かくて人は意(い)を宣(の)り、祈る

 とつぎ美登里みどりが退院した時、自宅は雨が引き起こした土石流に壊され、父ともどもしばらく祭原さいばら邸で暮らすこととなった。

 発疹と熱で入院し、もうろうとしていた美登里はまったく気がつかなかったが、餐原町さんばらちょうは土砂災害で壊滅的な被害を受け、多くの死者を出したそうだ。

 降り続けた長雨は、満天星どうだん山を始めがけ崩れや山崩れを起こし、北から西にカーブして南のびわ湖へ流れる偉蛇川いだがわは氾濫。


 牧山ファミリースキー場、餐原ピックランドといった山のレジャー施設は大打撃を受け、町の観光業はこれから大きく落ちこむだろう。

 満天星山にはひと筋の傷痕が残された。巨大な蛇か龍が山肌を這い降りたような格好で、家並みの三分の一をなぎ払い、偉蛇川と合流して二次氾濫を起こした。

 現在確認された死者はおよそ二〇〇人だが、負傷者、行方不明者の数は徐々に増えていくだろう。美登里の母・育乃いくのもその一人だ。


「パパ、ママぶじだよね? 帰ってくるよね?」


 父の森之進もりのしんに叔父の祭原慈愛しげみを加えた夕食の席で、美登里は何度目かの問いを発した。黒檀の座敷机にはレバーの甘辛煮、冷や奴、夏野菜の煮物が並ぶ。

 料理は慈愛が作った。彼の自宅は奇跡的に無事だったが、多くの土砂が雪崩れこんだ屋敷の片付けのため泊まり込みで手伝いに来ている。

 祖母の美智代みちよと、伯父の克生はすでに死亡が確認されていた。災害前には祖父も、祖父の姉たちもとうに亡くなっている。


 災害の死者は半数以上が高齢者だが、祭原の分家筋も多く含まれていた。今や本家宅を直接管理できそうなのは、慈愛ぐらいのものだ。

 父と叔父たちはこれから、祭原の大きすぎる屋敷や、神社をどうするかについて話し合っていくらしい。二人とも地域の信頼篤い神主として、医師として、やらなければならないことは幾らでもある。退院間もない美登里は、休んで良いと言われたが。


「大丈夫だよ、美登里ちゃん。パパと二人でママを待とう」


 森之進はそう言って娘を抱きしめた。母にぞっこんだった父は、きっと心配で気が気ではないはずだ。彼の態度に違和感を覚えながら、少女は眼をそらした。


「テレビでもつけようか」


 慈愛がリモコンを入れると、清掃企業のコマーシャルをやっていた。姉妹なのか、二人の老女が「きんは百歳」「ぎんも百歳」と長寿をアピールする。

 人って百年も生きられるんだ。自分が生まれてから今までを、更にあと十回も続けるなんて美登里には想像もつかない。今たくさんの人が災害で傷ついたり、いなくなったりして、本当に酷いことが起きている。


