下 帰還の食卓
再び平成四年、葬儀の当日。
「シゲミィー、久しぶりだなァー。熟したかァ?」
幾年月が経とうと、彼の年格好は青年のままだ。
呼びかけを発する口は、耳の付け根まで縫い目があった。間延びした独特の抑揚は耳に快い。
「兄さ、ま」
一言返すだけで、全身から精も根も抜けていく気がした。
深く息をすると甘美な懐旧が鼻を抜け、みるみる眼球が濡れていく。詠嘆のうめきを上げながら近づくと、跪くように座りこんでしまった。
牢に居たころのクチナシは、なんとやつれていたことか。彼が空腹を訴えるたびに、病床の母を思い出して慈愛は無力を感じていた。
だが、今は違う。傷つき、いっとき人の保護下に置かれた獣が、再び自然の中で生き抜く力を取り戻したように見違えていた。
その獣はどこまでも獲物を追い立てて、執念深い狩りをする生き物だ。
(会いたかった。その一念だけで憎い
クチナシと過ごした時間は幸福だったが、同時に人生で最も辛い時期だった。
にも関わらず過去の記憶も経験も、刃を鈍くして丸くなり、取るに足りない痛みの破片に成り下がる。後に残ったのは、純水のようにきらめく幸せだけ。
夢うつつに彷徨っていた間の記憶が鮮やかによみがえり、慈愛は己がクチナシに呼ばれていたことを理解した。宇宙の中心のように美しいものの引力に、自分が動かされるのは道理だ。分かる、悟る、すべて解る。
そうかそうか、そういうことだったのか。なんてことだ。どうしよう。成すべき事は多いが、私がしたいことはなんだ? 兄さまのため、自分のため。
葛藤を飛び越えて、答えはあっけなく出される。
「お帰りなさいませ。ご健勝で何よりです」
やっと続けた言葉は、情けなく震えっぱなしだ。クチナシはどかりとソファに座り直して手招きする。己が家主のような態度に、慈愛はまったく文句がなかった。
それより、彼はもう一挙手一投足ごとに鎖を引きずらない。みすぼらしい格好もしていない。牢内のクチナシに感じた餓えが消え、ゆったりとした余裕があった。
「おれは外に出てから、精のつくものにたーっぷり、ありつけたぞォー」
彼は人食いだ、これまで何十人、何百人食べたのだろう。兄さまが美味と思うものを心ゆくまで堪能し、満足されたのなら慈愛はこれに勝るよろこびはない。
「これで、おれはおれの
「お供いたします」
反射的だが、確たる決意で慈愛は声を上げた。地を踏みしめて立てば胸の奥と腹の底がぶるりと震え、どこまでも働ける力が満ち満ちていく。
「おまえは邪魔だァー、ついてくるなァ」
クチナシは口をひん曲げて、にべもなく退けた。慈愛は夏の虫より小さい声で、はい、と子供のようにしょぼくれる。
「
「はい」
背骨を忘れたように肩を落としていた慈愛は、再び脊椎動物に戻った。言うべきことを頭の中で整理する。
「申し上げます、祭原
「またかァ? おまえたち、すぐ死ぬからなァー。次は誰だァ?」
「当主は、長男の
「アー、一回シゲミじゃねェヤツが、連れて来られたなァー」
クチナシは顎をなでながら、さほど興味なさそうに言う。慈愛も慈愛で、実父の死に対して特に感慨があるわけではない。それより、こう思うのだ。
「もし、あのころ私が景克や、克生を捧げていたら、お召しになられましたか?」
「当たり前だァ、捧げられたらおれの物だからなァー」
やはり、と慈愛はほくそ笑む。
当時は、彼に人間を捧げられるとは知らなかった。だが気がついたとしても、慈愛は誰も捧げなかっただろう。食われるなら、自分が先だと強く願っていたから。
クチナシは平等で公平だ。慈愛は今度は確固たる意志を持って、その足元に跪いた。三十の男が何の恥ずかしげもなく、むしろ当たり前だとばかりに。
「あなたは人を救う仏ではない」
「そうだ」
窓の向こうでは、白い空が初夏の朝に塗り変わりつつあった。
「あなたは人を慈しむ神ではない」
「そうだ」
「そんなあなたを、お慕い申し上げることお許し下さい」
「それはシゲミが好きにしろォー。おまえは歩く時の杖代わりぐらいには、なるからなァー」
「はい。お杖の代わりたる役目、ありがたく拝領いたします」
最後に深く
「この家は、兄さまが自由にお使い下さい。畳がお好きなら和室もございます」
「おー、何でも良いぞォー」
電灯を点したリビングは殺風景でぼやけていた。慈愛は裸眼だったことを思い出し、断りを入れて二階から眼鏡を取って来る。
「シゲミィー、何か食うものねェかァー?」
