一、あるいは沈黙(しじま)

一 町よ、草むす屍(かばね)よ



 十四歳になった慈愛しげみは、手足を麻縄で縛られて乱暴に牢へ押しこまれた。戸の向こうでは、長男と父が大声で話し合っている。

 格子は半壊して人一人が通れそうな有様だったが、この格好では無理があった。


 昭和五十一年、冬。

 慈愛が世話をしていた〝口無し〟様は、鎖を引きちぎって牢を壊し、地下から出て手当たり次第に家屋を破壊しながら逃げていったと言う。

 すべてはあくまで伝聞で、慈愛は直接現場を見てはいない。彼はつねづね『腹が減って力が出ない』と言っていたのに、なぜ気が変わったのだろうか。


 今は口無し様を探すため、青年会と山狩りを行うようだ。

 慈愛は投獄された理由も知らされていないが、世話係として責任を問われたのだろうと察しがついた。そのまま何日も、牢で過ごさせられるとは思わなかったが。


 灯りのない牢内は六畳ほどの板間で、いかにも窮屈だ。慈愛が口無し様に差し入れた辞書や図鑑、地図帳、地球儀、懐中電灯などなどが後に残されている。

 その他、暇つぶしにと持ちこんだ知恵の輪やルービックキューブ、スライドパズル。どうやら彼は、完全に身一つで出て行ったらしい。


 寂しくはあったが、口無し様は、はもう自由なのだと思うと慈愛は胸がドキドキして、父たちに「ざまあみろ」と言ってやりたくなる。

 口無し様は、慈愛にとって祭原さいばらで唯一兄のように慕える方だった。

 ここは酷いところだ、狭くて息苦しくて、食事が出される時以外は真っ暗闇で過ごさなければならない。兄さま、あなたは二度と牢に居るべきではない。


 兄さまは宇宙の中心のように美しかった。人を救う仏ではなく、人を慈しむ神ではなく、しかし老いることも病むこともない絶対の存在。

 そんなものを、いつまでも祭原が繋ぎ止められる訳がないのだ。

 己が置いて行かれた寂しさ以上に、その喜悦がふつふつと慈愛の内側にたぎり、絶えることも、消えることもなかった。


※ ※ ※


(……そんなこともあったな……)


 時は平成四年。インターネットが普及する以前、パソコン通信が盛り上がり、携帯端末はポケットベルがせいぜい。バブルは崩壊し、就職氷河期が到来する前夜。

 寝間着姿の慈愛は、初夏の夜と夢の牢内を曖昧に彷徨っていた。土道路つちどうろの左右には一面の水田が広がり、アメンボやゲンゴロウもよく眠っている。


「かえってくる、かえってくる」


 座敷牢、という言葉を彼が知ったのは、口無し様が脱走した後のことだ。

 その言葉は「座敷のような内装の牢屋」ではなく、「座敷に置かれた牢」。

 つまり檻に近いものを指す――とりわけ、かつて私宅したく監置かんちという法で用いられたものとはまったく違う、と知ったのは更に後のことだ。


「かえってくる……、かえってくる……」


 十六年前、何があったかは今でも分からない。けれど、慈愛は自分の兄さまは必ず帰ってくると信じている。理屈ではなく、決定事項として。

 裸足が砂利を踏みしめ、寝間着の膝を雑草がこするが、彼が意に介することはない。自分が独り言をくり返していることさえ、気づいていないのだから。


「かえってきた」


 不意に、慈愛はその場に膝をついた。


「かえって、きた。にいさまが、かえってきた……」


 そのままずるずると崩れ落ち、かくん、と倒れこむ。

 沈みかけの月光が顔を照らすと、神経質そうな白皙はくせきが浮かび上がった。刃が人を傷つけると同時に、薄さで脆くなっている、そういう人間性をうかがせるような。


 夢も見ない眠りの波間を漂っていると、実際に何かが自分の体を揺さぶっている――それに気がついた時、はたと慈愛は目を覚ました。

 水から上がったように、急に耳が人の声を拾う。


「もしもし……もしもし!」


 脱力していた背骨を動かし、慈愛は相手の姿を確認した。

 暗い上に近眼のぼやけた視界でも、特徴的な青い制服と制帽が身分を明かしてくれる。去年退職した駐在の代わりに、新しく赴任してきた警察官だろう。

 働き盛りの青年という印象で、慈愛は自分より何歳か下のように思った。名札の字は……河野だろうか、カワノかコウノかは分からない。


「変な所で人が座りこんでいるって通報がありましてね。名前言えますか」


 慈愛は周囲を見渡しながら立ち上がり、自分の状態を確認した。寝間着で、裸足で、おまけに裸眼と来たから堪らない。かっと頬が燃え上がる。


(こんな所を人、それも警官なんぞに見つかるとは)


