二、または梔子(くちなし)

八 どうだん稲荷

 朝の祭原さいばら家に、絹を裂くような悲鳴が響き渡った。二日酔いの頭痛を抱えた克生かいは布団を深く被り直したが、その後も二度三度、複数人の悲鳴が続き、やかましい。

 とうとう寝間着の浴衣姿のまま起き出すと、克生は霊舎みたまやへ向かった。まだ忌中なので、景克かげよし霊璽れいじと遺影は仮霊舎に祀られている。後飾り祭壇というやつだ。


 霊璽は仏教で言う位牌のことで、木主もくしゅを使うから見た目からしてよく似ている。景克のものは木曽きそひのきの白木材に、鏡付きの鮮やかな錦で覆っていた。

 それが真っ二つに割れている。

 厚みのある檜材が、黒曜石のようになめらかな傷口を見せて祭壇の下に転がっていた。どんな力を加えればこうなるのか、克生には検討もつかない。


 入り口でたむろしていた使用人たちが、室内に入るのも恐れはばかるようにしていた理由が分かった。そして、もっと驚くべきことがある。

 三段ある祭壇の頂上に飾られた遺影が、景克の姿だけ焼けたように真っ黒に潰れていた。写真全体や額が煤けていたら、誰かが焼いたと思えるのに。


(親父は地獄に堕ちたのか?)


 あるいは、自分のせいでは。

 そこまで考えて克生は思考を止めた。脳に錐を突き立てられるように、ズキン、ズキンとくり返し頭が痛む。二日酔いのせいだ、それ以外理由があって堪るか。


「……森之進は」


 昨夜はしこたま酒を飲ませて酔い潰したから、まだ寝ているだろう。克生はそう思ったが、使用人からは「もうお帰りになられました」との返事があった。

 そういえば神社にとって、週末はかき入れ時だ。森之進が宮司を務めるどうだん稲荷は、朝六時半から拝観可能となっているので、それに合わせて出たのだろう。


「すぐ呼び戻せ! 犯人が誰かは知らんが、遺影は片付けて、霊璽も作り直しだ。あいつには神主として立ち会ってもらう」


 自分の怒鳴り声が頭にきんきんと響く。克生はしばしぐったりと壁にもたれかかると、身だしなみを放り出して食事を優先した。

 旬には少し早いシジミがたっぷり入った汁を二杯ほど飲むと、どうにか宿酔の責め手が緩んでくる。そういえば、昨夜は吐くまでに至らなかった。


(ああ、そういや慈愛がやたら水を飲ませてきたな……)


 無愛想な弟だが、何だかんだ兄の世話を焼くのは可愛い所がある。あいつの神経質さや心配性な所も、いざとなれば役に立つものだ。

 人心地がついて、克生は身支度を整えた。顔を合わせると、母の美智代も一件をすでに知っていたようで、不安な顔をしている。


「……あの人は、〝花のをすくに〟に旅だったのよね? どうしてこうなるの……」


 生前は仲が良いとは言いがたい夫婦だった。そんな夫でも、死後このような怪異に巻きこまれると動揺を隠せないのだろう。

 母を守らなければ。克生は自分よりずっと小柄な彼女の手を両手で包みこんだ。


「母さんは心配しないで。森之進がもうすぐ来るから、あいつと俺で仮霊舎のことは片付けておくよ。これからは俺が当主なんだろ? 大船に乗った気でいてくれよ」


 手の中に感じる母のぬくもりと、上下する細い首を見ていると、彼女の老いを感じて堪らなくなる。そういえば、妻の百合子は結局葬儀に出席しなかった。

 俺に恥をかかせやがって、という憎悪と共に、母のように淑やかな女性はなかなか見つからないな、克生は胸中ため息を吐いた。



『請願成就 信仰の力で明るく幸せな人生を送りましょう どうだん稲荷』


 神社の前には空き地があり、ちょっとした遊具なども置いてある。「←どうだん稲荷🅿」と案内板がついたすべり台を過ぎて自転車を止めると、絵馬の形をした看板がごうの目に入った。狐と注連縄を巻いた樹のイラスト付きだ。


