七 御食(みけ)つ物

 乾いた音が樹海の闇をつんざく。一度、続けて二度。誰か居る、柏手かしわでを打っているとごうが理解すると同時に声まで聞こえてきた。


「御子クチナシの大前に、祭原さいばら慈愛しげみかけまくもかしこまをさく」


 反射的に手元の懐中電灯を消すと、水没したように闇に包まれる。昼間でも日が差しこまない樹海は、夜更けの四時を迎えて洞窟のように暗かった。

 けれど号の体は神経が高ぶり、戦うための準備が出来ている。ただの闇など怖れることはない。駐在になる前、夜の町でパトロールしていた時と同じぐらい冷静だ。


今日けふ生日いくひ足日たるひに祭原景克かげよし献奉たてまつりて、平らけく安らけく、うべない聞こし召し給い。恐み恐みも白す」


 聞こえてくる声は、確かに慈愛のものだった。しかし、この祝詞のような内容と調子はどうしたことかと思っていると。


うける!」


 何者かのいらえがあった。慈愛よりもう少し若い男、青年のような声だ。号は感覚を研ぎ澄ませ、草むらに身を隠しながら声がした方をうかがう。

 すでにここは墓地内だ。慈愛たちの姿は、足元に置かれたランタンの輝きですぐ見つけることが出来た。一体、誰と何をやっている?


 水色のYシャツ姿の慈愛は、じっと手を合わせて立っていた。

 その隣に、頭二つ分も背が高い大男がいる。体を覆うほどに長く黒髪を伸ばし、漆黒の着物と白い帯を身につけた姿は、闇から浮かび上がるようだ。

 彼らの前に、イガグリのような土饅頭があった。獣よけに、割り竹の囲いと「犬はじき」という竹の尖った物をたっぷり突き刺した新しい墓だ。


「んぐっ……!?」


 こんな時に、胃がどくんと跳ねて脂汗が吹き出す。

 号が音もなく崩れ落ちている向こうで、クチナシと呼ばれた青年は土饅頭に拳を叩きつけた。割れ竹も青竹も木っ端のように千切れ飛び、墓がたちまち崩れる。

 二、三度掻くだけで、たちまち棺が露わになった。


 消化器から気管まで、張りつめた筋肉が解放され胃液が逆流する。いつもと違う味に、号は困惑した。魚の生臭さとは違う、これは――血の味だ。

 戸惑っていても体は勝手に嘔吐してしまう。そんなことが可能かはともかく、出来る限り声を抑えて吐瀉すると、ズタズタになった金魚の死骸をぶちまけた。


 なぜ死んでいる? こんなことは初めてだ、水槽の中で破裂したように無惨な姿になっていることは何度かあったが、吐いた時点ではいつも生きていた。

 墓を掘り返す凄まじい音で、幸いにも向こうは気づいた様子はない。


(まさか、がヤバい場所なのか?)


 金魚が自分の代わりに死んだのなら、来るべきではなかったということになる。そういえば、先日吐いたのも慈愛と会って別れた後だった。ならば。

 慈愛か、彼といっしょにいる亭々ていていたる青年が、危険な何かなのではないか。先ほどの祝詞のような言葉といい、墓を掘り返して何をしようとしている?

 見届けなくてはならない。「祭原慈愛」が人智を超えた何かと繋がっているならば、それはひびきの死と無関係とは思えなかった。


――論理的な思考か? これが?


 今も自分は夢の続きを見ているだけで……それなら危険がなくて良いじゃないか……明晰だと思っていた頭の中が、ぐちゃりと泥濘のように黒ずみ、歪む。

 今さら迷っても、号の体は先の決断通りに動いていた。草むらからそっと顔を出し、あちらを盗み見る。墓穴から取り出された棺は、乱暴に投げ出されていた。


 穴を掘るまでかかった労力を思えば、あまりにも速い。音がしてから五分と経っていないはずだ。しかもクチナシは、釘を打って封じられた蓋にそのまま手を突っこむと、バリバリと音を立てながら割り広げ、中の遺体を取り出してしまう。


 白い狩衣を着せられた景克が、死後硬直が解けた人体特有の脱力感で持ち上げられた。ぽとりと死体が落としたのは、納棺の時に持たせられたしゃくだ。

 慈愛は笏を墓穴に蹴り入れながら、景克の頭から烏帽子をむしり取って、同じく墓へ投げ戻した。乱暴な手際は、父親や死者に対するものとはとても思えない。


 だがその後に起こったことを見れば、些細なことだった。

 前髪に上半分が隠れていたクチナシの顔は、耳元まで裂けた口によって丸ごと裏返る。ずらりと並ぶ牙の一本一本が、グロテスクなほど鮮明に号の眼に飛びこんだ。首根っこを掴んでいた景克の頭を持ち上げ、青年は一口に噛み砕く。ぱきん、と風に揺れる草葉の音に紛れそうな、プラスチックの器を潰したような軽い音だ。

 死後四日を経た景克の体は血を流すことはない。左右の腕をそれぞれ食いちぎり、咀嚼し、上から順に胸、腹、腰、腿、脛と囓り尽くす。そこには狩衣だろうが爪だろうが男性器だろうが区別なく、余すところなく。

