花のをすくに

雨藤フラシ

序 花も泥も

「おじぞうさま、おダンゴ、どうぞ」


 五歳の慈愛しげみは、丁寧に丸めたピカピカの泥団子を地蔵に供えた。生前の母と二人、近所でよく遊んでいた公園の隣でのことだ。

 梅雨を控えて、辺りには青い紫陽花が咲き誇っている。雨の間も楽しめるようにと、誰かが青空を花の形にこしらえたようだった。

 息子の鼻についた泥をハンカチで拭って、母が微笑む。


「初めての〝お盛りさん〟だね、慈愛。じゃあ手を合わせて、お祈りしよっか」


 お盛りさんとは盛り物、つまりお供えもののことだ。ここの地蔵は定期的に花が代えられ、水や酒が供えられてるので、誰かが世話しているのだろう。

 信仰などよく分からないまま、当時の慈愛は何となく「飲み物ばかりじゃきっと物足りないから、食べ物をあげよう」と考えただけだ。


「おい、のり?」

「お祈りしないと、お地蔵さまはお団子食べられないよ」

「そうなの!?」


 この時のびっくりした気持ちを、慈愛は成人してからもずっと覚えている。


「このお団子は泥で出来ているよね。慈愛はこれを口に入れて、むしゃむしゃ食べて、って言われて、食べられる?」

「やーだー! そんなの、いらない!」


 顔をくしゃっとしかめて、慈愛は目いっぱい首を振った。


「でしょ。でも、おままごとの時なら食べられるよね」

「んー、うん?」


 母はどうしてか、長々と祈りの重要さを説いた。別の記憶と混同しているのかもしれないとも思うが、彼女が元気な頃にこの話を聞いたことは間違いない。


「それと同じだよ。お地蔵さまは、おままごとと同じ世界にいるの。お母さんのお芝居と同じでも良いかな? そこにないものを、あると信じる……遊びの約束を守って、どうぞお召し上がり下さい、ってお祈りして差し出すのが、礼儀だよ」


 慈愛にはちんぷんかんぷんだったが、なぜかその言葉は妙に頭に残った。


 母のガンが発覚したのは、紫陽花が泥のように醜く枯れた頃だ。

 一回目の手術の後すぐ転移が見つかって……だんだんと、彼女は食事が出来なくなっていった。一九六〇年代当時の医療には、なすすべがない。


「おかあさん、きょうの〝おもりさん〟です」


 病院の食事が来ると、慈愛は手を合わせて母に祈った。お地蔵さまがこれで泥団子を食べられるなら、母もきっと頂けるに違いない、と信じていたから。


「ありがとう、慈愛。美味しいよ」


 食べ真似をしながら、彼女の喉も、手も、腕も、足も、骨のようにやせ細った。頬はこけて、目が落ちくぼんで、世界から削り取られるように小さく小さく。

 当初はひんぱんに見舞ってくれた仕事仲間たちも、やがて足が遠のいたのは、輝いていた母の衰えを見ていられなくなったためだろう。


「どうして? おいのりしてるのに、どうしておかあさん、たべられないの?」

「ごめんね、慈愛。お母さん、まだ神さまじゃないんだ。だからお盛りさんは食べられないの……でも、人は死んだら神さま仏さまって言うから。その時はお願いね」


 分かったと返事した時、慈愛は気がつかなかった。

 気がついてしまったのは、もう少し後。


 小学校の入学式、一人だけ養護施設の職員に付き添われて出席した時だ。慈愛は初めて、これから母は居なくなるのだと、ようやく実感した。

 死への理解とはまだ違ったけれど、そこまであと数歩だ。


「おかあさん、カミさまになんか、ならないで」

「ごめんね、慈愛」


 泣きながら病床の母にすがりつくと、流木のようになった腕が気だるげに持ち上がり、慈愛の頭をゆっくりとなでた。


「お母さん、死んだら慈愛の神さまになるよ。そうしたら、ずっと見守っているから……ずうっといっしょだよ、慈愛」


 嗚咽おえつを堪えて「ほんとに?」と返事が出来るまで、ずいぶんとかかってものだ。


「お母さんのこと思い出して、写真に手を合わせて。食べ物はお供えしなくていいから、出来るだけ毎日、何があったか教えてね」


 母と交わした指切りげんまんは、慈愛が最後に聞いた元気な声になった。


◆ ◆ ◆


 葉桜の木陰を抜けると、小さな花をたっぷり咲かせた下野しもつけの薄紅や、ブーケのように満開の白い石楠花しゃくなげが咲いていた。その先にぽっかりと、奈落の闇が開いている。

