中 あなたのために祈ります

「兄さま、今夜の〝おもりさん〟です」


 一年後。慈愛は入り口でお辞儀し、さっさと番重や米びつを運びこむ。

 のそのそと、布団を被ったままクチナシが格子の前へ這い出た。丈が合わないので足がはみ出ているのだが、点けた灯りがまぶしいのだ。


「シゲミィー、腹、減ったァ……」


 出会ってからしばらく後、彼は現代語の読み書きが一切出来ないと判明した。

 以来、慈愛が国語の教科書や辞書、ノートや筆記具を持ちこんで言葉を学んで、さほど会話に支障がない所まで来た。まさか大人にあいうえおを教えるとは。


「今日はハッサクがありますよ」


 慈愛が瑞々しい柑橘を取り出して見せると、クチナシが布団から顔を出した。耳元まで裂けていた口は乱暴に縫い閉じられ、人並みの大きさになっている。

 毎日毎日、クチナシの口は勝手に縫い閉じられてしまうそうだ。そのように封印されているとのことで、彼は都度使う部分を爪で切って開いた。


「立派な橘だなァー。果物は愛い、食われるために生るから、喜びの味がする」


 そういうわけで、彼は果物が好物らしかったが、慈愛にはよく分からない。

 ともあれ膳だ。今夜はいつもの酒、水、白米に生のメバル、なすび、果物。慈愛にはメバルの煮付けと茄子の煮物が詰められている。


 食前の挨拶を、慈愛はすっかりそらんじられるようになった。意味はよく分からないが、これは祈りの言葉だ。だから慈愛は、クチナシにお盛りさんを行う。

 化け物やオバケは、神さま仏さまと同じ所、おままごとの世界にいるらしい。だから泥団子でも料理でも、供えたらお祈りを捧げないと食べられない。


 お地蔵さまは石だけど、クチナシは人間みたいに体があって動いたり話したりするから、人間と同じようなものをお供えするのだろう。

 炊いた米以外、クチナシが食べるものはほとんど生のままだ。その中に一つ、調理された小品がある。指さして問う彼に、来たぞ、と慈愛は背筋を伸ばした。


「この焼いた卵、シゲミが作ったのかァー?」

「はい! お手つだいさんにたのんで、作らせてもらったんです。どうですか?」


 慈愛のお重には端切れを入れただけで、卵焼きは切らずに丸ごと膳に載せてある。クチナシは焦げ茶と黄色の腹を指でつまむと、ぺろっと口に放りこんだ。


「甘い。卵と砂糖の味だなァ」


 ニッ、と白い牙を見せて、クチナシは口元だけで笑った

 もっと笑顔になってくれるのを期待していたが、今はこれで上出来、と慈愛は自分を納得させた。どうにか巻けたが三角に歪んでいるし、あちこち焦げているし。

 クチナシがハッサクに手をつけるのを見て、慈愛は急いで自分の食事を始めた。彼は底なしの食欲であっという間に皿を空にしていくから、今の内に頂かねば。


 不思議とクチナシの早食いは、下品さがない。

 彼はとても大きな体をしているが、それは錯覚で、本当は屋敷よりも大きい巨人が、小さな小さな食事を爪の先を使って大事に食べているような感じがする。

 中でも果物は、特別丁寧に時間をかけて味わうのだ。


「おかわりィ!」


 慈愛が半分ほどを胃に収めた所で、元気いっぱいに空の飯碗めしわんが出された。お代わりをよそうと、しばしば慈愛はクチナシが食べる姿に見惚れてしまう。

 米びつには五合の飯が入ってると聞いた。彼の碗にはどんぶり二杯半が盛ってあるが、何口で食べてしまうだろう、とついつい見入ってしまうのだ。


 工場の機械みたいに顎の動きはほとんど止まらなくて、箸で大きく切り取った白飯を口に放りこむ時、たまに特徴的な舌が見えることがある。

 口と違って縫い合わされていない、二つに裂けたままの鮮やかな赤い肉が。時たま、暗い口の中でも照明を弾いて、真紅の蛇のようにしなやかに動いていた。


 それもやがて終わりが来る。空になった米びつを見せて、「もうお代わりがありません」と告げると、クチナシはそれはそれは悲しそうな顔で、三つの膳を返した。

 彼が食べている姿をもっと見ていたかったな、と慈愛も残念に思う。


「腹減ったァー……滋養を蓄えなきゃいけねェのに、もう飢え死にしそうだァ……」


 だから少しでも腹が減らないよう、彼はいつも布団で寝転がるのだ。寝床へ戻りかけたクチナシは、ふと振り返って付け加えた。


「シゲミの、また食わせろよォー」


 慈愛が意味を解すまで十数秒を必要とした。


「……もしかして、おりょうり、のことですか?」

「アー? 食べ物を作ること、ならそうだなァ」

「今はれうり、じゃないです。りょうり、です」

「りょーぅりだな、分かったァー」


 牢内に置かれた文机のジャポニカ学習帳を開き、クチナシは鉛筆を走らせた。最初は慈愛が先生だったのに、あっという間に言葉を覚えてしまったものだ。

 でも時々、こんな風に慣れていない所が出てくる。


