六 眠りの津、夢の浦々

 餐原さんばら駐在所は、正式名称を滋賀県剣熊けんくま警察署餐原警察官駐在所と言う。

 生活スペースは家族住まいには手狭な3DKだが、単身者のごうにはぴったりだ。妻のひびきと暮らし、そろそろ子供をなどと話し合う未来もあったかもしれない。


 金魚の水槽は号が寝起きしている和室と、二つあるうち片方の洋室に並べられていた。最初は一部屋だけだったのだが、あまり一カ所に詰めると喧嘩してしまう。

 掃除しないとすぐ水は汚れるし、餌代も馬鹿にならないし、困ったものだ。


――綺麗ですね、その金魚。


 須賀ひびきとの初対面は、号が大学の飲み会を抜け出し、店の裏で土佐錦とさきんを吐いた時だった。持ち歩いていた水筒に魚を詰め、振り返って目の前に彼女の顔が。

 見られた。金魚を丸呑みする変態だと思われ、オレの大学生活は終わりだ。


 血の気が引く音が潮騒のようにやかましかったことを、今でも鮮やかに覚えている。ひびきはすぐ真後ろに居て、吐く所からずっと見守っていたのだ。

 なにがしかの言い訳を捻りだそうとするも、口を動かすと生臭さと胃液の味でろくにしゃべれない。そんな時、彼女がこう言ったのだから驚いた。


『ちょっとしか見えなかったけど、それまさか土佐錦ですか? 河野こうの先輩』

『え、ぇ、はぁ……どうだろ』


 号が吐く金魚の多くは赤い和金だが、たまに白の和金もいる。次に紅白のコントラストが端正に彩られた琉金りゅうきん、尾が孔雀の羽形を思わせる地金ぢきんなど。

 稀に出目金やその他のものも吐いたが、土佐錦は本当に稀だ。

 号が図鑑で調べてそうと推定しただけで、本当は違うのではないかと思っていた。なにせ土佐錦は高知県の天然記念物であるから、人に見つかると困る。


『灯りとかないですよね、河野先輩。ちょっと表出て水筒の中見せて下さい。あたし、魚好きなんです!』


 まったく、その時の好奇心で輝く顔ときたら。前のめりに鼻息も荒く、獲物を見つけた猫みたいに目をまん丸に見開いて、一発で自分が敵わない女だと思った。


『――つまり号先輩は、傾向として和金型と琉金型の品種ばかりで、ランチュウ型やオランダ型は吐いたことがないんですね?』


 二人は店には戻らず、飲み屋街の端で縁石に腰かけて話しこんだ。自販機で買った麦茶で口をすすいだ号は、おっかなびっくり会話に応じた。


『まあそうだけど。君さ、よくこんな話信じるよね。オレこの二十年、ずっと迫害から逃げてきたのよ? ドン引きするのが普通だと思うんだけど』


 当時は酔いが醒めたと思っていたが、親にも打ち明けたことがない秘密を洗いざらい話してしまったのは、やはり酒の勢いもあったのだと今は思う。

 もちろん、ぐいぐい食いついてくるひびきの追求も大きかったのだが。


『一、二時間は胃袋に詰められて、酒とつまみと胃酸に浸されて無事な金魚がいるわけないじゃないですか。水質最悪、pHショック、確実に33℃以上の環境! 丸呑みして一瞬で吐き出しても、数日内に死にそう、怖い。それに……』