 一夜明けて日曜日、緊急の呼び出しがあれば別だが、駐在所は休みだ。今の内に祭原慈愛しげみや「兄さま」について、神主夫妻に話を聞けないかと神社を訪れた。

 時刻は十時過ぎ、昨夜はひどく疲れたが、睡眠も気力も充分だ。


 号はお稲荷さん特有の朱い鳥居の前は何度か通ったことがあるが、小さい印象があったので驚きだ。号から見えていたのは大鳥居と、その先にある拝殿までで、後ろに控える大きな石段と本殿までは見通せていなかった。

 先の遊具でも子供たちが遊んでいたが、境内にもちらほらと参拝客の姿が見える。参道には神社の由緒が書かれた立て札があった。


『どうだん稲荷イナリ

 御祭神 倉稲ウカノミタマノミコト

     アメノ鈿女ウズメノミコト

     猿田彦サルタヒコノミコト

     大己貴オオナムチノミコト

     少彦名スクナヒコナノミコト

 御祭日 二月初午ノ日』


 これによると、『祭原の祖先が病で寝込み、もうダメだと思った時夢の中に空を飛ぶ白蛇が現れ「我が姿を餅でかたどれ」と命じ、それに従って食べたらみるみる快癒した。以後屋敷内にどうだん稲荷として祀ったが、祭原の分家がこの地に広まるにつれ、新たな信仰の場所として神社が建立された』とのことだ。


(慈愛が言っていた騰蛇とうだってのが夢に現れた白蛇で、あれは騰蛇に違いないと「騰蛇稲荷」としたら、いつの間にか名前が変わった……ってことか? でもなんでお稲荷さんなんだろうな。まあ詳しいことは神主さんに聞きゃいいか)


 拝殿には味のある筆書きで「御祈祷奉仕受付→」との看板があり、示された方向にはちょっと上等なバス停留所といったおもむきの「御祈祷待合所」があった。

 どれと近づくと黒壁に掲示板がある。草刈りなど地域のお知らせに混ざって、神主宅で開かれるピアノ教室の張り紙があった。生徒募集中らしい。

 受け付けにある『御祈祷のご案内』によると、家内安全、病気平癒、恋愛成就、良縁、子宝、安産、金運、学業、とその内容は多岐に渡る。


『御祈祷 受付

 本祈祷 五阡円~

 上祈祷 七阡円~

 大祈祷 壱萬円~

 随時ご奉仕申し上げます』


 他、『御朱印受け承ります 初穂料三〇〇円』『幸せを呼ぶ どうだんおみくじ 初穂料七〇〇円』……「商売やってんなー」と言うのが号の感想だ。

 とはいえ、神社に来たならお参りの一つもするのが礼儀だろう。


 号は手水舎で手を洗い、本殿の賽銭箱に五円玉を入れて鈴を鳴らした。

 作法通りお辞儀を二度、柏手を一度、もう一度。カンッと甲高い音がして、箱から賽銭が飛び出した。額を直撃した力は思いのほか強く、号はのけぞった。無意識に落ちてきた賽銭を受け止めると、今しがた七輪で焼いていたように熱い。


 そんなバカなと思っていると、急に世界がぐるりと回った。足裏から地面が欠ける感触に肝が冷える間もなく、背中が石段を滑り落ちる。

 柔道の受け身を取って頭だけは守ったが、十数段ほど落ちるのはさすがに厳しい。周囲が騒がしくなる中、号は歯を噛みしめてしばし痛みに耐えた。


「貴方! 大丈夫ですか!?」


 最初に声をかけてきたのは、神主の森之進もりのしんだ。白衣に紫の袴姿だったから、号は顔も覚えていない彼を判別できた。


「頭は打ってませんから、大丈夫です、はは」

「打っていない? 本当に?」

「いや……ちょっと打ったかも……」


 そうでなくても全身が痛い。周りの参拝客も集まってきて、号は社務所の一室でたちまち寝転がされた。枕とマットとタオルケット、冷たいお茶があっという間だ。

 休んでいる間に何が起きたか考えた。入れたはずの賽銭があんな戻り方をするなんて、あり得ない。ここの神さまを怒らせるようなことをしただろうか?


