三 草一本、石一個、棘一つも許すまじ

 小さな水影が揺らめく天井をぼんやり眺め、号は仰向けに寝転がっている自身に気がついた。出勤時間にまだ余裕があり、体は布団の中にある。

 体を起こすと、ぽろりとまた一匹金魚がこぼれた。


「っとと」


 慌てて手で受け止めると、夜明けに吐いた新入りと同じタライに放りこんだ。夢と現実が地続きの感覚が意識から離れず、しばらく何が起きたかよく分からない。

 顔を洗って、コーヒーとトーストの食事を取って、ようやく「あれは夢だったのか」と腑に落ちた。ひびきのことを思い出したせいか。


 なら、なぜ金魚をまた吐いたのだとも思うが、吐き残しがあったとか、まあそんなことだろう。こんな時間差で出てくるのは初めてだったが……。

 号は自分の体質について、半ば諦めて深く考えないようにしている。何が出てくるか分かったものではないから、医者に胃を調べてもらう気もない。


 胃の病にでもなったら、その時はその時だ。

 号はいつものように身支度を整え、生活スペースから駐在所に出勤した。目の前の田んぼ道をランニングシャツと長靴姿の老人が通りがかった。


「やー、駐在さんおはよう。良い天気ですねえ」


 嘘だろと思ったが、新巻さんがこの時間帯にこの道を通りがかるのはいつものことだし、号を見かけたら挨拶してくるのも日常の風景だ。たまたまだ。

 むしろ、さっき奇妙な悪夢を見たのが申し訳ないくらいだった。


「おはようございます、新巻さん。麦わら帽子、忘れていませんか?」

「あれね、畑の方に置いてったのよ。だから大丈夫大丈夫。」


 わっはっは、と笑う彼の口は治療の跡こそ多いがまだまだ健康な歯が生えそろい、草花の気配はみじんもない。目も、耳も、頭も、……当然だ。

 新巻は祭原さいばら本家の葬儀に行ったか、まだなら行っておきなさい、景克かげよし先生は命の恩人だ、先生のおかげで図書館も学校も立派になった……と世間話を続けた。


「でね! 駐在さん。ウチの孫が金魚欲しいって言っててね。まだ残っとる?」

「三匹でも五匹でも大丈夫ですよ」

「そいつは良かった!」


 新巻は大きく胸をそらしながらカァーッと笑い、「明日明後日にはもらいに来るね」と手を振り振り立ち去った。平和な朝の光景だ。

 それにしても、葬儀か。


 親族でも仕事関係でもない号は本来行く必要がないのだが、祭原景克の葬儀は町を挙げての一大イベントだ。餐原町さんばらちょうそのものが、祭原家の持ち物と思った方が良い。