 警察なんて強いものにへつらい、弱いものイジメしか能がない連中だ。関わって良いことはない――というのが慈愛の持論だ。


「……祭原慈愛です。ここは、どこですか?」


 河野ごうは手帳に書きつけながら話す。


「祭原本家の次男さんですね。病院でお見かけしたことありますよ」


 祭原家はここ神島かみしま餐原さんばらちょうの旧家で、土地の有力者だ。へんぴな滋賀の田舎に立派な総合病院を建て、通院のため近隣の旅館を利用する患者も多い。

 おかげで餐原町の主産業は、医療と観光とまで言われるほどだ。

 慈愛の勤め先が祭原総合病院なのはもちろん、本家の次男坊という立場はどうしても衆目を集める。号はそっと眉根を寄せ、制帽を取って頭を下げた。


「このたびは、ご愁傷様でした」

「痛み入ります」


 祭原家当主、つまり慈愛の父・景克かげよしが急死したことは、地方紙の訃報欄で広く知られている。昨日は通夜つやさいがあったばかりだ。

 要するに仏教の通夜だが、祭原は代々神道式なのでこう呼ぶ。明日、いや今日はいよいよ葬儀にあたる神葬祭しんそうさい葬場祭そうじょうさい)だった。


「で、ここは餐原町小宮坂十丁目、六の……五番地ぐらいですね」


 帽子を被り直し、号が告げた住所は慈愛の自宅から二時間ほど歩いた所だ。


「慈愛先生はなぜここに?」


 餐原町は祭原姓が多いので、よくこういう呼ばれ方をする。当然の質問だが、なぜこうなっているか慈愛の方が訊きたかった。出来る限りの説明を試みる。


「まあ……、こんなことは初めてで……」

「うーん、夢遊病ってヤツですか?」


 慎重に言葉を選んだが、号はあっさりと慈愛が避けた単語を口に上らせた。


「だとしたら、後日診察を受けてみますよ……できれば、あまり大きな話にせずに済ませていただきたいのですが」

「まかせてください! 守秘義務は、警察の主な業務の一つですからね!」


 号は笑顔で自分の胸を叩いたが、慈愛は胸中「どうだか」と吐き捨てた。


「自転車で来たので、後ろに乗ってください。駐在所に戻ったら、パトカーですが自宅までお送りします。慈愛先生、今日はお忙しいでしょう?」


 号の言うことはもっともだった。バスの始発までは何時間もあるし、財布があるはずもない。裸足で自宅を目指すのは、どう考えても現実的ではないだろう。

 慈愛個人としては警官の世話になるのはしゃくだが、ここは素直に貸しを作らせてやると考えることにした。どうせ祭原のご機嫌取りなのだから。

 二人乗りの自転車を漕ぎながら、号はよくしゃべった。


「本官の名前、読み方分かりにくいですよね。コウノって言うんですよ」

「そうなんですか」

「下の名前は番号のゴウです。変わっているけど語呂は悪くないと思うんですよね」

「コウノゴウ? そうかもしれませんね」


 ぶつぶつと会話が途切れるのもお構いなしだ。小宮坂のまばらな人家を南へ離れると田園風景や森林になり、どうだん稲荷の辺りでまた家が並ぶ。


「あの神社ってここらで有名ですけれど、〝どうだん〟って何の事でしょうね?」

「どうだんとは、騰蛇とうだという霊獣がなまったものです」


 一度では理解できなかったらしく、号は「ええと」と聞き返す。


「沸騰の騰に蛇、で騰蛇。空を飛ぶ蛇として中国の伝説に現れる、霊妙な存在ですよ。その昔、祭原の祖先が守り神として祭り上げ、神社を建立しました」

「ああ、そういえば祭原本家とご縁が深い神社と」

「この町なら誰でも知っていますよ。一度、お参りになっては如何ですか」


 慈愛にとっては姉の嫁ぎ先だが、そこまで話さなくとも良いだろう。いつになく、それも警官相手に無駄話をしてしまったのは、昔の夢を見たからか。


 神社からさらに東進し、高架鉄道をくぐった先の平屋が駐在所だ。掲示板には指名手配犯や警戒啓蒙に混ざって、なぜか「金魚あげます。」という張り紙があった。


「……駐在さん。金魚、お好きなんですか」


 あと一、二時間も経てば、日の出に輝くびわ湖を見れるだろう。慈愛はそれを待つことなく、パトカーの後部座席に乗りこんだ。運転席から号が答える。


「生まれ故郷じゃ特産品で、愛好家も多かったんです。金魚の神社までありまして」

「へえ、何の神さまが祀られていたのですか」


 号と話すのは楽しくはないが、金魚の神に興味をそそられた。日本神話にはいないから、魚に関係する神格に権能を追加したのだろうと想像を巡らす。


「いやあ、本官はそこまで興味はなかったので、分からないですね」

「……それは残念」


 車が走り出すと、少しの沈黙も耐えられない風に号が話を振った。


「それにしても、祭原の病院は凄いですね。神島は都会ってわけじゃないですし、山向こうの翠良みすら尾瀬おぜ村と並んで、山間部が多いじゃないですか。(郡立)神島病院よりデカいし、『死人も生き返る』なんて評判で」


 慈愛は無視して沈黙。号が居心地悪そうにしているのが伝わってきが、愛想してやるつもりはない。そもそも、話し相手としても面白くない男だ。

 窓の外に目をやれば、まだ目覚めない集落と森林が流れていく。


(ああ、こんな所、滅んでしまえば良い)


 住民も、駐在も、この地の正体を知らない。ずっとずっと昔から、カビが根を張り巡らせるように祭原に蝕まれ、朽ちかけた亡骸だ。

 ゆくゆくは、すべてとなってしまえ。

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