「お盛りさんですね、アテがあります」
にこりと微笑んで、慈愛は二度
「御子クチナシの
死んで欲しいほどあの駐在が疎ましいわけではなかったが、一番手近だから彼を選んだ。慈愛にとってはその程度のことだ。
河野にも家族がいるだろうが、クチナシに食われるなら自然災害と変わらない。ただし災害とは異なり、彼の生命は無駄なく召し上げられるに違いない。
「……
ところが、クチナシは残念そうに首を振った。ぐるりと、長い髪が大蛇のようにソファと床の上をうねる。
「アレは他のだァー。もう食えねェー」
「……彼は、何らかの神に縁がある者、ということですか」
どこぞのお気に入りの氏子か、社家の出か。慈愛がそのように当たりをつけると、クチナシはうなずいて肯定する。
「そーだなァ。魚か、水か、守られている自覚がないんだなァー」
「罰当たりな……」
苦々しい顔になった慈愛だが、はたと思い直す。河野号がすでに
であれば、河野号の協力を取り付けられるようにするべきではないか。
「仕方ありません。兄さま、少々お待ちください」
エプロンを締め、慈愛は本格的に料理を始めた。大鍋に湯を沸かし、出汁を取ったら冷蔵庫のものを片っ端から入れてどっさり味噌を入れる。
米は押し入れから一升炊き炊飯器を出して、卵はパックまるごと目玉焼き、肉魚もあるだけすべて焼く。更にもらい物の菓子から果物の缶詰まであるだけ全部。
野菜を切りながら、慈愛は考えを巡らせた。
兄さまと己だけで事を済ませるつもりだったが、成すべきものの大きさを考えればかなりの手間だ。河野号の協力が得られるなら、得ておきたい。
神の加護に無自覚ということは、魂を捧げた眷属ではあるまい。ただの人間の位置に留まっている段階だから、手を借りても向こうの神の怒りには触れないだろう。
(しかし……どうやって懐柔しよう……)
母が所属する劇団と興業関係者に囲まれて育った慈愛は、社交的な子供だった。しかし、景克と克生からの冷酷な仕打ちが、根深い人間不信を植え付けてて今に至る。
家の外でも暴力を振るわれたから、克生を怖れて誰もが黙殺した。姉の育乃と、昔から姉にベタ惚れだった森之進だけは別だが、いわゆる友人とは別だ。
育乃はともかく、森之進は慈愛のこと自体はどうでも良くて、姉に良い顔をしたくて気遣っていた振りをしていたのは見え見えだった。
そして克生からの暴力が止むと、すり寄ってくる連中はおおかたが祭原の名目当て。被害妄想ではなく、実際に友だちと思った連中が陰口を叩くのを聞いた。
要するに、河野号に自然と近づく方法が、まるで分からない。
「……兄さま」
「なんだァ?」
「友だち、というか……人との付き合い方のコツ、はご存じですか?」
愚問と思いつつ、鍋をかき混ぜながら訊ねてしまう。クチナシはこめかみや眉のあたりに指を当て、ふーむと首を傾げてしばし考えこんだ。
「そうだなァー、相手の弱みを握ったり、家族を人質に取ったり、指を折ったり歯を抜いていたぶったりすると、言うことを聞かせやすくなるぞォー」
「申し訳ありません、私が間違っておりました」
どこでそういう方法を覚えたのかと言えば、どうも祭原を去った後はヤクザ者の世話になっていたらしい。現代日本で、滋養を蓄えられた理由が察せられる。
そして料理が出来上がり、クチナシは上機嫌で食卓についた。
「シゲミ、腕を上げたなァー」
「それはもう」あなたのために。
食事は一日、一日の営みであり、欠ければ歯車が狂いかねない悲嘆を生む。だからこそ、美味しく、腹いっぱい食べられることは何より幸いなことだ。
亡き母とクチナシを見てきた慈愛には、それが徹底してすり込まれている。
「おかわりィ!」
十六年間、またこの食べっぷりと無邪気な笑顔が見たかった。
肉食獣の牙が生えそろった口を大きく開け、白米をかっこみ、骨ごと焼き魚を噛み砕き、キャベツ一玉・ニンジン三本・しめじ・油揚げなどが入った味噌汁を丼でいただく。顎と喉の動きはほとんど止まることがない。脂でぬめる唇は、別の生き物のように動いて、貪欲に糧を体内に送りこんでいく。
その姿に慈愛はずっと見惚れていた。
「あなたに食べられて良かった」
自分の人生はもう〝あがり〟だ。
ゴールにたどり着いて、これ以上求めることなどない、満ち足りた状態。思い込めた呟きは、熟した果実が滲ませる蜜に似て甘かった。
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