二十五 冥土開花
暗転、闇に溺れる。いや、口を満たす苦い味は胃酸だ、
一度にこんなに多いのは初めてだ。水筒に入りきらないと辺りを見回していると、すぐ近くに池があった。光沢と切れ込みのある丸い葉や花、ハスだ。
陸上よりはマシだろうと考えて、号は金魚たちを一匹一匹、そっと沼へ移した。睡蓮と蓮が共に咲く水辺を泳ぎ回る赤いひれは、愛らしかった。
号は少し悩んだが、池の水で軽く口をすすいで立ち上がる。飲まなければ大丈夫だろう、多分。周囲は心地よい空気に満ち、満開の桜に囲まれた花畑だ。
いわゆるソメイヨシノ以外にも山桜や枝垂れ桜とあらゆる種類があるが、そんな細かい所まで号は知るよしもない。桜だけではなく、白梅に紅梅、花海棠、白いのは
足元の花々を直視するのはやめよう。
心に決めて、号は異様な花園を歩き出した。足元でカサカサと枯れ葉が鳴り、この場所にも枯れるという概念があることに安心する。
湿った土壌は山野の地面より、畑を歩く感触に近かった。あまりにも多様な花が香るはずなのに、見事に調和して甘く優しいかぐわしさで満ちている。
元居た
彼に意図があって連れてきたなら、自分は何かを見つけ、何かを成さねばならない。景色そのものは異様だが、植物園と考えたら自然なものに思え、芳香によって号は無意識に緊張がほぐされていた。自警活動に駆り出された疲労を思い出す。
あくびを噛み殺しながら歩くと、背広姿の男がいた。声をかけるより先にあちらが振り返ると、顔全体に真っ暗な穴が開き、そこから向日葵の花が突き出している。
まるで花瓶だ。じりじりと距離を測っていると、花瓶男は何事もなかったかのようにどこかへ去って行った。その間に号の鼓動は早くなり、汗が心臓に押し出されたように背筋を濡らす。両耳を手のひらで叩き、呼吸を整えてその場を離れた。
それから……どれほどの時間が流れのだろう。
花瓶人間は老若男女問わず徘徊していたが、害意がないと言うより無関心なようだ。あちこちに首のない地蔵があり、現代から数百年も時代の幅がある廃屋が点在していた。花枝に覆われた空の様子は見えず、いつまで経っても暗くならない。
時折、祭り囃子や、宴会をしているような笑い声がしたが、どれだけ追っても人間を見つけることはなかった。いっそ状況が面白くなってきた自身を必死に戒める。
しかし疲労こそ覚えても、号はもはや喉が渇くことも腹が空くこともなかった。香りは食べ物の味を構成する重要な要素だが、まるで花の芳香を食べているようだ。
「ちっくしょう。何のためにオレを呼んだんだよ!」
ここはきっと死の国だ。腰を下ろしてぼんやりしたくなる誘惑をはね除け、号はあてどない彷徨に対する怒りを腹の底から絞り出した。
気がつくと、最初に訪れた蓮池にたどり着いている。似たような場所かと思ったが、金魚たちが餌を催促するように岸辺へ集合してきた。
「……ひびき?」
不意にささやきが聞こえ、号は首を巡らせる。最初は金魚を吐いたり、景色に気を取られて聞き落としたのか、無理もないほどかそけき語りかけだった。
耳を澄まし、神経を磨ぎ、慎重に出所を探る。紫陽花の花の向こう。
「ひびき!」
号は矢のように駆けだした。驚いて蝶の群れが飛び立ち、花弁が舞い散って芳香が強まる。花園を騒がせる代わりに、懐かしい声が近づいてきた。
「ごっちゃん」
三年ぶりに再会した彼女は変わり果てた、しかし夢よりはいくらかマシな姿をしている。手や足や頭がパーツごとにばらけ、季節感のない花の苗床にされているのだ。
夢で見たように、爪がめくれた痕から露草が生い茂り、肘から下は右が
もちろん、本来の体は火葬され、駐在所に骨が置かれている。
顔を白い
「待ちくたびれちゃった。ばかたれ」