 子供のころから、地元の神社には毎年詣でていたから作法を間違えていないとは思うが……こっちではやり方が違うのだろうか。

 三十分ほどして、神主の妻・育乃いくのが冷たい麦茶のお代わりを持ってきてくれた。


「駐在さん、具合はどうですか。これ、お口に合うかしら」

「わざわざすみません。もう平気ですよ。いやあ、お恥ずかしい」


 麦茶には、手作りとおぼしきフルーツポンチが添えてあった。色とりどりのカットフルーツや、紅白の白玉団子が澄んだサイダーに浮いている。

 切子硝子の器が、窓から差しこむ日を受けてキラキラしていた。


「ここに来て一年経ちますし、町の歴史とか、神社仏閣ってやつを少しは勉強しようと思ったんですけれどね。いただきます」


 とりあえずこう言っておけば、何だかんだ訊いても不自然ではない……だろうか。号がスプーンですくったキウイは、星形にくり抜かれていた。


「このフルーツポンチ、美登里みどりちゃんのために?」

「二人で作ったんですよ。夫が忙しいから、デザート用意してあげよう。って」


 ずく、と胸に釘を押し込まれるような衝動がある。ひびきが生きていれば、号もどこかでこんな未来があったのではないか……それは今考えることではない。

 自分は何とか祭原家や、あの口裂け男と繋がる話を聞き出すのだ。


「ごめんなさい」


 不意に育乃が頭を下げた。


「先日あなたからいただいた金魚、死なせてしまったんです。私も美登里も、水や餌やりには気をつけていたのだけれど……」

「いや、そんなに謝らなくて大丈夫ですよ! 美登里ちゃんがまだ欲しがっているなら、もらいに来て下さい」


 そういえば、昨夜樹海で吐いた金魚は、いったいどこへ消えたのやら。それから世間話や神社の由緒を再確認した所で、号は切り出した。


「話は変わりますが……祭原のご兄弟は克生さんと慈愛さんでしたが、他にもお兄さんっておられましたか? 特に、慈愛さんが親しく付き合っているような」


 つ、と育乃が眼差しで線を引くように目を細めた。その線には相手を測る目盛りがついており、こちらの意図を慎重に伺っているようだった。


「いえ、特には居ません。駐在さんは、どうしてそんなことを?」


 甘い顔立ちを十全に活かして、育乃は愛想良く振る舞っている。それでも、号の勘と観察力は眼差しの変化を見逃さなかった。


「慈愛さんが、とても背の高い男性といっしょにいる所をお身かけしまして。兄さ……んと呼んでおられたから、あんなに目立つ方、祭原さんにいたかなあ、と」

「もしかして、身長が二メートルを超えそうな?」

「そうです、そうです。心当たりが?」


 当たりだ。

 思わず身を乗り出したくなるのを堪えて、号は育乃の言うことに神経を傾けた。彼女は口を覆うが、その隙間からかすかに「帰ってきたんだ」と漏れるのを拾う。

 手を下ろした時、育乃は陶磁器のようにひんやりとした面持ちになっていた。今までの温かな様子とは打って変わった真顔だ。


「駐在さん、その人は本家と色々あって、あまり表に出せない方なんです。出来たら、他の方に訊ねたりせず、秘密にしていただいて良いですか?」

「……分かりました」


 号が他愛のない世間話に話題を変えると、育乃もまた柔和さを取り戻す。

 缶詰の蜜柑、桃、酸っぱいキウイ、パイン。果物の甘みがサイダーと共に舌の上で弾けて、白玉団子にぐにゃりと混ぜ合わされる。

 祭原があの化け物を認識し、隠していると分かっただけでも大きな収穫だ。彼らが隠しているものてへの明快な手がかりが見つかった。

 フルーツポンチを食べ終えると、号は丁寧に神社を辞した。

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