 なんてくらい家だろう。祭原さいばらの玄関に立つと、慈愛しげみはそこが人の住む場所だとは思えなかった。聞き慣れたはずの蝉時雨が絡みつき、ずしんと足が重くなる。


 昭和四十五年、七月。八歳になった少年が来た道を振り返ると、地続きの世界とは思えないほど色彩と生命に溢れた前庭が広がっている。

 春には桜はもちろん、山吹や躑躅つつじの花が人々を迎えるのだろう。突き当たりには、切妻屋根を載せた堂々たる門扉が、祭原の権勢を示すようにそびえていた。


 そのすべてが、慈愛には人を誘い出して食らう罠のように見える。

 時刻はまだ午前十時、家の中には灯りも点いているのに。まだ「暗」も「闇」も習っていかったが、知っていたとしても、この冥々たる暗さを表せなかっただろう。


「遠慮するな、ここが今日からお前の家だと言っただろう」


 隣に立っていた中老の男性、祭原景克かげよしが先導するように一歩踏み出した。彼こそ家主であり、柘植つげ慈愛あらため祭原慈愛の父親だ。

 見上げた景克の顔は逆光で黒く、冥い屋敷をそのまま人にしたように見えた。

 帰りたいと思いこそすれ、口に出すほど慈愛はバカではない。だが前に進むことを……どうしても、ためらってしまう。


 目の前に大きく開いた暗黒にあるのは、すべてを呑みこみ溶かし尽くしてしまう闇だ。ちっぽけな自分の体は、ほつれた糸のようにほどけてあてどなく彷徨さまよい、永遠に揺らぎ続ける。二度と、光に触れることはないだろう。


 映画に出てくる武家屋敷か何かのような、大きくて古い建物だから怖く見えるのだ。慈愛が己に言い聞かせても、祭原家の冥さに対する恐怖はほとんど生理的嫌悪感にまで募っていた。ここから先は、きっと引き返せない。


