情報を与えれば、克生には充分だった。望月は呪詞を使ってクチナシの襲撃を防いだ一人だが、実際はすでに奴の手先と化していた。

 餐原町は人口数千人の小規模な土地だが、一週間やそこらでたった一体の化け物が半数近くの人間を支配下に置くのは難しい。だが。


 祭原が秘術を手に入れ、どうだんの手先として人々に苗を植え付けるやり方は、見方を変えれば〝感染〟だ。苗床は仲間を殖やせないが、苗床に当たる一族の者からは殖やせる。だから奴は町中に自分の子――蕾憑きをバラ撒き、潜伏させた。

 この一週間、明確に失踪したと認識されているのは三人だけだ。

 つまりは、満天星山で自分の肉体を討たせるための釣り餌。御杖代である慈愛では、主たるクチナシを傷つけることは出来ないから。


「……だが、おかしいだろ! 予想していたなら、どうしてここで狩りを始めさせたんだ!? お前も死ぬぞ、シン!」

「いや、だってさ」


 神主の白衣と、紫の袴姿の森之進は、揺れる大地と蠢く木立の中で平然と立っていた。背筋をきりっと伸ばして姿勢が良い。道中でも彼は実に健脚で、仙人のようだ。

 言い換えれば、克生は今こそ友人のはらが読めない。薄く鉛筆で描いたような、にこやかな顔立ちの下は何を考えているのか。

 目の前にずっとあった膜を剥がしたように、森之進のたたずまいが豹変する。


「育ちゃんを殺したのは君だろ、克生」

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