 最後に、牙の間から血の滝ようなものが流れ出てべろりと口周りを拭った。異常に長く、先端が二股に裂けていたが、舌だったようだ。


「可哀想になァー、カツシゲ。突然死んだから、ビックリしたって味だ」

「兄さま、克慈は私の祖父で、その者は父の景克です」


 感想を述べるクチナシに、慈愛はニコニコと親しげに話しかけた。

 その名が示すとおり、慈しみや親愛を込めた顔つきは、ここぞと言う時のための取っておきを惜しみなく注いだことをうかがわせる。


「そうかァー。あんまし顔見せねェし、見分けつかねェー。ザワザワして砂っぽい、心残りの多い味だァ……」


 間延びした独特の抑揚で、兄さまことクチナシが話す一方、慈愛の表情が立ち所に曇った。完全にこの化け物に心奪われているようだった。


「お口に合いませんか。やはり古いものは善くありませんでしたね」

「気にするなァー、死体なんてそんなもんだからなァー」


 べろべろとクチナシが異形の舌で指の間を舐めていると、慈愛が持参していたタオルで手を拭いてやる。子供の世話でもしているみたいだ。


「それに、シゲミはおれを想っておれに捧げた。忘れていねェんだなァー」

「はい、これは兄さまへの我が祈りです」


 自然な動作で、慈愛はその場に跪いた。つまり、彼は崇敬と愛をもってこの化け物に仕えているのか。家臣のように、下僕のように。

 彼はこう言っていた、「祭原景克をたてまつりて」と。遺体とはいえ、自分の父親を食わせて、一体何をしているのだ?


 今見つかったら、自分もきっと食われる。ヒグマでも人間一人は数回に分けて食べるし、どれだけ大柄でも人の胃袋に収まる量ではない。

 骨を軽々砕く顎の力だけでも、腕力がどれほどあるか考えたくもなかった。仮に拳銃がこの手にあっても、立ち向かおうとは考えられなかった。


 雪に埋められたような冷たさに、号は感覚が麻痺するほど体温が下がったのを感じる。六月下旬の気温ではなく、精神の寒冷に心臓を止められそうだ。

 それほど怖れるのは、人を食う化け物の存在だけではない。


(あいつだ)


 なぜ最初に気がつかなかったのだろう、あの奇怪な口裂け男こそ、夢の中で号を見つけた瞳の持ち主だ。前髪の下から一瞬クチナシの眼が覗き、初めて悟った。

 黒髪が揺れて、その首がこちらに向くことを察して号は身を縮こまらせた。固く眼を閉じ、口を覆って声一つ、吐息一つもらさぬよう自分の存在を消す。


 怪力も鋭い牙も体積を無視した胃袋も、大した問題ではない。

 ただ、あれに見つかりたくなかった。人の姿なんてとんでもない、疑似餌のような誤魔化しだ。本性は星のように、宇宙のように巨大な何か。


(きっと慈愛も知っている)


 それも、自分たち人間が住まう銀河系とはまったく異質の宇宙なのだ。

 例えば算数の一足す一が二にならないような……三平方の定理という二次元が終わって、フェルマーの最終定理が始まる境目の宇宙を超えた、また先ではないか。

 もっと簡単な言い方がある。あれは、この世の物ではない。


 号の背後、彼が隠れている草むらにクチナシは視線を向けていた。金魚の死骸が花火のように爆ぜ、赤い霧になって号を覆うが、当人は気がつかない。

 血と肉とはらわたが千々の雫となって、草葉を濡らした。虚ろな命の気配が混ざり合って、クチナシの鼻を欺いたか否か。彼はすぐ興味をなくしてきびすを返した。


「シゲミィー、帰るぞォー」

「はい、兄さま」


 墓穴を埋め戻す作業が途中だったが、クチナシが数度蹴るだけで残りは片付いた。後は二人、適当に竹を差し戻して何事もなかったかのように立ち去っていく。

 落ち葉や砂利を踏む足音が遠ざかり、完全に気配が消えても、号はその場からみじんも動けなかった。硬直を解いて息を吐いたのは、小一時間ほど過ぎてからだ。


(こんなことってあるかよ……)


 少し想像していたのだ。祭原総合病院では、反魂香を作るために反魂の樹が人を苗床にしているのではないか、などと。現実はもっと訳が分からない。

 慈愛は化け物の世話をするため、死体を用意したのだろうか。景克の死は仕事中の心臓発作だか大動脈解離だかと聞いている、不審はないはずだった。


 景克が生きていたら、慈愛はあれに父を食い殺させたのか。父親が居なくなれば、長男の克生かいは当主の座を得るが、院長はすぐにとは行かない。

 もし兄弟が化け物と共に協力しているのだとしても、外野の号にはどれほど得があるのか分からなかった。早く院長を退いて欲しい、ぐらいはあるかもだが。


(しかし〝兄さま〟か)


 克生と慈愛の兄弟仲が悪いという噂は特に聞かないが、彼が克生を兄さまと呼ぶのは何だか違う気がする。それに、家族への愛情とは明らかに違うものを向けていた。

 祭原家の人々は、あれの存在を知っているのだろうか。


 考えながら号は立ち上がり、体をほぐして樹海の出口を目指した。墓の方を確認すると、少し崩れている気がするが……すぐには掘り返されたと気づかれまい。

 悪いがこのままにしておこう。景克の遺体がなくなったと知れれば騒ぎになるし、現場に自分が居たと気づかれれば色々面倒だ。

 何より、号はクチナシの標的になることは避けたかった。


(そういや、どうだん稲荷に長女さんが嫁入りしていたな)


 怪異なる存在については、やはり専門家を頼むのが良いだろう。もしクチナシが祭原家由来のものなら、嫁入りした祭原家長女から分かることがあるかもしれない。

 餐原町さんばらちょうに、祭原家にどんな秘密があって、ひびきの死と関わっているのか。それを明かすまで、自分はやられる訳にはいかない。


 その果てに、化け物と対峙することになるとしても。その時は、その時だ。


 ぶるっと体を怖気に震わせながら、号はふと金魚の死骸がどこにもないことに気がついた。せめて土に埋めてやろうと思ったのに、血や粘液の跡すらない。

 金魚たちが守ってくれたのだろうか。

 号は両手を合わせて、小さな命に感謝の気持ちを示した。

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