二十四「兄さま、今日のおもりさんです」
手足を縛められ、胸に縄をかけられて暗闇に閉じこめられていると、否応なく
成人して二年を過ぎた克生とは体格差もあり、力では勝てない。そして彼はしばしば、きつく縛りすぎることがあった。
拘束とは、イメージよりもずっと危険な行為である。例えタオルで手首を軽くまとめるだけでも、立派に暴力になりえるほどに。
リンパや血流は阻害されて酸素が行き届かず、細胞は生きたままじわじわと腐っていく。筋肉や神経に加えられる圧迫は、ゆっくりゆっくり引き延ばされた打撲だ。
動けないというストレスは、蓄積されたダメージを更に加速させる。拘束に使用された縄の種類によっては、皮膚はこすれて酷いすり傷になっていくのだ。
そしてある日、慈愛は呼吸が出来なくなって、ついに心臓も止まった。再び動き出す可能性は刻一刻と失われ、克生が見つけた時には途絶えきった後だ。
本来なら慈愛にはあずかり知らぬことだが、彼は俯瞰状態でそれらを認識し、十六年後にクチナシと再会するまで忘却の彼方に埋めていた。
昭和五十一年、冬。クチナシは地下牢の闇に眼を見開き、天井の向こう、頭上に建つ屋敷へ視線を向けた。
これまで大人しくしていたのは真実、彼が餓死しかけていたからだ。だが六年かけて、肉体はわずかばかりの力を蓄えていた。
単なる朝晩の食事ではない、
――ねえ、兄さま。ぼくが死んだあとなら、ぼくがおもりさんになるよ。
その時が来た。布団を跳ね上げ、四肢をつなぐ鎖を引き千切る。一部は後ろの壁ごと抜けたが、構わず格子に手をかけた。
ぶちぶちと音を立てて縫い閉じられた口を開き、耳元まで裂けたそれで齧りつき、ばきん、ばきんと噛み砕くと木っ端が塵と舞った。金属で補強されている部分もあるがお構いなしで叩き割り、打ち壊し、鴨居と敷居から引き剥がす。
文字通り瞬きの間に行われた破壊は、局所的ながら祭原邸を震わせた。
四つ足で駆け出して
御杖代の遺体にたどり着く前に力尽きたら、今度こそ己は終わりだ。
「この手は我が手にあらず、花のをすくにに
死体を見つけた克生は、そんなつもりはなかったのにと青ざめながら慈愛の身体に霊術を試みていた。ほどいた縄は慈愛を閉じこめた押し入れに隠し、本来なら心の中で唱える呪文をくり返し口に出す焦り様だ。心臓マッサージはとうに試した。
「しげちゃん!?」
どこから嗅ぎつけてきたのか、妹が部屋に入って絶句する。克生は無為に霊術を振り絞りながら、振り返り怒鳴った。
「
兄が日常的に異母弟をどう痛めつけていたか、彼女はよく知っている。
「窒息……させたんだ。兄さんが縛ったままにしたから……!」
「後にしろ馬鹿! 手伝えって言っているだろ!」
色白の肌を赤く染め、育乃は憎しみを込めて克生を見つめたがひとまず呑みこんだ。唇を噛みしめながら、同様に手のひらを当てて霊術を試みる。
しばらくして、克生は胸元に耳をあてて心音を確かめた。
「この野郎、ピクリともしない」
「荼手をもってまじなえば、いかなる傷、いかなる病も癒えずということなし、荼手をもってまじなえば、いかなる傷、いかなる病も癒えずということなし」
兄妹の中に、認めがたい事実がにじり寄って来る。これまでにない霊術の酷使で、克生も育乃も深い疲労をも覚えてきた。その時だ。
「何事だ」
異変に気がついて
「父さん、秘術を使わせてください。コイツはもう手遅れだ」
「ておく、れ……」
育乃は呼吸を忘れて背筋をピンと張る。筋肉がこわばり、顔面は蒼白だったが、それでも畳に横たわる慈愛よりはまだ生気があった。
「軽々しくその話をするな!」
「いいじゃないですか、育乃ももう十八だ」
「お前というやつは……まあ何が起きたかは、大体察しがつく」
苦々しく顎を引いて克生を見下すと、景克は膝を折って軽く死体を
「出来損ないのために汚点がついても困るが、これで懲りることだな、克生」
「できそこない? こんな時まで、しげちゃんをそんな呼び方して!」