「ねえ、パパ。なんで人は死んじゃうのかなあ」

「それはね、美登里ちゃん。宇宙のほとんどは死んでいることが当たり前で、生きていることの方がずっと不思議で、へんてこで、怖いことだからだよ」


 父はなぜ空は青いのかとか、ミカンが酸っぱいのはどうしてと聞いた時と同じ調子で話し出した。何を言っているのか訳が分からず、美登里はポカンとしてしまう。


「だから、いつか死ぬことは当然なんだ。生きていることに比べたら、なんてことない。でも、生きることは一回限りで、あっという間に終わるから、大事にしなさい」


 父が頭をなでる手は優しく温かい。言っていることはよく分からないけれど、大きくなったら自分も理解できるだろうか。少し安心して、美登里は続けた。


「じゃあ、死んでオバケになるのは?」

「半分生きて、半分死んでいる状態かな。神さまは、生きても死んでもいない、私たちとはまったく違うものだから、凄いなあと仰ぎ祈るんだ」


 分かるような分からないような心持ちで、美登里はうんうんと頷いた。叔父が「さ、食べて食べて」と促すので、大好きな冷や奴に箸をつける。

 一度ゆでて冷ました豆腐は余計な水分が抜け、味が濃くなって美味しい。ママも料理が上手だけれど、毎日叔父さんのご飯を食べていたら、ついつい太りそうだ。

 屋敷の空気は、今までより明るい。



 ひびきと別れた後、気がつけば号は山の頂から町の惨状を見下ろしていた。満天星山は崩れた後で、田畑や家々が泥の海に沈み、太陽を照り返している。

 比較的高台にあった祭原総合病院はまだ無事のようで、号はそこへ向けて走った。車両は使い物にならず、足を使うしかないが体力はまだ充分に残っている。

 着いた時には日が落ちていたが、非常事態のため院内は人でごった返していた。眼は瞬時に立ち働く慈愛の姿を見つけ出す。


「慈愛さん! 無事か!?」


 彼は暴行された後、縛られて監禁されたはずだが、どうしてここにいるのか。そんな疑問はこの際構わなかった、クチナシは、あの神はきっと事を終えている。


河野こうのさん、お怪我は」


 看護婦やスタッフの人垣から、慈愛は身を乗り出した。


「そんなことはどうでも良いだろ、お互い!」


 号はずっと握っていた水筒を目の前に突きつける。二匹の金魚を入れた水筒だ。


「早くこれを、美登里ちゃんに渡さないと」


 慈愛の表情が医師としての社会的な表情から、姪を案ずる叔父という個人的なものに切り替わる。周囲に厳しく注意を払っていた五感が、目の前のことに集中した。

 大忙しのはずなのに、慈愛は誰に咎められることなく抜け出す。死者と生者の間に生まれた美登里は、母が花のをすくにに迎えられたため、自らも死者に変わろうとしている。この世に留めるなら、身代わりを差し出さねばならない。

 つまり、号の金魚を。


――誰かか、何かが貴方の身代わりになるよう、金魚を遣わしていると、私はそう思いますね。


 かつて森之進はそう言った。花の苗床からひびきを解放したように、自分の腹から生まれる金魚には、不吉の兆し以外にもそういう力があるのではないか。

 病院へ向かう道すがら、自分が目的地で何をしようとしているのか考え、言葉にした結果がこれだ。金魚たちを飲ませれば、美登里は助かると。

 果たしてその直感は当たっていた。


 驚いたのはその後で、姪を大切に思う慈愛と、娘を愛する森之進それぞれから凄まじく礼を言われ続けたことだ。

 慈愛が受けた暴行を止められなかった件は、これで帳消しにされた気がする。当人もなぜか――きっと、とうだんの力で――助かったようだし。


「で結局、オレの金魚って何だったんですかね」


 話題を変えようと号が疑問を挙げると、森之進と慈愛はしばし話しこんだ。


「あの。さっきあんな……ことがあって、お互い気まずくないんですか?」

「いえ、別に終わったことなので」と慈愛。

「彼が気にしないなら、必要ないでしょう」と森之進。


 二人の間に血の繋がりはないが、義理の兄弟は変な所で似ているようだ。

 ともあれ、この議論はしばらく続き、災害後のゴタゴタもあって、町内会の集まりで思い出したように森之進から告げられた。号はほとんど忘れた頃だ。


「簡単に言えば、駐在さんは神なるものの鑑賞物ではないでしょうか」


 畳敷きの会議所内、号は飲んだ茶を吹き出すかと思った。


「冗談よしてくださいよ。オレなんか見て、何が面白いって言うんですか」

「金魚が金魚の美しさを、人間が愛しているなどと知っているかと思いますか?」


 言われると号も反論できない。ペットの動物はみんな、自分が人間にとって可愛かったり、美しかったりしているから飼育されているなどと知るまい。

 猫を飼っている友人は、「猫は自分の可愛さを分かっている」などと主張していたが……だとしても、金魚には無理だ。


「金魚とは、偶然生まれた姿を人が世に留めた、自然界には本来存在しない魚です。それゆえに、生きた芸術とも言われているとか。何とも傲慢なことですがね」


 金魚屋の親戚としてはまた耳に痛い言葉だが、この人は金魚か、それともオレが嫌いなんだろうかと号は胸中考えた。


「そして金魚の美しさは、人間に飼育され繁栄したという点を別にすれば、彼ら自身には何の役にも立たない、無価値なものです。つまり河野さんは一種の突然変異した人間で、人の世界では無用な何かを神に気に入られているのではないかと」

