五 一つたりとも過ぎ去らぬ
夜、
喪家で火を使うことはタブーとされているが、生臭は禁じられていないので肉や魚を使った仕出し料理が供される。
決して祝いの席ではないものの、地域一丸となって大仕事をやり上げたという達成感と解放感が、場にはゆるく漂っていた。
埋葬から
早く帰りたいと思いながら、
飲めとばかりに、味の濃い料理が多かった。刺身に天ぷら、野菜の甘煮に玉子焼、かまぼこ、魚の照り焼き、豆きんとん、生姜と昆布の辛煮、香の物。
その横で、スーツ姿になった
「やっと一段落だな」
ビールを飲み干して克生は笑顔を見せた。白く光る歯が、浅黒く男性的な肌色により引き立って、己が太陽の側に立つ人間であることを堂々と主張する。
「飲めよ慈愛、祭原新当主の盃だ」
克生は慈愛の手に盃を握らせ、自ら地酒『凪乃露』の瓶を取った。近くの席に居た
「兄さん、不謹慎すぎ!」
「事実、全員分かっていることだ。お前は
ため息をついて育乃は黙った。「ほとほと呆れた」という文章を十行ほど続けて、しかし言葉にする前に投げ出したような吐息だ。
慈愛は「受けます」と短く答え、注がれた酒を飲み干した。その肩を克生はばんばんと上機嫌で叩く。
「これからは、家も一族も俺が主導権を取っていかにゃならん。お前には、俺の弟として片腕を務めてもらうつもりだからな。頼むぞ」
「はい、兄さん」淡々と。
克生の笑顔は実に魅力的だった。
多少の悪い噂など気にも留めない傲慢さと、それを鼻持ちならないと忌み嫌う相手ほど、するりと取りこむように悪辣な。たちの悪い男だ。
それは赤の他人から見ればそう思うだろうな、という慈愛の想像で、実際正しい評価ではある。だが慈愛が克生の長所を挙げるなら、せいぜい一つか二つだ。
たとえば、本人の結婚生活が破綻しているから、三十路にして独身であることを詰られなくて済むだとか、その程度の。
※ ※ ※
二十二年前。慈愛が祭原に引き取られた時、克生は十四歳の中学生だった。
「俺を兄さんと呼ぶな! むしずが走る!」
廊下で出会った彼に慈愛が挨拶し、顔を上げた瞬間に罵声と拳が鼻面に飛んだ。
何が起きたのか分からないまま尻餅をつくと鼻血が垂れ、じくじくとした痛みに思わず泣き出してしまう。それが二人の初対面だった。
慈愛の母、柘植由美子は享年二十八歳。つまり二十歳そこそこの女性を、
そんな経緯で出来た不義の子と仲良くしろと言われても、多感な時期の子供には無理がある。問題は、克生が人並み以上に粗暴だった点だ。
出会い頭にこうも強烈な悪意と暴力を受けるとは思わなくて、混乱したまま泣きじゃくっていた慈愛は、克生が一度姿を消して戻ってきた時「鼻血にびっくりして、手当ての道具を取ってきてくれたんだ」と思った。
克生の手にあったのは救急箱などではなく、竹刀だ。
「なんでお前が泣くんだ! 被害者ぶりやがって、クソガキ!」
とっさに丸めた慈愛の背中を、克生はくり返し殴打した。
※ ※ ※
それから毎日のように、異母兄は殴る蹴るの暴行をくり返し、収まったのは慈愛が十四歳になった時――ちょうど口無し様が消えたころだった。
その後もしばらくギクシャクしたものだが、今や克生は、異母弟にした仕打ちを忘れて、さも仲の良い兄弟のように接してくる。まったくもって始末に負えない。
慈愛が無心に過ごす内、克生は森之進に絡み始めた。宴もたけなわだ。
座も混ざり合ってマッチをする音、ライターの音、客たちのおしゃべり、遠慮のなくなってきた笑い声、グラスのぶつかる音などでざわめいている。
喧噪を遥か遠くに置き去って、慈愛は便所で酒と料理を吐き戻した。行事などの付き合いで克生と食事をすると、いつもこうだ。
食べ物を無駄にするのは酷く罪悪感があったが、自分でもどうにもならない。
「しげちゃん、じゃなくて慈愛、大丈夫? 顔色が悪そうだけど」
もう帰ろうと思いながら廊下へ出ると、異母姉の育乃と出くわした。自然と彼女が浮かべた柔らかな笑みに、会えて良かったと思う。
「
「そのつもりだよ。姉さん、今夜泊まるんだっけ」
「うん。
育乃の話すリズムや語調、傾げた首の角度から髪を触る仕草の一つ一つが柔和で、慈愛はささくれ立った心がゆったりと均されるのを感じた。
口無し様が居なくなった直後、慈愛が牢に入れられたことと縛られたことを怒り、外に出すよう訴えてくれたのは、育乃だけだ。
※ ※ ※
竹刀で殴られる慈愛と、打ち据えている克生を見つけて、十二歳の育乃は「何してるの!? お兄ちゃん、やめて!」と悲鳴を上げて止めに入った。
「お前、コイツの味方するのか? 母さんがどんなに悲しんでいるのか、分かっているのか!」
「ただの弱いものイジメでしょ! 死んだらどうするの!」
「ああ、死ねばいいんだ、こんなヤツ!」