『それに?』

『生きていたら、これぐらい不思議なことはあるもんですよ』


 それまで表情豊かにまくし立てていた彼女は、きりっと顔の筋肉を引き締めて言い放った。一瞬前とは別の人間になったみたいな落差に、号の心臓が揺れる。


『そうかな……』

『不思議の当人が何言ってんですか』


 後はたわいもない話を交わして、その夜は別れた。次に会った時は号の体質を調べようと宣言されて、試行錯誤したりする内にトントン拍子で盛り上がってしまう。

 それから。それから……。

 布団の中で思い出の世界に没入しながら、号は眠りに落ちた。



「時分がよろしゅうございます」


 沿道は血の海で満ちていた。比喩ではなく、金気かなけに脂っぽさが混ざった生臭さは間違いなく血液だ。それが路面にかぶって、足首までどろりと浸していた。


「時分がぁよろしゅうございますぅ」


 聞こえてくる女衆の声は複数あって、何の時分だろうかと号は考える。声が消える頃、冷えた血潮をかき分けて野辺送りの行列が始まった。出発の合図だったのだ。

 行列は、緑豊かな樹木が歩いているようだった。


 顔の穴という穴から草ぼうぼうになって、棺桶からも枝が突き出ている。持ち物や服装はそれぞれ違うが、号には誰が誰やら見分けがつかない。

 昼間に見た通りならば、列を成すのは祭原さいばら家と餐原町さんばらちょうの人々で、歩くのは埋葬地である満天星どうだん樹海へ続く道だ。松明、弓、矢、鉾、盾、のぼり……彼らは定められた役付け通りに、死者の霊魂を守る威儀物いぎのものを供え奉っている。


 草の生え方はそれぞれまばらだが、皮下につる草が這っていたり、肌が樹皮のようになっている者もいて、みな人の姿をしていなかった。

 新巻の時とは逆だな、と考えていて一点、号は大きな違和に気づく。


 祭原慈愛しげみだ。彼だけは変わらず、正常な人間の姿をしていた。

 行列は妖怪画に描かれるユーモラスな百鬼夜行より、ずっと不気味に見える。人間の形をした草木の群れは、慈愛に率いられて動く森のようだ。


(反魂香の元になる、反魂の樹。人を苗床にはしないって慈愛は言っていたが)


 声をかけようとして号は口を開いたが、空気が喉を通らない。自分の夢なのに不自由なものだ。己がどこに立っているのか、体があるかどうかさえ曖昧だった。


(二日続けて、ろくでもねえ夢だな)


 ひびきが訴えた、苗床の話。彼女の思い出から生まれる夢なら、こんな気味が悪いものより、もっと美しいもの、楽しいものがあるだろうに。

 このままだと、景克かげよしの死体が草むして生き返ってくるのではないか。


言久いはまくは悲しき祭原景克大人うしのみことの奥都城の御前みまえに慎み敬ひ白さく、いまし命神上がり坐してより親族うから家族やからことごとく真心こめて仕へ奉りのりまにま葬儀とぶらひつつがなく事へぬ。ここもち御食みけ御酒みき種種くさぐさの物をたて奉り人人もろもろをろがみ仕へ奉れば、此の所を千代の御在所みありかと思し召して、御心平穏おだひにしづまり坐せと、慎み敬ひ白す」


 場面は森の中に開かれた墓地に変わっていた。鈍色の装束から森之進もりのしんとおぼしき人物が祝詞を上げ、号や青年会が掘った穴に棺が入っている。

 ここは満天星樹海だ、血の海が引いて草地が露わになっている。しかし、号は埋葬の場にまで立ち会っていない。ならばこれは、自分が想像した場面ということだろうか。


――駐在さん、あんたも一つ、掘るの手伝ってよ。


 そういえば今朝、中年の町民に声をかけられて、号は墓掘りに参加した。

 掘り始めて少し経った穴は、地表を剥がされて湿っぽい口を開いている。シャベルの刃先を突き立てると、大小の砂利が当たるざりっとした音がした。刃に足をかけ、テコの原理で切り出すと土の匂いが強くなる。墨汁の香りに少し似ていた。


 石と泥と金属と、虫や獣の死骸、腐った葉、そういうものの積み重なった場所へ死者が還っていく。平成の世に土葬なんて薄気味が悪い、と号は思っていたものだ。

 だが、ここに遺骸を埋めようとした発想自体は、数回とはいえ穴を掘ってみて理解できる気がした。土は生きているから、屍を活かすのだ。


 喪服を着た樹木たちは、棺の上に玉串を供え、一握りずつ土をかけていく。当惑していた気持ちから、徐々に号は夢を受け容れ始めていた。

 それも、慈愛の背後にいる何かに気がつくまでのことだ。


 黒々とした大きな影だった。大人の頭二つを軽く超えているが、具体的な姿形はまるで分からない。二足歩行のように思えるが、だとして人間なのだろうか。

 慈愛も行列の人々も、号の存在を居ない者として扱っている。と言うより、夢の中の登場人物らしく、魂の入っていない書き割りという感じがした。


 あの影だけが違う。号の無意識が生み出した夢の登場人物ではなく、それ自身が意志を持って外から侵入してきたような、強烈な自我と異物の気配がした。

 直感の稲妻が脳裏を走り、号にこれ以上無い警告を発する。


――見つかったら終わりだ。


 逃げなければ、どこへ、これはオレの夢だ、目を覚ますだけで良い。その夢に侵入してきたもの相手に? いや、違う、あれは何か……祭原慈愛に、憑いている? 知ったことか、現実の重力を思い出せ、自分の肉体を、どこで寝ているかを。