「早く入れ」


 しびれを切らした景克は、うつむいて動かない息子の手を掴んで三和土たたきに引きずりこんだ。ああ、もう逃げ出せない。

――何からかは分からないまま、そんな絶望が慈愛の胸中で泡立っていた。


 長年磨き抜かれた板張りの廊下は、つややかな飴色の照りを見せる。本来なら荘厳ささえ感じさせる通路は、しかし闇の濃さで冷え切っていた。

 全身に鳥肌を立てながら、慈愛は出来るだけ明るいものを頭の中に探す。それは何と言っても母の姿だ、彼女は宇宙の中心のように美しかった。


 単に顔かたちが整っているというだけではない。肉体が持つ電気がパリッと鋭く、しなやかに躍動して、母が居るだけで場の空気がいっとう明るく輝き出すのだ。

 舞台女優だった母は、慈愛を連れてあちこち興行に飛び回っていた。稽古の時もだ。悪役、ヒロイン、主役と変幻自在、時にはあふれる存在感を抑えることも。


 劇団の人が「きみの母さんはすごいよ」と褒めてくれると気分が良かったし、慈愛の誕生日には、いっしょにお祝いしてくれるのも嬉しかった。

 普段手料理などしない母も、この日ばかりは手作りのクッキーやシュークリームを用意して……膨らませるのに失敗して、変なクッキーみたいになって……。


 昨年の秋、母は末期ガンで亡くなった。まだ三十にもなっていない。父の景克が養護施設へ訪ねて来たのは、季節が冬から春、春から夏へと変わったころだった。

 劇団で過ごす日々があまり一般的ではないとも理解していた慈愛は、自分たち親子に夫や父親というものが欠けていることについて、あえて問おうとは思わなかった。


 後になって振り返ってみれば、「母の葬儀にも顔を出さなかった男が、今さら何をしに来た」と、つっぱねた方が良かったのだろう。けれど。

 けれど幼い慈愛は、父親という言葉に喜んでとびついてしまった。あげくにノコノコと、こんな場所まで付いてきて。


「お前はおそらく、祭原としては不出来だ」


 投げつけられた冷ややかな声に、慈愛ははっと頭を上げた。施設で会った時はにこやかだった父は、背中からもよそよそしさを滲ませている。


「体にしるしがない以上、才能も期待できん。当面、修行は積ませるが多少できれば御の字だ。その代わり、お前には我が家でひとつ仕事を申しつける」


 何を言われているか分からなくとも、自分が歓迎されていないことは慈愛にも分かった。ならば今からでも、施設に帰りますと言えないだろうか。


「お前のようなものでも貴重な男児だ。子種はまだ先だとしても、その間遊ばせておくのもつまらんからな」


 慈愛の選択肢を握りつぶすように、景克は再度腕をつかんだ。ひ、と慈愛は喉の奥が引きつって、小さなしゃっくりのようなものが出る。

 やおら景克はこちらに向き直り、ぐいと顔を近づけた。


「返事はどうした」


 ぎょろりと自分を覗きこむ目に、慈愛は大粒のビー玉を思い出した。

 瞳も虹彩も誰からも動かされない、心の通じない眼差しに、己が嫌と言えない所まで追いつめられたのだと知る。八歳の子供が諦めるには充分だった。


「はい、おとうさん」


 よし、とうなずいて景克はまた前を向く。腕をつかんだまま、ずんずんと屋敷の奥へと進んでいった。終わりの見えない長い廊下に、二人の影は呑まれていく。


「ここでは、地下に人喰いの化け物を閉じこめている。名は〝くちし〟様だ」


 くだらない脅し文句も、屋敷を擬人化したような景克に言われると、慈愛の腹に重く響いた。父の案内は床の跳ね上げ戸をくぐり、地下への階段へと続く。

 日の差しこまない廊下はホコリっぽいような、カビ臭いような、こもった空気で、夏なのに冷たく湿っていた。灯りは裸電球の、頼りないオレンジの光だけ。


 異様な雰囲気に、慈愛は化け物という言葉をいっそう生々しく感じてしまう。まさか、そんな。口の無いオバケなんているはずがない、ならこの物々しさは?

 景克は降りてすぐ左の壁を指した。慈愛が屈んだらやっと通れそうな、上げ下げ扉がついている。その反対側に、年季が入ったふすまがあった。


「これは貨物用昇降機だ、覚えておけ」

「はい」

「お前の仕事は朝と晩、そこから食事を取りだして、口無しに運ぶことだ。お前のぶんも入ってるから、いっしょに食え。今日はこれからやつと昼を食べろ」


 え、と音が喉に詰まって、慈愛は息苦しさを覚えた。それは。


「ぼくは、みんなとゴハンを食べてはいけないんです、か」

「都合があえば、食事する機会もあるだろう」


 都合とはなんだ。母がいた時も、施設でも、慈愛は大勢と食卓を囲むのが常だった。それが、得体の知れない化け物か、一人で食べろなんて、何の罰だろう。

 すべては決まったことで、お前が何を言おうが変わることはないと景克の態度が言っていた。それを理解できる聡さが慈愛にはあったが、納得はいかない。


「いいか、この部屋に入ったら私の真似をしろ。まず頭を下げて一礼し、次に正座。中の指三本を畳につきながら、額がつくまで頭を……聞いているのか!」

「……はい」


 涙声で返事を絞り出すまで、たっぷり一分は要した。本当なら五分だって泣いていたかったが、ボロボロとこぼれる涙を短い袖でぬぐって耐える。

 罪を犯して刑務所に入れられた囚人とは、こんな気持ちだろうか。父の家になんて来るんじゃなかった。帰りたい、逃げたい、しかし望みは何も叶わない。


――そして、六年の月日が流れる。

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