十 乃(すなわ)ち育め、森のしげみ
物静かな母は、あまり自分の意見というものを口にしない。夫の
実際若い時分は、人形のように美しかったのだろう。廊下を歩くとき、人と会話するとき、箸の持ち方、口を開いて食べ物を入れる所まで何もかも綺麗。
箱入りのお嬢様だったというのも納得がいく、礼儀作法を完璧に教えこまれた姿はやっぱり人形じみていた。娘から見てさえ、人間味が欠けていると思うほどに。
その彼女が、ピアノを触るときだけは人間らしくなる。鍵盤を一つ弾いただけで、複雑な音色が母を輝かしく彩って、内心の喜びも悲しみも伸びやかに教えてくれた。
嬉しいときや明るい気分の時は、よりそれを際立たせる鮮やかな演奏。辛いときは静かに降り注ぐ雨のように、そっと包みこむ演奏。
泣くのも笑うのも、母はすべて鍵盤に乗せてしまう。それが育乃は嫌いではない。母がピアノの前に座ると、必ず傍に行って演奏に耳を傾けた。
「育乃も弾いてみる?」
初めてそう言われた時は、心臓が下からとくとくと突き上げられて、足が浮いてしまうかと思った。つやつやした白と黒の鍵盤は、服のボタンみたいに触り心地が良さそうだった。そっと触ると、浅すぎて音が出ない。
ぐっと押しこむと、ポーンと筒を抜けるような音がした。筒は水晶で出来ていて、虹色の艶を持ち、通る空気をより澄んだものに、より輝くものに色づける。
フルートやヴァイオリンでは、こうはいかない。幼児が触っても素敵な音が出る鍵盤を、育乃はしばらく夢中で叩いた。
「母さんね、ひどいオンチなの」
娘が一通り満足すると、美智代はそう笑いかけた。
「周りの人みたいに、怒ったり、笑ったりがほんとうに苦手。いつも下駄の鼻緒が切れたまま、足を引きずってみんなの後についていこうとする感じよ」
母はいたずらっぽく微笑んで「今のは『セロ弾きのゴーシュ』だけどね」と付け加えたが、育乃が宮沢賢治を知るのはずっと後のことだ。
「でもわたくしは、ピアノだけはきちんと弾けるの。面白いでしょう?」
父は兄を跡継ぎとして育てることに熱心で、女児の育乃には滅多に構わない。
母もまた、毎日厳しいノルマの達成を課せられ、失敗しては激しい折檻や罵倒に泣く兄を慰めるのに一生懸命で、育乃と触れあう機会は限られた。
祭原において、ピアノはほぼ唯一母と娘を結びつける機会だった。おもちゃのピアノをもらって無我夢中で遊び、小学校時代は母がレッスンしてくれたものだ。
「この楽器はね、一人でオーケストラが出来るの。ピッコロより高い音も、コントラバスより低い音も自由自在。だってこれ一台で、人間が聴くことが出来るほとんどすべての、音楽的な音を表現できるのだもの」
ああ、だからお母さんはピアノが好きなのかもしれない、と思ったことを育乃は覚えている。音符が瑞々しい果実のように実りゆき、次々と音楽の森を広げる楽器。
母はピアノの前に座って、孤独と静寂を演奏で埋め尽くすのが好きなのだ。腕前を上げるにつれ、育乃もその気分が分かるようになってきた。
昨日は迷った指先が、今日は正しく鍵盤を選ぶ。押しこみの浅さ、強さが適切な加減を覚える。毎日どこかしら上達するのが楽しくて、ピアノを弾いていると心に溜まった物、つかえている物が吐き出せるみたいだ。
――月日は流れ育乃が十二歳の時、祭原家に
父の隠し子が来ると聞いた育乃の感想は『どうしてわざわざ引き取るの?』だ。隠し子というのは、つまり浮気相手と作った子ということではないか。
相手は病気で亡くなったらしいけれど、その子は放っておけば良い、と育乃と克生の間で意見は一致した。祭原の子供は、すでに自分たち兄妹がいる。
男の子だからというだけで、父はその子を連れてくるらしい。絶対追い返してやると二人で決めて――克生はその子に会うなり、鼻血が出るほど殴った。
まだ相手は七つか八つの小さな子だ。もともと暴力が得意ではない育乃は、それだけで意地悪する気がたちまちしぼんでしまっていた。