膝を突いて号は崩れ落ちた。良かった、くり返し見た悪夢は本当にただの夢で、彼女は死にきれず苦しんでいたのではないのだ。
「ごめん、ひびき。本当に、ごめん」
頭部を拾い上げて膝の上に抱きかかえる。拭えない痛みの中に己を係留していた重しが解かれ、号の心は今までにない軽さで清々しかった。
腕の中に、深くゆっくりとした呼吸を感じる。もう二度と会うはずがなかった彼女と、もう一度。声も、姿も、息も、ほとんどそのままに。
「あたしが死んだ後、何か変わったことあった? 年号ってまだ平成だよね。ここに来たってことは、ごっちゃん今餐原町なんだ、交番はないから駐在?」
鼻声を悟られまいとしたが無駄な努力だった。首だけで号を見上げる妻の眼は柔らかな光を湛え、話し方も慌てることがなく自然な速度だ。
家のリビングで二人、雑談を交わしていた時の空気が訪れた。
「お見通しだな。えーっと……ベルリンの壁が崩壊したぞ。楽しみにしていた『魔女の宅急便』、オレ一人で観ちまったよ。男の子と女の子が頑張るいい映画だった」
「うわ、ズルい」ひびきが口を尖らせる。
「『ダイ・ハード2』と『バック・トゥ・ザ・フューチャー3』も観た。最近はバルブ崩壊とかで不景気らしいけど、まあまだまだ大丈夫かな」
「ほんと? ちゃんとしたゴハン食べてる?」疑わしそうな半目。
「食べてる食べてる、昨日なんて刺し身と天ぷらだぞ」
「どうせ人にご馳走されたやつでしょ、もう」眉を怒らせる角度も記憶のまま。
「あと、実家の犬が去年子供産んでさ、里親探し大変だったよ」
「え!? 子犬の写真、ない?」キラキラした瞳の輝きも。
「ゴメン、ない」
「ちきしょー! チャッピーのわんこ見たかった! ほんっとーに見たかった! はちみつレモンまた飲みたい。ここって退屈なんだよー」
喜怒哀楽、一つ一つが三年の間に色褪せた思い出を鮮やかに更新する。
はらり、はらりと、「もしも」という悔しさも、彼女の危機を察せられなかった自身への罵倒も、何も出来なかった無念さも、己を無価値だと信じて自棄になった気持ちも、常にどこかから心を押し潰しそうだった不安も、一つ一つ剥がれ落ちていく。
号は頬を伝う物が横へ流れるのも構わず、寝転がった。ぎゅうっと喉を締め付けられる感覚と共に、妻の頭を抱きしめて、二人そのまま無言の時間を過ごす。
口を開こうとすると声が裏返りそうだった。号は唾を飲みこみ、上手く話せるよう何度か喉をさする。
「オレ、ずっとここに居るよ」
「ダメだよ、ごっちゃん」
「そう言うと思ったんだ」
ひびきは、悪いことや嫌なことはハッキリ言うタイプだ。何のために自分がここへ導かれたのか、号は察していた。彼女を解放しなければならない。
妻の頭を抱えて号は蓮池へ戻った。岸にひびきを降ろし、残りの体も集めて、一つ一つ人の形になるよう並べていく。最後に、両手で金魚を一匹すくった。
「口、開けて」
「あーん」
梔子の花弁と共に、紅白の魚身が彼女の口へ身を移す。赤い舌の上で鱗がひらめき、奥へ消えた。小さく喉が上下するが、そこから水も魚もこぼれはしない。
生きた男の腹から生まれた
もう一匹、さらにもう一匹呑ませると、はらはらと花が散り、葉や枝が抜け落ちて、バラバラの体が繋がっていった。
「ふぅ」
彼女もそれは同じだっただろう。
「……ひびき、待っててくれるか?」
「当たり前じゃん、ごっちゃん。でも、ゆっくりでいーよ」
〝また明日〟のような軽さで、夫婦は別れを済ませ。
号の五感は再び暗転した。
◆
『
『神幸!』
『御神幸である!』
樹木で出来た蛇の骨格が、人の頭をつけて満天星山から町を見下ろしていた。代わりに山から下りてきたのは、大名行列だ。あえて似たものを挙げるならば、だが。
列を成すのは朱塗りの鳥居や藁人形、はたまた歩く樹や草花だ。どうだん稲荷の旗を掲げ、傘や槍鉾、香炉を持ち、担がれる輿にはクチナシの姿があった。