「要するに、〝神さまの思し召しは人には測れない〟ってことでしょ」


 推測に推測を重ねた、ごく不確かな想像だ。号は急須から茶をつぎ足した。


「おや、ひどい。なかなか頭を悩ませたのですよ」

「それはまあ、ありがとうございます」


 森之進は相変わらず、何を考えているのかよく分からない、だが何となくにこやかな面立ちのままだ。この顔のまま暴力に訴えたり、加担したりする。

 この男が神罰を免れて生き残ったのが不思議だが、クチナシが神の位を取り戻した最後の一手は彼が主導したようなものだ。ゆえに罪一等を減じられたのだろう。

 それに、二度と帰らぬ母親を待つ姪を、慈愛は一人にしたくなかったはずだ。


(実はコイツがすでに二、三人殺しているって聞いても驚かねえけどな)


 それから。

 号も慈愛も森之進も、災害の後片付けに東奔西走しながら話し合い、だんだんとあの十日祭の日に何があったのか把握したが、森之進が殺人の事実を明かすことはなかった。克生と美智代の死は土砂災害に埋もれ、ただの犠牲者として記録される。

 大きな災害だったはずだが、報道ではほとんど取り上げられることもなかった。それもそのはずで、これらは神罰の結果を現実に置き換え、反映させた結果だ。


――おのも各もさくなだりに、落ちたぎつ血潮で道を潤し、おらびいさちれ!


 クチナシは神の位を取り戻し、残った黄人草と、自らに逆らった祭原の一族を鏖殺した。許されたのは遠方に住んでいるもの以外では、慈愛と美登里だけだ。

 前者も餐原の地を踏めば、間違いなく命を落とすだろう。

 慈愛は幼い頃から仕え、復権に貢献したため、褒美に美登里を免罪してもらったそうだ。本来なら、罪もない少女も罰の対象に含まれていたのが神の恐ろしさか。


 祭原景克の葬儀当日、クチナシが帰ってきたその日から餐原町は異界に飲まれ、〝花のをすくに〟と化していた。

 十日祭の日、克生の決起に号が署の応援を出せなかった理由が、これだ。連絡すれば、通常通りのやり取りが発生するが、それだけ。

 再度連絡すると何事もなく、まったく同じ受けごたえをされるだけ。何度やっても変わりようがなく、そのうち金魚を吐いたので号は諦めた。

 災害の原因が、景克の葬儀から十日間降り続いた雨、ということになっているのもそのためだろう。実際に降ったのは火曜二十三、二十四日だけだ。



『6月、大阪・藤井寺市のホテルで31歳の女性が刺されて死亡しているのが見つかり、警察は28歳男性が関与しているとして、今月10日、殺人の疑いで逮捕しました。調べに対し、男性は容疑を否認しているということです』


 八月に入ると町の復興もだいぶ進んできた。このところの号は、よく慈愛に誘われては手料理をご馳走になっている。いつだったか、慈愛は突然裏返りかけた声で「今度……よろしかったら、食べにきませんか……」と言い出したのだ。


「私、実は人が食べ物を美味しくお腹いっぱいに食べてているのが好きなんです」

「へえ」

「あと友人の作り方が分からないものでして」

「へぇー、オレ友だちって思われてなかったのか……」

「えっ」


 クチナシはもう居ないが、彼の料理が一級品であることは承知している。断る理由もないので了承し、たまに森之進や美登里ともいっしょになった。

 姪が可愛いのもあるだろうが、本当に克生からの暴行に加担した彼のことは気にしていないのだろう。傍観していたという点では、号も同罪のようなものだが。


『逮捕されたのは、大阪・富田林市の無職、碑文谷ひもんやたかし疑者、28歳です。亡くなった女性は同市の結婚式場従業員・祭原百合子さん。警察は百合子さんが犯罪に巻きこまれたとして調べていましたが、捜査の結果、交際相手の碑文谷容疑者が……』