 本邸には隣近所から隣々近所、隣々々近所まで総出で手伝いが集まり、通夜の弔問客は百人を軽く超えたと言う。


 出席せねば村八分というわけもないだろうと思いつつ、号は「新巻さん 金魚 二、三日以内」とメモを取った。今朝送った祭原慈愛を思い出す。

 夢遊病状態で道の真ん中で寝るなんて、本当にあれが初めてなのだろうか。父の死がよほどショックだったのかもしれないが、号は彼に近づく口実とも捉えていた。


 餐原町に赴任して一年、ひびきの死に関する手がかりは何も見つけていない。警察官として得た情報を利用するのは無論厳禁だが、直に次男坊と話す機会を得られた。

 人の死に不謹慎だが、葬儀に出席することで更なるつながりを得られないものか。


 打算を巡らせながら、号の日常が始まる。



 新巻保彦やすひこはゆったりした調子で畑へ向かっていた。梅雨は野菜が病みがちな季節だ、べと病に炭疽たんそ病、うどんこ病、灰色かび病。

 予防的に農薬を散布してあるが、今日も今日とて油断は出来ない。今年も美味しいトマトやナス、キュウリにスイカをたくさん収穫するつもりだ。


「景克先生には、何持っていくかなあ」


 今日の葬儀にはもちろん出席する予定だった。二十年前、彼には脳溢血で死にかけた命を救われた恩がある。偉い立派な先生が、まだ七十始めで早死にするとは。

 世の中は無常なものだ……何の兆候もなく倒れて、ぽっくりと。


 新巻は足を止めた。畑にはまだ距離があるが、道の真ん中でぬうっと大きな人影が立ちはだかっている。やたらと図体が大きくて、意図せずかどうか通せんぼだ。

 黒い着物に白い帯を締め、ほとんど背丈と同じぐらい長く黒髪を伸ばしている。体格や着物の種類から明らかに男と分かるが、異質な雰囲気があった。


人草ひとくさ


 声の感じは青年のようだ。のんびりと間延びした語調で、切羽詰まった雰囲気はない。しかし、その言葉は、呼び方は。


なんぢ刈り入れの時至れり、ただちに実り落つるし」


 逆光で黒い顔の中で、剣先のような歯が白く鋭く光った。いや、これが歯であるものか。肉に突き立て、切り裂き、骨から削ぎ落とすための牙だ。

 それが耳元までずらりと並び、赤く大きな口を開けている。


 男の目鼻立ちはまったく分からないまま、新巻は怖気おぞけふるった。思わず背を向けて走り出す、駐在所までたどり着ければ、あるいは助かるだろうか。


「かっかっ景克先生!」


 誰にでもそれは訪れる。予兆も前兆もなく、突如として不可避の結末をもたらす死は、新巻の場合このような形をしていた。

 後は血飛沫も悲鳴もない。最期に彼が思ったのは、孫でも畑の野菜でもなく、祭原景克はこれに殺されたのではないか、ということだった。



 午前九時、どうだん稲荷宮司・とつぎ森之進もりのしんは妻子と共にワンボックスカーで祭原本家に向かっていた。

 飾らない短髪に、鉛筆で薄書きしたようなのっぺり顔は、にこやかな面立ちがどうにか存在感を与えている。歳のころは祭原家長男の克生かいと同輩で三十六。


 ハンサムなわけでも魅力的なわけでもなく、神主姿以外に何の特徴もない男だ。

 今日は道中袴に羽二重の紋羽織で正装しており、きりりと引き締まった雰囲気をかもし出している。到着したら葬儀用の装束に着替えるが、これも葬祭奉仕の礼儀だ。

 なお、奉仕とは神職業務のことであり、ボランティアとは意味が異なる。


美登里みどりちゃん、忘れ物はないかな?」

「きがえもハブラシも、ぜーんぶあるよ。おじいちゃんちでおとまり、たのしみ!」


 運転席から森之進が問うと、後部座席の少女がはつらつと返事した。餐原西小学校の制服姿で、色の薄い髪を二つ結びにしている。


「そのお爺ちゃんのお葬式なんだから、行儀よくしてね」


 助手席から注意する妻の育乃いくのを見れば、娘がどちらに似たかは一目瞭然だ。彼女は男好きしそうな甘い顔立ちの美少年が、そのまま美青年になったような人だった。

 ぱっちりした目と高い鼻は美登里にそっくり受け継がれ、少女に華やかさを与えていた。けれど育乃自身は、娘と逆に楚々として控えめな印象を持つ。


 それは生まれつきの茶色い髪を「宮司の妻としてはどうか」という理由で黒く染めたことや、夫の二歳下だが、細く締まった体つきが実際以上に若く見えるためだ。

