幕内

上 与えるは与する也、受けるは授かり也、即ち所有

 慈愛しげみが初めて祭原さいばら家に来た日は、クチナシと出会った日でもある。


 景克かげよしふすまを開けて、説明したように一礼した。正座し、三つ指ついて頭を下げる彼にならい、慈愛も頭を下げる。畳に積もったホコリが濡れて顔にくっついた。


「口無し様、口無し様、本日よりこの者が身の回りのお世話をいたします」

「ヨロシクおねがいします。新しくサイバラのいちいんになりました、シゲミともうします。慈しみ、愛する、慈愛じあいと書いてシゲミです」


 隣の景克が頭を上げ、追従して初めて慈愛は部屋の様子を知った。蛍光灯の白い光に照らされながら、全体がホコリで灰色に満ち、廊下よりいっそうカビ臭い。

 部屋は存外に広い、と言うより二部屋から襖を取り払って、代わりに格子を取り付けたようだった。灯りはこちらにしかないので、向こう側は暗い。


 時代劇で見るような牢屋は、ここが化け物を閉じこめる場所だからだ。慈愛は身をこわばらせながら、牢の中に木像らしきものを見た。

 ホコリを被り、蜘蛛の巣がかかったまま胡座あぐらをかいた人間の形だ。髪が体全体を覆うように長いが、女性には見えない。


 ばきり、と木が折れるような音を立てて、像は首を傾げた。閉じた眼がかっと見開かれ、ごきごきと手が動いて口元を引っ掻く。

 端から耳元まで大きく裂けたような傷痕があり、口と共に黒い糸で縫い閉じられていた。爪がぶつぶつと糸を掻き切り、ふぅ、と吐息が漏れる。


 次の瞬間、像はすべての糸を引き千切って大口を開けた。ライオンか虎のような牙がズラリと並ぶのを見て、慈愛は必死で悲鳴を堪える。

 それは久しぶりの空気を味わうように、深呼吸した。


「ァ、ア――――」


 ばきばきと人体から出るとは思えない音を立てながら、像は姿勢を崩して格子へと近づく。四肢には鉄枷がつけられ、鎖でつながれているので動くたびにじゃらり、と金属が鳴る。だが慈愛は、哀れみより恐怖がまさった。