どん、と育乃に肩をぶつけて、わざと大きな足音を立てながら克生は去った。慈愛は縮こまって、訳の分からない謝罪らしい言葉をつぶやき続けている。
「大丈夫、お兄ちゃんはもう行ったから、大丈夫」
育乃はその背中を優しく撫でさすり続けた。
やがて慈愛が泣くのをやめ、顔を上げるとハンカチで固まりかけの鼻血を拭く。再び大声で泣き出すと、彼女は自分の全身を使って包みこんでくれた。
「じっとしててね」
それから育乃は慈愛の鼻を手のひらで覆う。何をしているんだろうと見ていると、彼女は意識を集中するように目を閉じた。温かなものがふわっと流れこむ。
育乃は手を離すと、「どう?」と訊ねた。克生に殴られた時とは別の意味で、慈愛は何が起きたんだろうとビックリした。信じられない気持ちだ。
「すごく、ラクにな、りました」
「じゃ、後ろ向いて」
言われた通りにすると、服がめくり上げられる感触に背が痛む。竹刀に何度打たれたか、数はとても覚えていられなかった。
自分で確かめてはいないが、さぞかし酷い色になっていたことだろう。育乃は鼻の時と同じように、両手のひらをいっぱいに使って背中に触った。
熱いくらいの何かが背筋を伝って全身に広がる。慈愛は母と一度だけ行った温泉を思い出した。血管の中を、キラキラしたものが体の隅々まで周りゆく心地だ。
「背中の痛み、どう?」
彼女の指が離れるのを名残惜しく思いながら、慈愛は服を戻して向き直った。
「うん……うん! すごい! なにやったの?」
育乃の力とは無関係に、興奮で顔が紅潮する。彼女はもの柔らかに微笑んで、縁側に腰かけて足をぶらつかせた。慈愛も隣に座る。
陰の気に満ち満ちたこの家でも、誰かと並んで眺める庭は明るく彩りに満ちていた。山野でも咲く花ばかりだが、丁寧な世話と計算された植え方で洗練されていた。
花弁の中心を赤く染めた桃色の
「これは、〝どうだんさま〟から授かった力なんだって。私たちは、どうだんさまの使わしめだから、って」
慈愛が落ち着くのを見計らったように、育乃が口を開いた。
「どうだんさまは、この家の守り神なの。才能がある子は
「ぼく、シルシなんてないよ」
だから父にも出来損ないと言われたのだ。育乃は困ったように首を傾げる。
「徴は特別才能があるって意味だから。修行すれば使えるようになる人も、いきなり凄く強い霊術使いになる分家の人もいるよ」
異母姉の言葉とは裏腹に、慈愛は霊術に目覚めることはなかった。
※ ※ ※
「ねえ、しげちゃん」
慈愛が思い出に浸っていると育乃が話題を変える。
「もう口無し様のこと、待っていないよね?」
口無し様、慈愛の大切な〝兄さま〟。彼と亡き母を除けば、慈愛が「家族」と感じられる相手は姉の育乃と、姪の美登里だけだ。
だから彼女には、「いつか兄さまは帰って来るんだ」と話したことがある。
「……ぼくを幾つだと思っているんだい、姉さん」
さも当然のことを聞かれたという風に返し、「しかもこんな日に」と、内心悼んでもいない葬儀を言い訳に付け加えた。
「そう、こんな日に話すことじゃない。でも、妙に胸騒ぎがしたの……」
不安げに揺れた育乃の瞳に、敵意のこもった火が灯る。ああ、どうしてこんな時ばかりは、彼女は景克や克生によく似た眼差しをするのか。
声は低く低く、足元を霜つかせるようだった。
「嘘ついてないよね?」
真実を暴き、言質を取るためなら何でも出来る残酷な冷たさと、言の葉一つのズレも許さない支配者のごとき傲慢には、柔和さの名残りはみじんもない。
「嘘じゃないよね?」
景克の不倫と、その隠し子である慈愛の存在が発覚して以来、育乃の心は一部がねじ切れて、嘘に対して恐ろしく不寛容になった。
「私に嘘、つかないでね」
欺かれていると察知した時、彼女は暴力的になる。一度だけ、慈愛がささいな嘘をついた時は激昂して平手打ちし、互いに泣きながら謝り合った。
それが克生であっても育乃は許さなかったし、母親の美智代が止めに入るまで激しい兄妹喧嘩をくり広げたものだ。風の噂では、森之進も殴られたとか。
彼女の詰問を何度も受け流し、ようやく慈愛は解放された。別れ際、育乃はすっかりいつもの調子に戻って、「母さん、ほっとしたみたい」とつぶやく。
義理の母にあたる美智代は、祭原家に連れてこられた慈愛を徹底的に無視した。誇張抜きで、彼女とは言葉一つも交わしたことがない。
代わりに、暴力も罵声も受けたことはなかった。幼い頃は悲しく思ったが、今では無理もないと納得している。だから早めに一軒家を買って移り住んだ。
克生にとって、慈愛は居るだけで母親を傷つける敵だっただろう。だがその状況を作った元凶は、今や神さま仏さま。いい気なものだ。
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