育乃はヒステリックに叫んで立ち上がった。握り拳がぶるぶると震え、首筋に血管が何本も浮かび上がる。青から赤へ転じた顔色は、薄ら汗ばみ始めた。
つぶらな眼は吊り上がって血走り、鼻孔をふくらませ、唇を歪め、鬼のような形相になる。彼女本来の目鼻立ちが持つ甘やかさは、どこにも見つけられない。
「汚点って何? 兄さんのせいで死んだ、ううん、兄さんが殺したのに、何も感じないの? 信じられない、この人でなし! しげちゃんに何するつもり!?」
彼女は完全に冷静さを失って、自分自身が怒りに振り回されている。そのことが分かっているから、男たちはまったく真面目に取り合おうとしなかった。
「落ち着けよ、育乃。死んだコイツを生き返らせるんだ、それでぜんぶ丸く収まる。ああ、そんなことは無理だって思うだろ? 出来るんだよ、俺たち祭原ならな」
息子を横目で睨みつけ、景克は大きくため息をつく。
「本来は二十歳を迎えてから教えるのだがな。育乃よ、お前も霊術を扱うならば、この世には人智の及ばぬものがあることは理解しているだろう」
秘術について説明を始めた所で、育乃は言葉にならない絶叫を上げた。お前たちの言葉など聞きたくないと、外の刺激を丸ごと引き裂く自閉と拒絶の叫びだ。狂乱しながら彼女は部屋を飛び出し、どたどたと足音高く去って行った。
残されたのは幼い死体と、しらけた男たちだ。
「何だよ、急に」と克生は一度だけ廊下を覗いた。
「育乃はあれと仲良くしていたからな。まったく面ど……」
足音が戻ってきて、出刃包丁を手にした育乃が現れた。その後ろから人のざわめきが聞こえてくる。彼女が騒いだことで、家中の者たちに事件を悟られたらしい。
「やめて」
少女は色の薄い髪を振り乱し、淀んだ眼差しで自分の喉に刃先を突きつけた。
瞳は目の前を見ておらず、日々積み重ねた己の無力さと悔恨と、その果てに現れた異母弟の死という事実に囚われている。父兄にはただ狂乱と映った。
「私が死んでも、そんな風にしないで」
景克も克生も、彼女をいかに刺激せず落ち着かせられるか考えていたが、育乃の行動は彼らの予想よりもずっと早く、決断的だ。そして互いの間には少年の死体が障害物として横たわっており、わずかな遅れは致命的なものとなった。
よく磨がれた包丁は気管も食道も難なく貫き、引き抜かれるとご丁寧に頸動脈を切断する。すべての望みを絶たれた育乃の、精いっぱいの反抗だ。
畳のい草が血潮の鉄と塩に浸され、彼女に代わって怒りを伝えるようだった。育乃にとって幸運だったのは、寸前まで霊術を使って大きく衰弱していたことだ。
余力のない克生に代わって景克が治癒を試みたが、長年の経験から間に合わないとすぐ悟った。そして、地下からずん、と突き上げるような衝撃がやって来る。
景克も克生も、先ほどの小さな揺れかと思ったが、そうではない。ついにクチナシが扉の封印を破ったと彼らが理解するのは、ずっと後のことだった。
それは襖でも障子でも柱でも壺でもあらゆる障害物を蹴飛ばし、畳を剥がし、目的の部屋へ最短距離で
克生が一度だけ見た、地下の男。果実が割れるように大きな口を開き、果汁のように血をほとばしらせる。頭蓋骨はがりりり、という音を立てて囓られた。
少年の死体が食い尽くされるまで、三、四口程度だ。
二股に裂けた長い舌で、口元や手についた血を舐め取ると、クチナシは襖を破って外を目指した。恐怖に打たれて痺れていた景克がまず我に返り、ほうぼうに指示を出し、電話をかけ、事態の収拾に動く。
育乃の遺体は運び出され、克生は現場を追い出された。そして夜、慈愛は何食わぬ顔で与えられた自室にいるのを見つけ、慌てて牢へ放りこんだのだ。
これが、慈愛が御杖代に生まれ変わり、育乃が命を落とした経緯である。
◆
「図星の時、君は両眼をいからせる」
ギラギラと眼を見開いていた克生は、はっと瞬いた。森之進に裏切られ、手下は蕾憑きになって全滅、そしてどうだんは肉体を捨てた分霊と合体。
