十一 わざわいの螺旋

 克生かいとの通話を終えて受話器を戻すと、森之進もりのしんの耳にピアノの音が聞こえてきた。ベートーヴェンの『よろこびの歌』、別名を『交響曲第9番・歓喜の歌』。

 小学生にも弾きやすいようアレンジされた伴奏は、妻の育乃いくのではなく娘のものだ。遊びに行っていた美登里みどりが、電話中に帰ってきたのだろう。

 顔を見に音の方へ向かうと、中途半端な所で演奏が途切れた。何か弾き間違えた風でもない。どうしたのだろうと思っている間に、娘が胸に飛びこんで来た。


「パパ、ただいま!」


 はじけるような笑顔で父の首に腕を回し、全身の体重を預けられる。「おっとっと」などと言いながら受け止め、二人でくるくると回転してから美登里を降ろした。

 娘が着ている白地にレモン柄のワンピースは、育乃の手作りだ。


「あのね、今日はママといっしょにデザート作ったの。フルーツポンチ! 夕ごはんのあと、いっしょに食べよ。パパ、いつもおつかれさま!」


 こんな時は思わず世界への感謝がわき上がってくる。実は冷蔵庫に入っているデザートを見つけて、育乃から黙っていてねとお達しを受けていた。

 しかも美登里の発案だと言うのだから、妻子に愛されることのなんと幸福なことだろう。しみじみ噛みしめながら、早く感謝の言葉を伝えようとした時だった。


「……美登里ちゃん、腕のブツブツ、どうしたんだい?」


 二つ結びの少女は一瞬あっけにとられた後、あっと声を上げた。華奢な前腕から二の腕にかけての部分に、うっすらと赤い発疹ほっしんが浮き上がっていた。


「わかんない。ピアノひいてたら、急にチクチクいたくなったの」


 なるほど、だから途中で演奏を止めたのか。腕を取って顔を近づけると、初期の水疱瘡みずぼうそうに似ていたが、幼稚園の頃にかかったはずだ。

 額を触ると、発熱がある風でもなかった。


「痒くないかい?」

「ぜんぜん」

「うーん、何だろうね。とりあえず薬を塗って、明日は病院に行こう」


 軟膏を取りに行きかけて、森之進は娘に「お料理お疲れさま、とても嬉しいよ。ありがとう、美登里ちゃん」と礼を告げた。

 えへへへ、と笑う娘はどこで覚えたのか、鼻の下を人差し指でこすって見せる。

 美登里は母に似て、人を思いやれる優しい子だ。明朗快活で友だちも多い一方、『月光』のような集中力の必要な曲を弾きこなす技術と忍耐も持ち合わせている。

 口無し様が帰ってこようが、慈愛が何を企んでいようが、妻と娘には手を出させない。しかし、育乃の不在に森之進が気づくまで、そう長くはなかった。



……何か居るなあ。

 月曜日、朝食を終えて金魚の世話をしていたごうは、駐在所のそばにワンボックスカーが不自然に停まっているのを見つけた。

 勤務が始まるのは朝の八時半で、早朝や夜間は人員が居ないため対応は出来ない。ということになっているが、そこは田舎の緩さというか、生活スペースまで押しかけられて「通報」されると、見なかったことには出来かねる。


 先日、日も昇らない内から夢遊病で彷徨っていた慈愛を見つけたのも、自宅側に電話をかけてくる爺さまが居たからだ。それに、あの車は神社の物だったはず。

 号は昨日聞いた祭原家の暗部――存在を表立って明らかにできない謎の人物とやら――をどう解釈するか、まだ整理がついていない。


 森之進がやって来たのはそれ絡みなのだろうか。妻の育乃は優しい印象の女性で、かつすこぶる美人である。兄の克生、弟の慈愛しげみと並べると血のつながりに納得だ。

 その彼女から、祭原が隠しておきたい人間の話を聞かされたのは、いささかショックではあった。善良だと思っていた人間から、陰口が飛び出してきたような。

 あの口裂け男が〝人間〟であるかは別にして。


「おはようございます、神主さん」


 八時を過ぎると神主姿の森之進が車を降り、車体にもたれながら待ち構えるので、号は諦めて開庁した。すかさず彼はやって来て、挨拶もそこそこに話し始める。


「駐在さん、昨日お尋ねになった方が慈愛くんとどこでいっしょだったのか教えていただけませんか? その二人に、妻がかどわかされた疑いがあります」


 早口で言い切る様に号は圧倒されて、森之進が後ろ手に戸を閉めたことに一拍遅れて気がついた。しかし、聞かされた内容も衝撃だ。


「奥さん、居なくなられたんですか!?」

「はい、貴方が帰られた後、どこかへ出かけたらしく……。妻が何の連絡もなく家を空けるなど、これまでなかったことです。そして貴方の話に出てきた男は、非常に素行がよろしくない。何かされたと考えるのは自然でしょう」

「……慈愛さんがお姉さんの誘拐に加担しているかも、と思われるんですか?」


 自然、自然だって? と号は胸中でくり返した。ここで言われている人物は、夜の墓場で人の死体を貪り食った化け物だ。何をやっても可怪おかしくはない。

 そして実の父親の遺体を捧げたのも、慈愛その人だ。

 人間の内心は分からないものだ。でなければ、世の中で事件など起きはしない。下らないもの、やりきれないもの、凄惨なもの、さまざまな事例を号は知っている。

 もし祭原慈愛が親族を害するような動機があるなら、包み隠さず話して欲しい。


「慈愛くんは悪い人間ではありませんが、あの男の言いなりですから。それより、二人がいっしょに居る所をどこで見かけられたんですか? 河野こうのさん」


 急に森之進からの圧が増して感じられた。鉛筆で描いたように薄い目鼻口が、陰影と鋭さを加えてこちらを直視する。この男は、こんな顔をしていたか?

 森之進は印象の薄い顔立ちだ。特徴のないのが特徴、を極めたような面持ちは一種の才能と言って良いが、号は自分の思い違いに気がついた。

 これは己の才能を磨いた、れっきとした技術だ。存在感も、顔立ちも、薄ぼんやりとしか認識されないが、かといって脅威と警戒されることもない。


「どうしんたですか、駐在さん。そんなやましい場所で見かけたんですか?」


 口調そのものは穏やかだが、声音にも表情にも黙っていることを許さないという気迫が熾火おきびのようにこもっていた。

 あえなく、号は観念することにした。信じてもらえないなら、その時はその時だ。


「……先日、景克先生の葬儀があったでしょう。その夜、墓地で二人を見ました」


 圧はそのままに、森之進は細長い目を見開く。


「なぜそのような場所へ? 夜歩きにしても、普通そんな所に近づかないでしょう」

「おっしゃる通りです。実はね、夢を見たんですよ。冗談でも何でもなくて」


 ヤケクソになって、号はすべてを話すことにした。森之進と祭原家のつながりがどの程度あるか不明だが、慈愛の傍にいる口裂け男の正体が分からない以上、手がかりが欲しい。この判断が吉と出るか凶と出るか、祈る思いで語り出す。

 野辺送りと埋葬、参列者に草が生えていた夢。異様な不安に襲われ、あの葬儀に何かあったのではないかとどうしても気がかりになったのだ、と。


「まあ、そういう、おかしな話で……」


 ずい、と森之進は間を詰めてきた。ますます目を見開いて見つめてくる。


「貴方、墓場でもっと可怪おかしなものを見たのではないですか?」

「……ええ。慈愛さんが、そいつに景克先生の死体を食べさせて、墓を埋め戻していました。黙っていたのは申しわけありませんが、オレも命が惜しかったので。口が耳元まで裂けていて、大の男一人を丸ごと腹に収めた。とても人間とは思えない!」


 どうだ、オレはすべて話したぞ。

 はたして森之進は得心が行ったのか、すっと間を開けてくれた。圧が消えて、号はほっと息がしやすくなった気分だ。


「よく話して下さいました、河野さん。申し訳ありませんが、奥の方でお話させていただけませんか? ここからは、かなり込み入った話になりますから……」


 やはり森之進は、口裂け男を知っているのか。もし説明してくれると言うなら、号としては願ってもいない話だ。「分かりました」とうなずいて奥の襖を開ける。

 洋間に置いた水槽から、すべての金魚がこちらを見つめていた。


「変わった金魚をお持ちですね」


 森之進が慣れた風に言うと、金魚たちは何事も無かったかのように散っていく。まさか自分の腹から生まれたと気づかれただろうか、と号は飛び上がる気持ちだ。


「どうも、うちの神さまと相性が良くなさそうだ。娘は悲しがっていましたが……我が家では、貴方から何匹もらっても長生きすることはないでしょう」

「それはどういう意味ですか?」


 訊ねながら、号は「粗茶ですが」と冷蔵庫の麦茶を出した。リビングテーブルに二人向き合うと、「金魚のことは置いておいて」と森之進が断りを入れる。


「まず、慈愛くんといた口裂け男は、〝口無し様〟と呼ばれる妖怪です。大昔、人を食うのでどうだんさまのお力を借りて退治されました。殺すことはできなかったので、祭原家で代々封じられていたのです。おとぎ話みたいでしょう?」

「正直、本官は貴方の人となりにそこまで詳しくないですが、奥さんが居なくなった時にふざけるような方ではないと思っていますよ」


 ありがとうございます、と森之進は頭を下げた。この話がでまかせなら、自分が相手を見誤ったか、彼が狂っているかだ。そして号は化け物を実際に目撃している。


「十六年前、奴はどうやってか封印を解いて、祭原家から逃げ出しました。当時は青年会で山狩りも行われましたよ。それ以来行方知れずだったのですが、なぜか今ごろ戻ってきた。目的は不明ですが、祭原家に恨みがあることでしょう」

「じゃあ、奥さんは……」


 もう殺された、あるいは食われたのでは、とはさすがに口に出せなかった。


「実は昨日の朝、祭原家では景克先生の遺影に異変があって騒ぎになっていたのですよ。ご遺体を食われてしまったのが原因なら辻褄が合います」


 そんなことまで起きていたのか。具体的にどんな異変が起きたのか、号は訊ねる勇気が出なかった。闇の中だったからはっきり見えた訳ではないが、人間だったものが手を足を、頭を一つ一つ失い壊されて行ったのだ。自分からほんの数メートル先で。


「昼間、墓地を見た限りでは異変は見られませんでした。だが貴方の話を受けるなら、掘り返す必要があるでしょう。祭原のご当主に許可を得る必要がありますが、今日明日中に河野さんも立ち会ってください」


「分かりました」と答えて、最後に号は一つ気がかりなことを訊ねる。


「その口無し様が祭原の人間を襲っているのは分かりましたけれど、どうして慈愛さんはそいつの言いなりになっているんですか?」

「それは、ここでは話せません。河野さんにはご当主とも話していただきたいので、その時にご説明出来るかと思います」


 そう言われては号は引き下がる他はない。後は育乃の失踪についてもろもろの手続きを行い、森之進は神主の仕事のため帰っていった。

 その日は更に二件、行方不明者の届けが出ることとなる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る