神に捧げる神聖な踊り・フラを踊る女性たちと、椰子の木が描かれたホリゾンタルのアロハシャツを着て、ジーンズから白い裸足をぶらぶらさせながら、黒地に梔子の花と金糸をあしらった羽織を肩にかけている。神とは思えぬコーディネイトだ。
【
長い黒髪はそのままに、裂けた口を閉じる縫い目はもはや無い。
【
かの神の膝には縄を解かれ、傷一つない体に治された慈愛が眠っていた。
【あな
この
「私はお前たちを長らく恵んでやったのに、増長して反逆し、私の樹を切り倒した。私は非常に不愉快で、怒っているので、お前たちを処刑する」
……という所だ。
詔を合図に、人々の首がぽんと飛んだ。頭は花と散って血飛沫に染まり、どうと倒れた体は溶けて血の海となる。行列が一丁目、二丁目と進むごとに血花が咲いた。
眼に触れた端から飛ぶのだから、誰もどうすれば良いか理解する前に死んだ。
中にはそうならない者もおり、多くは若者か外部から引っ越してきた住民だった。ある者は伏して拝み、ある者は押し入れなど閉所にこもり、ある者は無我夢中で逃げ出す。無作為に選ばれたのではなく、苗床を一切刈り取っているのだ。
生死狂わす白痴の神と化していたどうだんは、分霊として切り離していたクチナシが充分に力を蓄え、戻ってきたことで本来の在り方に立ち返った。
そもそも餐原の地は、祭原の祖先が切り開いた集落が始まりである。神も信仰も彼らは持ち込んでおり、当初は屋敷神として家中で祀っていた。
血族が広がると共に彼らは「餐原一族」から祭原と帰に分かれ、神社を建立。つまり、どうだんは稲荷以前に産土神であり、土地神であり、当地冥府の支配者だ。
死後の世界――花のをすくにが、一時的に地上に現れ、黄人草を呑みこんでいる。
本来ならば死病を流行らせる祟りでも起こすのが妥当であろうが、いかんせん不届き者が多いゆえの措置だ。
地獄の片隅で、真っ赤なジャガーが田んぼに突っこみ、赤い炎と黒煙を上げて燃えさかっていた。運転していた克生は肋骨のヒビで済み、ようやく自宅にたどり着く。
「母さん……母さん!」
町の異常は気づかない訳がない。母の美智代はどこかに避難したのだろうか、頼むから待っていてくれと思いながら、克生は土足で我が家に上がりこんだ。
「で、だ。話の続きを始めようか、克生」
障子を開けた先に、森之進が座って待っていた。ちゃぶ台には湯気を立てる湯飲みが三つあり、それを淹れた美智代は折り目正しく正座している。
畳には抜き身の日本刀が突き刺さっていた。おそらく自宅に寄って持ち出してきたのだろう。母に手を出されたくない一心で、克生は向かい合わせにどすんと座った。
黒く艶やかな肌を赤黒く染めながら、睨みつける視線を森之進は意に介さない。
「君は口無しが慈愛くんと育ちゃんを殺したと言い、二人には死の直前の記憶がない。育ちゃんに記憶があっても都合が悪いのは、ぼくにも分かるさ。だがね、慈愛くんが殺されたと仮定するなら、
そんな説明を始めてどうなると思ったが、自由に口をきける立場ではないのは重々承知していた。だが、母の前で暴露するのか、それを。
突き立つ刀を手に取れないかとも思うが、霊術で強化できる森之進が先手を取る。
「あの頃の慈愛くんに対する君の態度を思えば、命を落とす理由はいくらでも思いつく。そして育ちゃんは、自分の命を盾に脅迫してでも、君の行いを正そうと刃物を持ったこともあったんだよ。君は知らないだろうがね」
克生が美智代の様子をうかがうと、彼女も知らなかったようで眼を見開いていた。
「だから――慈愛くんが君のせいで亡くなって、育ちゃんがそれを知ったなら。彼女が自ら命を絶つなんてこと、すぐ分かるんだよ。ぼくは夫なんだからね」