それなのに、克生は竹刀まで持ち出して何度も叩き始めるのだから、育乃はしばらく頭の芯が痺れたように立ち尽くしていた。
とっさに助けに入って、どうして? と己に問いかけると、もう答えは出ていた。守らなくちゃ、この子はこれから大変なことになるからと。
事実その日から、克生は鬼か何かのように残酷になったものだ。
母は慈愛が来てから塞ぎこむことが増えて、以前のようにピアノを教えてくれることもなくなった。部屋に閉じこもって、食事さえも一人で取ってしまう。
克生が母を守ろうと、躍起になって慈愛を責め立てるのも分からないではない。完全に黙殺してしまえば良いのに、育乃は兄の行為を無視できなかった。
ピアノを弾いているから、人より耳が良いのか。それとも、別の原因があるのか。どれだけ眩い音符と演奏で空気を充たしても、慈愛の泣き声が聞こえる気がして。
だん、と鍵盤を叩いて不協和音を出し、育乃はすっくと立ち上がった。廊下をうろつき、あちこちの部屋の襖を開き、少しずつ〝声〟の方へ近づいていく。
ある部屋で、つっかえ棒をされた押し入れを見つけた。棒を外して開けると、そこには両手両足をロープで縛られ、口にガムテープを貼られた慈愛が居る。
八月の昼下がり、汗でびっしょりになった少年の姿は、育乃が初めて見る物ではなかった。慈愛は最初殴られては泣いていたが、だんだんと我慢強くなって、怪我をさせられても黙って睨みつけることが多くなった。
だから克生は、別のやり方で苦しめようとしたという訳だ。よく色々思いつくものだ、と育乃は呆れながら口のガムテープに手をかける。
「ごめんね」
痛いと思うけれど我慢してね、と声をかけ一気に剥がす。それから手のロープをほどきにかかった。
……大人になってから思い返せば、育乃自身も〝父さんが不倫して作った子〟が嫌で、克生が慈愛をいじめることに、少し気が晴れていたのかもしれない。
兄がやり過ぎだったのは事実だから、その分育乃はあの子を守っていた。そんな己はどっちつかずで、半端で、卑怯だと思う。
それでも、当時の育乃は慈愛が確かに可哀想だった。
「姉さん、ありがとう。後は自分でやるから」
そう言って足のロープにかかる慈愛は、何かもじもじとして恥ずかしそうだ。
――ああ、そういうこと。
育乃はいったん部屋を出て、使用人に湯を沸かすよう頼んだ。戻ってくると、慈愛は立ち上がって手足をさすっている。
押し入れの板には、大きく濡れたシミができていた。それは、慈愛のズボンにも。
「しげちゃん、お風呂入ろ」
閉じこめられている間に彼が漏らしたことを指摘せず、育乃は異母弟の腕を掴んで浴室へ行った。途中でお手伝いさんに声をかけ、タオルと慈愛の着替えを用意してもらう。彼は真っ赤になってずっとうつむいていた。
脱衣所で裸になると、育乃の胸から腹には蛇が巻き付いたような、うろこ状の痣がある。祭原一族において、
霊術は役に立つが、これのせいで自分も兄も学校の健康診断は祭原の病院で受けさせられた。徴は家族以外に見せてはならないそうだ。
バスタオルを体に巻いて、育乃は慈愛を風呂に入れた。家の大浴場ではなく、使用人用の小さなものだから、湯を張るのも早い。広さも子供二人には充分だ。
(徴も、霊術の素質もなかったしげちゃんを、父さんは〝できそこない〟って呼んだ。霊術が使えるかもしれないからって、引き取ったの? 父さんはこんな小さな子を、何だと思っているんだろう……)
慈愛は黙ってうつむいている。恥ずかしがっているのか、耳まで真っ赤にしている彼の背中を流し、二人で湯に浸かった。
(フリンした父さんはキライ。しげちゃんをいじめる兄さんも、あの子をもく殺した母さんも、ひきょうで弱虫の私もキライ。でも、私は自分が知っている人たちみんなに、幸せになってほしいって思っている。
おこるのも、にくむのも、きらうのも、とてもつかれて苦しいもの。どうして父さんは、みんなを裏切ったりなんてしたの? どうして人はかんたんにウソをつくの?