「祭原?」


 号はニュースを流すテレビに注目した。場所は祭原邸だったり慈愛の自宅だったりするが、今日は自宅の方だ。号のリクエストで、二人してろんこぎを作っている。

 さすがに杵と臼は用意できないので、ボウルに材料を入れて代わる代わる捏ねる簡略版、ろんこぎ団子と呼ばれるものだ。


「……兄の奥さんかもしれませんね。はい、ろんこぎろんこぎ」

「殺されたのは十九日か……よっと、ろんこぎろんこぎ」

「だから葬儀に出席もしなかったし、兄に死亡の連絡も来なかったのでしょう」


 クチナシは人を殺せない、食べたなら遺体は見つからない。神罰が過去へ遡及して克生の配偶者に及んだのだとしても、「犯人」がいるのは不自然だ。

 彼女は彼女自身の人生で、命を落としたのだろう。神罰とどちらがマシなのか、何とも判じがたいことだが。


『配偶者の祭原克生さんは、同六月に神島郡の土砂災害で亡くなっており、百合子さんと碑文谷容疑者は不倫の関係にあったということです』


 人の家の余計な情報を聞いてしまったと思ったら、不意に自分と同じぐらい微妙な表情をした慈愛と目が合う。互いに苦笑いするしかなかった。

 二人は、六月の二十五日に克生が死んだはずの彼女と話したことを知らない。


「そういや、〝ろんこぎ〟って名前、何が由来なんですかね」


 号は百合子の事件から話題を変えた。


「兄さまの真の名前が、訛って伝わったものです。はい、ろんこぎろんこぎ」

「ん? どうだんってのは、騰蛇とうだが訛ったものじゃ。おう、ろんこぎろんこぎ」


「兄さまを騰蛇と思ったのは、ただの勘違いですよ。エビスのように外国からやって来る神を来訪神、あだしくにの神と言いますが、ろんこぎろんこぎ」

「はい、ろんこぎろんこぎ」

「彼は私たちの宇宙の外から訪れた。騰蛇というのは、その御姿に無理やり当てはめたものなのです。ろんこぎろんこぎ」


 だから御山に満天星とつけたのも、ただ音を合わせただけに過ぎず、満天星どうだん躑躅つつじとは何の関係もない。


「じゃ……結局、ろんこぎってのは」

「かなり変わってしまって、もう原型を留めていないのだとか。私は本当の名を教えられましたが、発音も、文字にするのも無理ですね」


 やがて、ろんこぎ団子が出来上がり、その他の菓子とご馳走になって、号は慈愛邸の玄関に出た。辺りには、枯れた紫陽花が花を散らさぬまま捨て置かれている。


「そういえば、あれも刈らないといけませんね。見苦しい」

「枯れた紫陽花、嫌いですか?」

「ええ。もうしおれてしまったのに、落ちもせず散りもせず、形を留めている。木乃伊みいらか何かのように、亡骸が残されているようで好きになれません」

「へえ。オレは枯れてしまった紫陽花って好きなんですよね。青紫や赤紫があんなに鮮やかだったのに、今は古い写真みたいなセピア色になって、形が残るのが良い」


 慈愛は首を傾げ、何度か瞬いた。


「そういう考えも、あるものですか」

「咲くだけが花じゃないでしょ。じゃ、盆明けにまた」

「ええ、また」


 三日後には盆の入りだ。ひびきの一件に蹴りがついて、今年は清々しい気持ちで帰省できる。帰って来る兄や妹、両親ともっと話したい気持ちになっていた。

 軽やかな気持ちで、号は車に乗りこんだ。



 彼が帰った後、慈愛は一皿取り分けたろんこぎ団子を持って、二階へ上がった。専用に開けた一部屋に、大きな神棚がしつらえてある。


「兄さま、お団子をどうぞ」


 慈愛は神前に団子を供え、一心に祈りを捧げた。


【口はこれにて、しじま請い】終

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花のをすくに 雨藤フラシ @Ankhlore

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