「アァ――、ひだるしィ……」


 色あせた着流しを羽織ったそれは、景克よりも、慈愛が知るどんな大人よりもおおきい。真っ直ぐ立てば、鴨居より上に頭が来るだろう。

 妙に間延びした口調でそれは話し出した。


「久しきかなァー、克慈かつしげ、はた克明かつあきかァ。なんぢにわかに来たりて、われまみえるは……何事かあるやァー?」


 景克と慈愛は部屋の入り口から、格子のすぐ前に座り直す。


「私は克慈の息子、克明の孫にあたる景克です。以前にもお会いいたしました」

「フゥーン、爾らはなはだしくは変わらずなりィー。いまくに、此処よりいだせェ!」


 クチナシと呼ばれたものが手のひらで軽く格子を打つと、部屋全体がきしんだ。景克がひれ伏し、姿勢を維持したまま後ろへ下がっていく。


「そればかりは、お許し下さい」

「おゆるしください!」


 同じ動作で慈愛も部屋を出ると、景克は後ろ手で襖を閉めた。


「丁重におもてなししろ、いいな」


 足早に去ろうとする父を、「あの!」と引き留める。


「ホウキとか、チリトリとか、ありますか?」

「まず昇降機の中のものを出せ、扉を閉めて三角のボタンを押せば、戻ってきた時には入るようにしておく」

「わかりました」


 階段を上る背中を見送り、貨物用昇降機を開けると番重ばんじゅうや米びつ、ポットが入っていた。八歳児が一人で運ぶにはなかなかの労働だ。

 ため息をつきながら、慈愛は中身を廊下に出して上へ戻した。あのホコリまみれの部屋に食べ物を置く気にはなれない。これからが大変だ。


「未だ三尺の童子と思ひしが、れど、爾まことにいそしきたりやァー」


 ホウキで部屋中のホコリをかき集め、ぞうきんでカラ拭きをしていると、クチナシにそう言われる。慈愛はかろうじて、怒られてはいないとだけ理解した。


「あの……ぼくのこと、食べたりしません、か?」

「いのちを傷つけることあたうはァ、これェ、ただ同じいのちなり。忌々しくも、予は未だ命に足らず……口惜しやァー」

「え、えっと……」


 クチナシの言うことは、所々意識に引っかからず、するっと抜け落ちてしまう。頭の虫が言の葉を食べては、ただの雑音に変えてしまうのだ。

 大人同士の会話を聞くのに似ているが、もっと酷い。


「予これを食らふ所、もし、予に所献たてまつらずんば食らわずー……慈愛や、みずからを所献たてまつり欲するやァ?」

「ごめんなさい、クチナシさま。知らないコトバだらけで、わからないです」


 日本語のはずなのに、外国人と話しているようだ。慈愛はしょぼしょぼと眉根を寄せた。一方、クチナシはクチナシで口をひん曲げて、左右に首をひねっている。


「爾…………信ぜよォ。噛まず、くらはず、まことなり」


 こちらにも分かるよう、懸命に言葉を選んでくれたらしい。ただちに自分が食い殺されることはないと了解して、慈愛は牢の鍵を開けた。

 クチナシの髪から蜘蛛の巣やホコリを取り、櫛を入れてとかす。湯に浸した布巾を渡されたクチナシも、手の届く範囲で顔や体を拭いた。


 灰色だった肌は、漆喰のような白い色に変わる。彼から垢や脂の臭いがしないことに、当時の慈愛は気がつかなかった。


「アーァー、快哉かいなり、快哉~。未だかつて、このような良き心地有らんやァ!」


 不思議とクチナシの笑い方は、大の男には見えない。

 大人の笑顔は、何というか外から貼り付けたような、その場の空気というものが、粘土に跡をつけるように作った感じがする。

 クチナシは逆に、頬も、耳元まで裂けた口も、目も、自分の内側から押し出され、うんと伸びをするような……慈愛と同年代の、子供の笑い方なのだ。


 もしかして、この化け物はそんなに怖くないのかもしれない、と慈愛は思い始めていた。しかしまだ本命の仕事が残っているし、お腹も空いてきた。早くしなくては。

 部屋には座布団一つ時計一つなく、何時かも分からないのだし。


 黒漆塗りの膳に、素焼きの食器を決められた形に置いて、番重の中身を盛っていく。酒、水、白米、尾頭付きの魚、根菜の煮物に、葡萄と桃。

 量が少なく酒はないが、同じメニューが詰められた重箱が、慈愛の昼食らしかった。すると上でも、父やまだ見ぬ兄姉らはこれを食べているのだろうか。

 最後に、渡されたメモを食事の前に読み上げる。


「み子クチナシのごぜんに、祭原慈愛かしこみかしこみまおさく。日ごとのみけつモノたてまつりて、たいらけくやすらけく、めしたまい。かしこみかしこみまおす」

うけた!」


 クチナシはがばりと大口を開けて、魚を一飲みに噛み砕いた。慈愛の両ももより大きかった魚が、あっけなく軽い音と共にすり潰される。

 つ、と魚の血が顎をひと筋、つたい落ちた。鋭い歯列を割って二つの赤い肉が伸びると、くるりと舐めとり中に戻る。


 やっぱりダメだ。慈愛はぞおっと血の気が引くのを感じた。

 動物園で見た虎の餌やりだって、あんな風に肉を食い尽くしたりしない。食事に箸もつけられないまま、震え上がりながら問う。


「お、おあじは、いかがですか、クチナシさま」

「口にしィー」


 言いながら、クチナシはぺろりと山盛りご飯を平らげて空の器を差し出した。慈愛は身震いする手を無意味に叩いて、怖々しながらお代わりをよそう。

 飯碗を受け取りながら、彼は言葉を続けた。


「慈愛や、えりを正して端座たんざ拘泥こだわらずんばァ、よろしく意の如く呼ぶべし」

「すみません……よくわかりません」


 わからないばかり言っていて、自分は殺されるのではなかろうか。


「サマァー、要らず。こころのままに、呼びたまへ」


 急にクチナシが真顔になるのを見て、慈愛は今まで彼がもの柔らかな顔つき、嬉しそうな顔つきをしていたことに気がついた。

 さっぱり体を拭いて、いつぶりか分からない食事をして、クチナシも機嫌が良いのだ。ただ今は少し、言葉が上手く通じていないだけで。


 けれど、妙に間延びしたイントネーションは心がなごむ。〝人食いの化け物〟と聞いて怖い怖いと思っていたし、実際クチナシは人間ではない。

 出された料理を本当に美味しそうに食べて、元気よくお代わりして。かけられた言葉も、何を言っているかは分からないが、声の調子は温かい。


 この家に来てから、景克にかけられたものよりもずっと。そう思って食事を続けていると、たびたびお代わりを要求されて忙しなかったが、それも楽しい。

 ご飯を食べるのが自分一人じゃなくて良かった。新しい家族は上で昼食を取っていて、慈愛と食卓を共にするのは彼だけなのだ。


「あの、すみません。おかわりは、だまって出さないでください」


 思い切って気になっていることを言うと、クチナシは「オカワリ?」とオウム返しに首をかしげた。どくんどくんと心臓が胸中で爆発しそうだ。


「おかあさんも、そういっていました」


 黙ってお茶碗を出すのは行儀の良くないことだと教えられている。だから、化け物相手でも自分はちゃんと言わなくてはならない。


一碗ひとわん……オカワリ」


 それまでより幾分控えめに、クチナシはそっと飯碗を出して言う。話が通じると思った瞬間、慈愛は一気にこの化け物が好ましく映った。

 今や慈愛は、実の父であるはずの景克と、祭原の屋敷の方がずっと恐ろしい。


「はい、おかわりをどうぞ」


 ご飯をよそって碗を返す。


「可き。其れが儀礼ならば」


 お礼とは何だか違う気がしたが、クチナシの返答にも満足した。そこでふと、先ほど言われたことを思い出す。サマはいらない、と。

 では「クチナシさま」ではなくなんと呼ぼう。呼び捨てはさすがに出来ない。クチナシお兄さん、では長すぎるし、お兄さんは気安すぎる。クチナシお兄さま、だとかしこまりすぎて恥ずかしい。考えこみながら口と箸を動かし、慈愛は決めた。


にいさま、とおよびしても、いいですか」


 声に出してみると、それが一番しっくり来る。クチナシは「可し」と短く答えた。

 それが祭原に来て初めて、慈愛がほっと安堵を覚えた瞬間だ。

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