九 兎を追い、草を刈れ
代々どうだん稲荷の神職を世襲する
居間には
陰気な
「〝口無し様〟が
しかし今日に限っては、夫妻は神妙な面持ちで顔を見合わせている。夕暮れまであと少し、一人娘はまだ遊びから帰ってこないその隙に。
森之進は薄い眉根を寄せながら顎をなでた。
「駐在さんが見たのは別人だ、という可能性もあるんじゃないかな」
信じてはいないが念のため口にした言葉を、育乃は首を振って否定した。
「間違いないと思う。父さんだって突然すぎるし、もしかしたら……」
祭原景克は勤務中、執務室で倒れていた所を長男の克生に発見されている。直接の死因は、心臓と直結している上行大動脈が縦に裂けたため――つまり大動脈解離だ。
七十代は充分に発症リスクが高く、景克はかねてから原因になりやすい高血圧も抱えていた。突発的ではあるが、その死に不自然な所はない。
だが、祭原家に伝わる霊術の秘密は帰家も共有しており、口無し様という人外の存在も知っている森之進は、妻の想像を否定しきる材料を持たなかった。
「アレが戻ってきたら、どうだんさまは……どうなるの?」
育乃がそう思うのは自明の理だった。
何が起きるかは、森之進にとっても正確に予想できるわけではない。ただ、口無しを閉じこめるに値するだけの危険性は、祖先がさんざん説いている。
妻を不安にさせたくはないが、無責任に大丈夫と請け負うわけにもいかず、森之進は考えたあげく「分からない」と答えた。
「育ちゃん、危険だから君はしばらく家から出ないで。私は克生に連絡する」
今日はあいつと話してばかりいるな、と森之進は内心苦笑してしまう。もともと予約されていた祈祷以外は、祭原の変事にかかりきりだ。
元凶が口無し様であるというなら納得は出来る。
それにしても、慈愛があれと一緒に居るという話だ。確かに彼は口無し様によく懐いていた、と育乃から訊いているが……やはり記憶がないためか。
祭原慈愛は、口無し様に殺されてよみがえった死者なのに。
※
嘘をつかれた。
嘘をつかれた、嘘をつかれた、私に嘘をついた、しげちゃんが私を騙した。
ずきりと、一瞬気が遠くなるほど鋭い頭痛が育乃を襲う。
三十半ばにもなって稚気だとは分かっていても、欺かれたという怒りで頭の中がいっぱいになると、そのまま爆発しそうだ。駐在の前だから必死で押し殺したけれど、彼が帰るなり育乃は押し入れの布団に頭を突っ込んで号泣した。そうしないと、家の中の物を叩き壊してしまいそうで、誰にも声を聞かれたくなくて。
人を信じられない自分は醜い。だから疑わないよう、いや、取るに足りない嘘を認められるよう努めて、考えて、それでも美登里は友だちの雪ちゃんと喧嘩した原因があの子のトロール人形を壊したからだってことを黙っていたし許せなくて叩いてしまったけれどやっぱり悪いことをしたのは美登里だしあれはいけない嘘で
――ああ。
電話のため夫が居間を出ると、育乃は急いで部屋に戻ってまた布団を被る。
口無し様が帰ってきたという一大事に集中していた心が、また手負いの獣のように暴れ出していた。息を吸う、吐くの動作も急ぎすぎるとやり方を忘れる。生ぬるい汗がこめかみを伝って、脳が沸き立つような感覚で頭を掻きむしりたい。
しげちゃん、どうして嘘をついたの。口無し様を待っているなら待っているって言ってくれて良かったのに。もちろん私はそれを聞いたら、もうやめなさいって言ってしまったでしょうね。気がつかない姉でごめんなさい。でもあの時にはもう、彼は帰ってきていたんでしょう? 父さんが死んだんだから。自由になった口無し様と一緒になって、どうするつもりなの。
(しげちゃんと話さなきゃ)
森之進に相談すべきだ、と理性が小さく囁いた。むしろ夫には気づかれたくない、難なく無視できる声を後に、育乃は手早く支度する。
そっと家を抜け出し、スクーターに乗って帰家を出た。
◆
夕闇に浮かぶ祭原の屋敷は、泥船に似ている。小舟ではなく豪華な屋形船であるが、中も外もべっとりと黒い影がまとわりついて、およそ人の住み処に思えない。
建物の一部は経年劣化により改築されてはいるが、その
部屋に入ると、まずトロフィーが陳列されたガラス棚が目に入る。首を巡らせれば、額縁に入った賞状や高級時計、鹿頭の剥製のお出ましだ。マガジンラックには自動車雑誌や格闘雑誌が詰めこまれ、ゴルフ道具一式などが主人の趣味を表している。