そこで言葉を切って、森之進は温かい緑茶をすする。「喉渇いてないかい?」と勧められたが、とてもそんな気分ではなかった。
「もちろん、これまでは君の言い分を信じていたさ。景克先生もそう言っていたが、彼が急死したこと、君がよみがえりを選ばなかったこと、そして慈愛くんと話したことが決定打になった。筋が通っていたし、真実こうだ」
茶飲み話のように軽い調子で、森之進は殺意の臭いを発した。ツンと冷たく金属的な感じは、刀が帯びる剣気というものかもしれない。
「ああ、〝問いかけ〟も大きかったな。彼は人としても神としても中途半端だから、自ら命を殺める権利を持ちえないんだ。だから最初から、君の嘘は成立しない」
ことりと、空になった湯飲みを「ごちそうさま」と置いて、森之進は刀を抜きつつ立ち上がった。美智代はひ、と短く声を上げて身をのけぞらせる。
とっさに、克生は少しでも彼女を庇えそうな位置へ立った。
「おばさんは下がってください。お召し物が血で汚れますよ」
「母さん、頼むから森之進を刺激しないでくれ。早く逃げるんだ」
猟銃は途中で捨ててきた。克生の手にある武器はアーミーナイフ一つだ、剣道三倍断、剣を持った相手に素手で勝つには三倍の実力が要ると言う。
ナイフ一つが三倍の差をどこまで埋めてくれるものか。霊術という奥の手を持った森之進を相手には、大した違いはないだろう。
「そうそう、潔く首を差し出してくれれば、ぼくは満足だ。おばさんのためにも、あまり苦しまないようにするから」
自分がどうなって良いとまでは言わないが、母だけは守らなくては。息子が死の恐怖を抑えこむ背後で、美智代は速い調子で深呼吸をくり返していた。
膝の上に乗せた拳を振るわせ、不意に大きく身を乗り出す。
「わたくし、とても音痴なの」
二人の怪訝な視線が美智代に差した。
「人間音痴なのよ。周りの人に合わせて、自分を主張することがほんとうに苦手。ピアノが弾けるだけのつまらない女。だけど、一人息子ぐらい、守らなくちゃ」
すっくと美しい所作で立ち上がり、「待って」という声を無視し、美智代は克生の前に立ちはだかった。小柄なりに真っ直ぐ森之進を睨みつける。
「困ったな。父にはよく『お前には人の心がない』と怒られたものですが、貴女は育ちゃんを産んで、そだててくださったお母さまだ。さすがに殺したくはありません」
森之進は素直に刀を鞘に収めた。ほっと美智代の肩から力が抜け、どっと汗が化粧を滲ませる。そして彼は柄を克生に差し出した。
「という訳で自害してくれ、克生。君が生きるのはもう一分一秒たりとも許せない」
「ぉをっ――」
何を言おうとしたのか自分でも分からない雄叫びを上げ、克生は母親を押しのけて襲いかかる。ナイフの刃先を突き立てて、自分と美智代の命を守るしかない。
障子が多量の液体をぶつけられて揺れた。大きく重いものが転がる振動が続く。
袈裟懸けに斬られた克生からナイフを奪い、延髄に突き刺した。霊術の後押しを受けた神速の居合いは、美智代も克生も何があったか分からなかっただろう。
代償もタダではない。こめかみがズキズキと痛み始め、鼻血がだらりと垂れた。それを拳で拭って、森之進はぺこりとお辞儀した。
「それでは、失礼致しました。さようなら」
後には口をぽかんと開けたまま崩れ落ちた美智代と、克生の死体、そして延髄から引き抜かれたアーミーナイフが残される。
部屋を後にし、勝手知ったる廊下を黙々と歩き、ふと森之進は引き返した。一旦閉じた障子を開くと、美智代が喉にナイフを突き立て、息子の傍らに横たわっている。
「ああ、やっぱり育ちゃんのお母さまだなあ」
森之進は、再び妻に会ったかのように、恍惚と微笑んだ。
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