そのために私たち兄妹も、しげちゃんも苦しむ。ウソが人をこわしてしまう。悲劇の物語は、いつだってきちんと話し合わず、真実をいつわり、かくすから起こる。ウソと裏切りは、決してゆるしてはいけないんだ)
育乃は兄の友人である
この会話をした頃の育乃は中学生で、育乃はセーラー服を着ていた。季節は秋で、神社の前に広がっている田んぼのあぜ道に、しおれた彼岸花が広がっていた。
「森之進さん、私……どうしたらいいかな。兄さんにしげちゃんと仲良くして欲しい。最低でも、いじめるのを止めさせたいのに、私じゃダメなの。兄さんは跡継ぎだから、家のお手伝いさんも父さんの次ぐらい従うし……」
学ラン姿の森之進は、困ったように腕を組んで言う。
「私からもさんざん、弱いものイジメは格好悪いぞと言っているんだが。聞くような奴じゃないからな……」
兄は学校では女子にたいそうモテていた。彼女や取り巻きと遊んで家を空ける時間が増えると、それだけ慈愛の被害が減る――ように見えて、細かく嫌がらせを仕込むあたりが、まことに性根が悪い。
「あいつが君をいじめていた時は、美智代おばさんに叱られるのが一番効いていたが。慈愛くんの味方には、なってくれそうもないからね」
嘘と裏切りを正す力が、賢さが欲しい。育乃がいくら渇望しても、結局解決してくれたのは時間だった。兄の慈愛に対する虐待は、彼が中学の時にぴたりと終わった。
その代わり、兄は女の子と付き合ってはすぐ別れて、女遊びが激しいなんて噂されている。まさか不倫した父を見習おうとしているのか? と育乃はますます呆れて。
いや、慈愛に暴力を振るい始めた時から、彼女自身はすっかり兄を見放していた。後々、自分がやった仕打ちも忘れて異母弟に馴れ馴れしく接する所も含めて。
克生がやったことはすべて知っている。
克生の行いををすべて覚えている。
たとえ忘却の彼方におしやろうと、嘘偽りで塗り固めようとも、無意味なことだ。
「……神さまはすべて見ているんだね」
日曜日の昼下がり、和洋折衷の洋館のリビングで育乃は言葉を吐き出した。応接セットのソファに腰かけた体を、クッションにもたれかけさせる。
とても疲れていた。いろいろなことが脳裏をよぎったけれど、すべては整理済みの記憶となって、感情から切り離された心の一部にしまい込まれていく。
「私がいなくなっても、大丈夫?」
天井を見上げる目を手で覆いながら彼女は問うた。正面、一人がけのソファを使う慈愛に向かってだ。もう自分には、ここに居る意味がないから。
「
「うん、さっきも聞いたけれど……でも、仕方ないよね。しげちゃんはそういう所では、絶対に嘘はつかないでしょ? 真面目なんだから」
呼吸はゆっくりとして深く、落ち着いていた。育乃はもたれるのをやめると背を曲げ、膝の上で軽く指を組む。
「私はしげちゃんを守ることも出来なかったのに、もっと酷いことになるなんて思わなかったな。うん、同じこと愚痴ってごめんね。これで最期だから」
ふう、と息を一つ吐いて育乃は目を閉じた。
「痛くない?」
「一瞬で終わりだよ」
「そう。じゃあ……おやすみなさい、慈愛」
「おやすみ、姉さん」
何気ない日常をよそおった、これ以上なく下手な芝居だ。二人とも動きがぎこちなくて、表情は強ばっている。けれど、それは迷いのためではなく。
慈愛はソファを立ち、柏手を打って空気を入れ換えた。一度、そして二度。
「御子クチナシの大前に、祭原慈愛かけまくも
大きな口を縫う糸がちぎれ飛んだ。
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