さらにポケベル全盛のこの時代に、携帯電話
その最新通信機器が克生にもたらしたものは、歓迎できない報せだった。
「口無し様が戻ってきたって? あの野郎、なんで今さら……!」
『仮にも
ため息交じりに通話相手の森之進がたしなめる。
「どうせ蔑称だろ、クチナワナシ、蛇も食わない、ってな」
〝口無し〟という名はそれ自体が呪だ。
この地では、クチナワナシを「蛇も食べない」と伝えているため、名付けに選ばれた。蛇ですらお前を食わない、だから誰も食べることがないように、と。
「で、慈愛がいっしょか……駐在はどこで二人を見たんだ?」
『あいにく、そこまでは。彼には改めて聞きに行くよ』
赤い革張りのアンティークチェアに腰かけながら、克生は足を組み直した。
「任せた。とりあえず俺たちは、しばらく知らない振りで過ごす。十六年前の二の舞はご免だ、人を集めて口無しに対応出来る陣容を整える」
『ああ。またしばらく、忙しくなるね』
また足を組み変える。書斎机を指でコツコツ叩きながら話題を変えた。
「で、墓の方はどうだった?」
『見た感じ異常はなかったよ。改めて掘り返してみるかい?』
「今はこっちが優先だ、そこまではいい」
それから二、三軽く打ち合わせをして電話を切ると、克生は椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。無意味に音を立てて天板を打つ。
昨夜は自分が当主だと浮かれていたのに、今や己が不味い状況に置かれていることに、克生は腹も立てられなかった。あるのは追い立てられる獲物の焦燥感。
慈愛がどういう奴なのか、自分がどんな仕打ちをしてきたのか。口無しの帰還という知らせは、克生がそれらをまざまざと思い出すのに充分だったからだ。
あの陰気な男は必ず復讐に来る。やっと親父が居なくなって我が世の春という時に、やられて堪るか。向こうがその気なら、こちらも迎え撃ってやる。
指の関節をぽきぽきと鳴らし、克生は地面を踏みつけるような足取りでウォークイン・クローゼットに近づいた。音を立ててドアを開け、中に入る。
クローゼットの奥には、壁に固定された銃保管庫があった。
克生は狩猟免許を持っており、自分で狩った獲物を業者に依頼していくつか剥製を飾っている。自室の鹿など特に自慢の逸品だ。
保管庫の鍵を開けると、中には銃身と銃床を分解された猟銃と空気銃。実包(弾薬)は離れの装弾保管庫に入っている。
手入れが必要だ。
悪いことをしなさい、と母は克生に教えた。
蟻を潰したり、泥遊びするみたいに、小さな小さな悪いことを、たくさんしなさい。そうすれば、本当にやって善いことと悪いことの区別がつくから。
――母さんの言うとおりだ。
戦前、滋賀では学校行事としてしばしば兎狩りが行われていた。特にさかんだったのは南部の野洲川流域で、当初は労働学習の一環だったらしい。
冬になって雪が積もると、小学校の三年生以上は竹の棒を持って参加した。狩りは耐寒訓練として、近畿の他地方でも行われていたという。
神島郡でも、昭和四十年代までこの行事は続き、克生は兎狩りに参加した最後の世代だった。当時の興奮を、今も鮮烈に覚えている。
狩りは子供の行事なので、銃を使ったりなどはしない。竹藪や林を横切るように二重に張った網へ、よってたかって獲物を追いこむのだ。
役割分担を決め、道具を持ち、息を殺して兎の巣を囲む。さながら戦争だ。合図が出ると、追いこみ役が大声を上げて竹藪を棒で叩いて兎を追い立てた。
兎が横へ逃げないよう止める役目の者、藪から網へ誘導する者も順次大声を上げ、手の届く範囲を竹の棒で叩く。ワアワアという子供たちの声に、竹がぶつかるパンパンという乾いた音は、やはり戦場を思わせた。
手入れを終えた克生は猟銃の具合を確かめ、担ぎ、構えた。
(もしお前が俺を殺すなら、兎のように追い立てて、雑草のように間引いてやる)
そういえば、あのとき網に絡まって捕まえられた兎はどうしただろう。
克生は最初に追い出す役で、その年は五匹も獲れた。いつもなら三匹か四匹なので、多すぎるからと業者に渡して処分したはずだ。
まさしく、雑草のように。
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