 べたん、と号は冥々たる闇が己を押し潰すのを感じた。くらさとは重さだ、深海の水圧のように、人間の意志や感覚は破壊され均されてしまう。

 方向や時間といった知覚力は無意味になり、夢かうつつか天か地か、自他の境目すら定かではない。真の暗黒とは、知恵なるものを食い尽くすと初めて知った。


 闇を怖れるのは人の根源的な恐怖だと言うが、それは闇の中に置かれた人間が原始の生物へと退化していくからに違いない。

 己をすっぽり包みこむ暗闇の中で、号は悲鳴を上げようとした。声は幽霊のように何処かへ吸いこまれて、叫んだのか叫べなかったのかさえ不明だ。


 それでも、逃れようという意志を示したことが、号に闇の全容を気づかせた。

 気がつかない方が良かった。

 この暗闇は、ただの瞳孔だ。


 あまりに大きな存在が、ちっぽけな自分を見つけて覗きこんだから、宇宙に放り出されたように驚いてしまった。号にはもう、どうしようもない。

 祭原慈愛と共に居た、あの影が自分に気づいた。認識されてしまった。終止符だ。


 ああ。

 尾ひれが水を跳ね上げ、虚ろな号の眼に赤く残影を落とした。

 金魚が。


 号が寝ていた寝室の天井がすぐ目の前にあり、金魚たちがくるくると回っていた。その間に泡のように水の塊がたゆたって、幻想的な景色を作り上げている。


(ものが、見える)


 状況の不可解さより、何よりもまず視力の復活を認識した瞬間、号は布団に落ちた。金魚と水がばたばたと上から降ってくる。

 水槽を見るとわずかな水が残っているだけで、金魚はみんな布団と畳の上だ。号は慌てて容れ物を探して、魚たちを集めた。カルキ抜きした水はストックがある。


「何なんだ……」


 金魚の保護と部屋の掃除があらかた終わって、時刻は午前三時。冷蔵庫の麦茶で喉を潤して、号は独りごちた。水槽はいつも通り安置されていたので、寝ぼけて蹴倒したという訳ではない。そもそも蹴れない位置に置き、固定してある。


 なぜだか寝ている間に、自分と金魚たちは部屋の天井近くまで空中浮揚した――という体験が事実だとしか思えないが、あまり思いたくない。

 こういう時、ひびきが居れば相談も出来ただろうが、亡くなってもう三年も経っている。生前は、金魚を吐く以外の異常事態にも陥らなかったのに。ならば。


(やっぱり、餐原町に何かあるのか? それともオレがどうかしてんのか?)


 夢を本気にするなんて馬鹿げているが、二日連続でこの内容。何より、慈愛に憑いていた巨大な影の圧倒的存在感は、もはや無視できるものではない。

 今から寝直すなんて、とても出来そうになかった。眼はすっかりさえてしまったし、横になっても悶々と下らない想像に悩まされるだけだ。


……一時間もしないうちに、号はTシャツ姿で満天星樹海の入り口に立っていた。散歩のつもりで自転車に乗ったら、自然とここに向かってしまったのだ。

 ぽっかりと口を開けた木立は、これまでの号なら闇の深さにおののいただろう。だが、あの瞳孔の持ち主に比べれば、薄暗がりみたいなものだ。

 身の安全のため、大型の赤い懐中電灯を持参しているが。


(新巻さんや、野辺送りの行列が草人間になっている夢を見たからって、墓場に行こうなんてバカげてるよな……そうだ、バカな話なんだ)


 ざくり、ざくりと落ち葉と砂利の道を踏みしめる足は、思考と裏腹に迷いがない。


(ここは、バカの世界だ! 常識が通用しない何かがこの町にあって、そいつにはきっと、金魚を吐くオレの馬鹿馬鹿しい体質が役に立つ。これまで一つの手がかりもなかったけど、景克先生が亡くなってから確実に、そいつが動き出している)


 だから確かめに行くのだ、祭原景克の墓を。腹の中を小さな金魚たちが泳いでいるような、そんなざわめきに突き動かされながら、号は歩を進めていった。

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