「りょぉーりは、シゲミの祈りがこもっていて、良かったぞォー」

「よかった、少しはおなかのタシになりますか?」

「ちょっとはなァー」


 クチナシの返事に、慈愛は本当だろうかと不安を覚えた。

 いつもいつも、彼は飢え死にしそうだと嘆いている。餓死してはいないから、朝晩のお盛りさんで生きて行けているには違いない。

 だが兄さまは、〝口無し様〟は人喰いの化け物なのだ。


「人間を食べないと、おなかイッパイにならないんですか?」


 クチナシはがばりと格子に取りついた。真っ黒な目がらんらんと光っている。


「シゲミ、食っていいのかァ!?」

「食べないでくださいよ、ぼく死んじゃうじゃないですか」


 ちぇーと口を尖らせて、クチナシは布団へ戻っていった。背中を向けて肘をつきながら横たわると、丸太、いや倒木のような存在感がある。

 大きいには違いないが、千年も生きた大樹が枯れ朽ちて、うろを開けたような精彩のなさが滲みだしていた。真実、飢えているのだ。


 彼の飢餓感には見覚えがある、病死した慈愛の母に似ているのだ。無論、クチナシは髪が抜けるわけでも、ガリガリに痩せたり小さくなったりするでもない。

 形は変えずとも、そこにあるはずの存在が遠いような、薄いような軽いような、不安にさせられる印象がいつも離れなかった。母と共通するそれは、死の気配だ。


 縁日の水ヨーヨーが、取って置くといつの間にかしぼんでいるように。ゆっくり、ゆっくりと彼の息の根は止められようとしている。

 いくら慈愛が祈りを捧げても、それは変えられない。食べても食べても満たされないことと、食べることもままならず飢えることは、どちらがより酷なのだろう。


 朝晩お盛りさんを持ってきて祈ること、掃除すること、料理すること、時々体を拭くこと。慈愛が彼にしてあげられるのはそれだけだ、命までは救えない。

……いや、違う。クチナシを助ける方法は簡単だ。


「ねえ、兄さま。ぼくが死んだあとなら、ぼくがおもりさんになるよ」


 クチナシは布団の上で寝返りを打ち、ぐりっと目を動かした。

 宇宙が突然こちらに焦点を合わせたような、感情のうかがえない黒々とした瞳だ。理屈や筋道を無視した直感が、これは尊い何かだと慈愛を打つ。


「誓うか」

「ちかいます」

うけた!」


 ぬうっとおおきな影がそびえ立ち、格子の間から慈愛を抱きしめた。節くれだった長い指と、大きな手のひらを感じる。


なんぢみずから欲して、供奉ぐぶならんと欲すか。大業おほわざなりや、大功おほいさおしなりや、はたらきをよって褒め讃えん!」


 からからから、とクチナシは今まで聞いたことのない声で笑った。朗々と響き渡る様に、母と共に舞台に立った俳優たちを思い出す。


「ぼくが死んだらだよ、すごく後だよ」

「それが何十年先でも、おれは決して忘れねェー」


 格子越しに抱かれながら、慈愛はクチナシの喜びように少し戸惑った。けれど、彼のしみじみと穏やかな声音に、まあいいやと眼を閉じる。

 いつか、自分を頭からばりばり食べるクチナシを想像して慈愛はワクワクした。その時、お腹いっぱいだと喜んでくれるだろうか。


 母が亡くなった直後、慈愛は悲しくて悲しくて「二度とご飯なんて食べない。飢え死んでやる」と思った。自分は生きたまま幽霊になって、誰のお盛りさんも受けないのだと。……そう、固く決意したのだが。

 周りの大人たちがしつこく食事を勧めるので、根負けしてココアを一杯もらった。舌に一滴、粉を溶かした温かい牛乳が触れた瞬間は何の味もしなかったと思う。


 一瞬後、口いっぱいに唾液があふれて食欲が爆発した。

 それからは滅茶苦茶だ、ココアをお代わりして、冷えたおにぎりやウィンナー、温め直した味噌汁を食べて飲んでむせて鼻をすすって、わんわん泣いた。

 心が苦しくても切なくても、どうしてか体は食べることを止められない。

 自分だけどうしようもなく生きて、母のいないこの世に残されている。生き残り、という言葉の意味が、墓石みたいに心の中でそびえ立った。


 食べ物の好き嫌いは慈愛にもある。食事を面倒だと言う人がいる。

 それでも、人間は必ず食事することから逃れられない、食べ続けなければならないのは、食べられない苦しみからも逃れられないということだ。

 例えその相手が、空腹に耐えることが出来るのだとしても――好きなひとがお腹を空かせるのは、慈愛はもうたくさんだった。


 兄さまが腹を満たせるよう、料理しよう。美味しい物を捧げよう。そして最期に彼を満腹にさせる、それが自分の人生だと心に決めた。

 幼い身で決意した人生の目標は、慈愛が中学二年生の時失われることとなる。

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