あげく、十六年隠していた秘密を暴かれて混乱している。
「馬鹿言え、呆れてるんだよ。お前、慈愛に何か吹き込まれたか?」
「ああ、彼とは実際会ったよ。可愛い娘を見舞っていたら、姪を心配する義弟と出くわすのは当然だろう? 話の内容には驚いたけれどね」
悠長に話している場合ではなかった。木々が歩き出し、山そのものがぐらぐらと揺れている。こんな地面ではまともに照準を合わせることも出来ない。
一方の森之進は、見事な体幹だ。克生は逃走の用意をしながら反論した。
「奴の話を信じる理由がどこにある!」
「だって君は、自分の父親を殺すような男じゃないか」
こいつはどこまで知っているんだ。克生は自分の体に二筋も三筋も亀裂が走るような気がした。何か口にして取り繕うにも、言葉が出てこない。
十日前のあの日。ちょっとした雑用があり、父の執務室で言葉を交わしたが、そこから過去の失敗を掘り返されるという嫌な展開になってしまった。
『お前のせいで口無し様を逃してしまった』
率直な事実に、克生は言い返せなかった。慈愛は死んだ時の記憶がないから聞き出さなかったが、奴の世話をする内に身を捧げる約束をしてしまったに違いない。
引き金となったのは、御杖代に選ばれた者の死だろう。詳しい条件そのものは克生たちにも、森之進やその父にも不明のままだった。だからこうして責められる。
そこまでなら克生は我慢した。だがその日、父は疲れていたのか、具合が悪かったのか、とにかく不機嫌で、今まで決して口にしなかった罵倒を使ってしまった。
『役立たずめ』と。
父は常に正しく、その言う通りに研鑽してきた己は彼の最高傑作のはずだ。
でなければ自分の痛みも苦しみも手放した夢も、景克のいい加減さや不誠実さから目を背けていたこともどうなるのか。母を裏切ったことさえ黙認したのに。
役立たずだの出来そこないだのという肩書きは自分以外の誰かに付けるもので、よりにもよって景克が克生に向けてはならない。
そして彼は怒りで目の前がはじけ飛んだ。
「まあ皆、思っていても言わないだけだろうね」
森之進は肩をすくめて苦笑いしてみせる。哀れみの薄笑いだ、そんな風に俺を見るなと叫びたかったが、克生は背を向けて逃げ出した。
めきめきと凄まじい音を立てて、巨大な樹木が森から突き出していく。二つひと組みで形作る様はアーチ状の門を思わせたが、眺めている場合ではない。
「さあ、逃げろ逃げろ! 兎狩りを思い出すなあ。はははははは」
端正な顎や唇を震わせながら、克生はがむしゃらに走った。何度もけつまずき、転倒し、滑落は辛うじて免れたが森之進は容易く追いつく。
だが傍にニコニコ顔で立って、再び逃げ出すのを待つのだ。コイツが妹にどれほどイカれているか、鉢植えの話でよく知っている。嬲り殺しにするつもりか。
ひょいひょいと悪路を軽やかに超える森之進の動きは、もはや天狗の類いだ。不意に克生は、彼が霊術で運動力を賦活したのだと直感する。
克生が霊術で人を傷つける方法を覚えたようなものか。森之進は昔から喧嘩が強く、育乃の知らない所で共に悪さをしたものだが、いつから覚えたのだろう。
今からでも真似できないかと切に思うが、生兵法は怪我の元だ。
文字通り克生は山から転がり落ちると、真っ赤なジャガーXJを発進させた。霊術は一日に使える許容量というものがある、森之進も車を使わざるを得ない。
この町から逃げよう、母を連れて。祭原の屋敷に向かうとあちらも予想するだろうが、
――ちくしょう、俺の人生は慈愛のせいで滅茶苦茶だ。
奴さえいなければ、何も問題はなかった。
背後で土砂崩れのような爆発音がし、サイドミラーに信じられないものが映る。満天山から突き出した樹木の群れが、蛇の骨格を思わせる形を作っていた。
その先端に、黒い髪の頭部がうつむいている。
この町は終わりだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます