十二 此方も彼方も
※
院長の
午後三時。内科に勤務する
淡い色の壁紙に反響する音はどれも静かで、ビープ音や警告音、慌ただしい足音といった危機や注意を払うべき空気はどこにもない。
「慈愛先生、こんにちは」
点滴スタンドを持って歩き回る患者とすれ違うと、父についてお悔やみの言葉をかけられた。入院中に葬儀の話など聞きたくないだろうに、律儀なことだ。
いや……この患者は
ツル植物に覆われた背中から目を背けて、慈愛は病棟の出口へ向かった。見覚えのある二つ結びの髪と、白地にレモン柄のワンピースが目に入る。
「しげおじちゃん、おしごとおつかれさま!」
「やあ、
美登里の父方の祖母、つまり
慈愛の目は少女の細い腕に貼られた湿布に止まった。
「うでにシッシンができちゃってさ、シンサツのついでにおばあちゃんの顔見てきたの。ちょっとチクチクするだけなんだけど、パパがすっごい心配してて……」
ふっ、と糸を切られた凧のように、美登里の瞳が宙を彷徨った。手が握ったり開いたりをくり返して、肩にかけていた鞄からサクマのドロップ缶を取り出す。
「しげおじちゃん、アメあげるからこの後もがんばってね」
「そう言って、ハッカ味押しつけたいんだろう? もらうよ」
へへへーと笑いながら、美登里は何度も缶を振った。今の反応は、母親の育乃が昨日から帰ってこないことへの不安だと慈愛は気づいていた。
普段の美登里なら、真っ先にその話をしているはずだ。なのに話題を変えるため飴を出したのは、母の死を確信する何かがあったか、父に口止めされているか。
少女は手のひらにハッカ味のドロップを三つのせ、やっと缶を振るのを止めた。
「美登里ちゃん、ちょっとこれは多いよ」
「まあまあ、プレゼントだと思って」
言って、美登里は鞄からカエルのキャラクターが描かれたポチ袋を取り出し、そこにドロップを入れて差し出す。
「カワイイでしょ、けろけろけろっぴ。あたし好きなんだ」
「ありがとう。これからお昼だから、いっしょにもらうよ」
言いながら慈愛は一つ口にふくんだ。ぱっと笑顔になる姪は、しかし母親のことについては何も触れようとしない。別れ際、慈愛は声をかけた。
「……美登里ちゃん、腕の湿疹もそうだけれど、何か辛いことがあったら叔父さんに頼ってくれて良いんだよ。いつでも君の力になるからね」
必ず、帰美登里を守る。それが慈愛の密かな誓いだった。
◆
昼日中であっても樹海の中は暗い。苔の一群に引っかかった枯れ葉や松葉、積み重なった石などに覆われた土から、背の高い樹木が伸びて天を覆っている。
キノコの住み処になっている枯れた幹もあれば、歳月を経てなお威容を見せつける大樹もあり、途中には土壌を切り裂くように渓流が流れていた。
こんな所を、よく野辺送りの葬列は進んだものだ。夜中にここを訪れた自分を棚に上げて、号はそんなことを考えた。
森林を切り開いて作られた墓地には、神主の森之進と、シャベルなどの道具を持ち寄った青年会の面々、そして褐色肌のハンサム、祭原克生が集まっている。
克生は「忌引き」を理由に強引に休みを取ってきたそうだ。餐原町の王子様には、陰口も叩かれないのだろうか、というのは号の勝手な想像だ。
神主の森之進が祈祷を上げると、彼と克生以外の全員で代わる代わる墓を掘り返した。心なしか、以前より土がほぐれて楽だ。
やがて土に混じって、木の破片が出てきた。掘れば掘るほど破片は大きくなり、それが破壊された棺桶であることは誰の目にも明らかだった。
やがて破壊された棺の全容が明らかになると、誰もがしばし息を呑んで固い沈黙を作った。壊れているのはほとんど蓋の部分で、中の方はそこまで損傷していない。
切り株に腰かけていた克生も、墓穴を見て呆然と立ち尽くした。
そこには副葬品がいくつか残されているだけで、祭原景克の遺体は跡形もない。あの口裂け男は夢でも何でもなかったのだ、と号は改めて背筋が震える。
肌がベタつく感触は、肉体労働で流した汗のためではない。鼓動は速くなり、指先が冷たくなっていくのが分かる。虫や鳥の声より自分の心臓がうるさい。
「嘘だろ」「本当になくなっている」と青年会の男性たちはざわめいた。彼らの中の多くはこの墓を掘った人物であり、葬儀に参列して棺も見ているはずだ。
動揺が、空気を沸騰寸前の水のように煮えさせていく。一度沸き上がったら、パニックになりかねない――号が危惧した瞬間、手を叩く音が場に響き渡った。
「皆さん、落ち着いてください。まずは穴を埋め戻し、祭原家の大広間で改めて話し合いとしましょう。克生さんも、それでいいですね?」
克生は鷹揚そうに「ああ」とうなずいたが、すぐさま怒りで目をギラつかせた。
「駐在、あんたは森之進といっしょに俺の部屋に来てもらう。死体が無くなったことを黙られていたのは、非常に遺憾だが……仕方がなかったと思っておこう」
「申しわけありません……」
命が惜しくてすいませんね、と胸中でぼやきつつ号は軽く頭を下げた。妻が行方不明になった森之進に、父親の遺体を奪われた克生、誰もがピリピリしている。
この町に暗雲が立ちこめているのを、号ははっきりと感じた。
◆
洋酒のボトルを開けようとした克生を、森之進は無言の内に制した。この二人は長い付き合いなのだろう、と何となく号は察する。幼馴染みでもおかしくはない。
「広間に集まっている連中や、この町の住民は、十六年前に口無し様が脱走した時に姿を見たり、伝聞で知っている奴ばかりだ。その当時は捜索隊なんかも結成したが、神島を出て行ったことまでしか分からなかった。これは森の字から聞いたな?」
「はい」
克生の部屋は一言で表すと「威圧する雄」だ。これ見よがしに飾られたトロフィー、ステータスシンボルじみた高級品の数々。号はどこのブランドとも知らないが、明らかに仕立ての良いスーツもビックリするような値段なのだろう。
「口無しは景克先生の遺体を食い、次はおそらく育乃が……」
言葉を引き継いだ森之進は、白くなるほど手を握った。号は彼と並んで革張りのソファに座っているが、傍から見ていて気の毒になる。
森之進の父はすでに他界しており、娘の美登里は祭原家にあずけるそうだ。
「奴は恨みを持った祭原家の人間を優先的に狙うでしょう。餐原町には分家も多く、どれだけ犠牲が出るか分かりません。まずは青年会と町内会で自警団を結成し、見回りの担当を決めます」
――田舎の町内会ってそんな上意下達なもんか? 号は訝しんだ。
「昔見たことがあるからって、妖怪に対してずいぶん話が早いですね」
あの化け物が実在するのは確かだが、数十人からの人間がそれを承知で動くというのは妙な感じがした。もっと戸惑うこともないのか、と。
「不可思議なものはな、あるんだよ。餐原町の人間は、皆それを分かっている」
「克生さんは、どちらかというとオカルトは信じないタイプだと思いました」
ホラー映画や小説に詳しい慈愛の方ならともかく、号には心底意外だった。
「俺だって頭から全部信じちゃいない、幽霊だの宇宙人だの……。だが、これだけは確かだ。祭原家、特に本家筋には、超能力を持つ人間が生まれやすい」
「……慈愛さんが、その超能力者なんですか?」
克生は白い歯をむき出しにして号を睨みつけた。
「逆だ、逆! あいつには力も
「徴というのは、力を持つ者の体に現れる目印のようなものです。この力は、どうだんさまがお授けになったものですから」
荒っぽい語調になる克生に対し、森之進が冷静に補足を入れる。
「別にテレパシーだの、スプーン曲げが出来るわけじゃない。傷や病を治せるんだ。まあいかにも胡散臭いだろ? 〝気〟だの〝レイキ〟だの、医者の家系がそんなこと、大真面目に言い出したら終わりだからな」
「そんな胡散臭い医者、絶対行きたくないですね」
「だろ。だから本来は、この力を商売に使ったりはしない。祭原は古くから、これを霊術と呼びならわしている」
「霊術……」
音を確かめるように言葉をくり返しながら、号は反魂樹の話が脳裏をよぎった。ひびきが言っていた苗床と、祭原の超能力が無関係とは思えない。
「それはまさか、ゲームの回復魔法みたいなものですか?」
「ゲームといっしょにするな、患者が治りやすくなるように後押しをする程度のものだ。やり過ぎると自分も疲れるしな」
さて、と森之進が横の号を見据えた。
「
「ええ、町の中でも特に人けのない、
前に送ったことがあるので、場所を思い出すのに不自由はしない。そこで克生が「そうだ」と、とんでもないことを言い出した。
「あんたはパトロールなり何なり理由をつけて、あいつの家を定期的に見てくれ。こっちでも目を光らせるが、出来るだけ監視を頼みたい」
何でオレがそんなことをと言い返しかけたが、号としても利害が一致している。勤務中は病院の方で監視しておくから、彼が帰る時は連絡してくれるとまで。
祭原慈愛を見張るなら、必ずどこかであの化け物と遭遇するだろう。その時、自身がまだ正気を保てるのか、生きていられるのかは分からない。
だが慈愛にも、克生にも、森之進にもまだまだ聞くべきことがある。ひびきの死の真実を知るには、決してこの危険を避けてはならない。
「分かりました、任せてください」
「俺は家の資料をあさってみる。あの化け物について、言い伝えやなんかがあったはずだからな。その中に、弱点でも書いてありゃ楽なんだが」
話がまとまった所で、一同は大広間で休憩している青年会の元へ向かうことになった。これから自警団の結成だ。
大広間に入る前、克生は思い出したように号へ告げた。
「慈愛の言うことに惑わされるなよ。あいつは、口無しに魅入られているからな」
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