 起伏の少ない顔の森之進は、そんな美しい妻と娘に挟まれながら、かえって調和しているようだった。幸せそうと言うより、三人で一つという結束感が強い家族だ。


「昨日のお通夜、すごい人だったね。今日もいっぱい来る?」

「もっといっぱい来るさ。景克先生にお世話になった人はたくさんいるからね」

「美登里、あまり足ぶらぶらさせないの」

「はぁい、ママ」


 今日は土曜日なので午前中は授業があるはずだったが、祭原家当主の葬儀のため堂々と学校を休めて、少女はご満悦だ。

 あ、と美登里は大事なことを思い出した。


「ねえ、カイおじさんのおくさん、だれだっけ。カオルさん?」


 一瞬、空気がぴんと張りつめた。

 森之進が、継ぎ目などないように滑らかに答える。


「……百合子さんだよ。昨日は居なかったけど、さすがに今日のお葬式には顔を出すだろうから、ちゃんと挨拶するんだよ」

「ユリコさんだね、わかった!」


 美登里の伯父にあたる克生かいは、女遊びが激しかった。育乃と違い浅黒く光る肌が、端正な目鼻立ちと相まって男性的な色気を放ち、相手に困ったことはない。

 その結果、早くも二度の離婚を経験し、今の妻も浮気三昧だ。子供をもうけていないのが、かえって幸いと言える。


……そんな訳で、幼児だった美登里が克生の二人目の妻・薫に「サオリおばさん」と前妻の名で呼びかけて、池に突き落とされた事件は有名だ。

 育乃は渓谷のように深く、眉間にしわを寄せた。


「兄さん、いつになったら落ち着いてくれるの……」


 娘に聞こえないよう声量を抑え、指で眉間をもみほぐす。幼い頃は暴力的な兄をかばっていた育乃だが、祭原家に慈愛が引き取られてからは決裂していた。

 祭原総合病院は定年制を廃止しており、景克が齢七十を超えて院長を勤めていた。


 克生はまだ三十代の若さだから、病院の経営にこそ関われないものの、祭原本家の当主は彼ということになる。正直言って、森之進は先が思いやられる気持ちだ。

 実家であるどうだん稲荷は、祭原家と古くから懇意にしている。物心つく前から、克生とは両親に連れられてよく遊んでいた。


 元来、克生は天真爛漫な性格だったが、それも幼稚園ごろまでのことだ。小学校に上がったあたりから、徐々に粗暴になっていった。

 森之進も彼と遊ぶのが嫌になっていた小学三年生、五月のある日のことだ。


 父に連れられて祭原家を訪れた森之進は、遊んできなさいと庭へ出された。最初は楽しく駆けずり回って、このまま穏やかに終われたらなと思ったのだが。

 どこから種が飛んできたのか、庭の隅で大きく育ったアザミを見つけると、克生は大喜びでそれを振り回し始めた。


『にげるな弱虫! おれとたたかえ!』


 手頃な長さの棒状のものを振り回して遊ぶのは、いくつになっても良いものだ。それで森之進を叩かなければ。

 野アザミの棘が束になって半ズボンの足を打ち据え、たちまち肌が赤くなった。拳で殴り返してやりたかったが、そうすると父にやり過ぎだと叱られるだろう。


 帰る時間まで逃げ回るしかない、と森之進は判断したが、克生は小賢しく壁際へ追いつめてきた。逃走経路を見つけられず、身を守るため体を丸めようとした時だ。

 克生が振るったアザミの束を受けたのは、突如飛び出してきた育乃だった。


『なんだよ育乃、じゃまするな! 男と男のたたかいだぞ!』


 両手をいっぱいに広げて立ちはだかる妹の顔めがけて、克生は二度三度アザミを打ち付ける。完全にかんしゃく状態だと思ったが、急に飽きて凶器を放り出す。


『つまんな。弱虫どうし、なかよくしとけ』

『おにいのバカ! 口なしさまにたべられちゃえ!』


 去って行く克生の背中に怒鳴ってこちらに向き直ると、育乃の顔は真っ赤に腫れていた。相当力をこめて叩かれたのだろう、目が痛みを堪えて潤んでいる。


『ごめんなさい』


 なぜ彼女が謝るのかと、森之進はきょとんとしてしまった。


『あの、うちのおとうさん、おにいにすごく、ものすごーくキビしいんです。テストでまんてんじゃないと、たたいたり、どなったり。だから、らんぼうモノになってしまった、っておかあさんはいっていました』


 実際はもっとたどたどしく、涙声で、七歳の育乃はそう説明した。それが終わると、彼女は森之進の両手をぎゅっと握って、真っ直ぐ見つめる。


『だから、また、おにいとあそんであげてください。おにいもずっと、ワルモノじゃないから。なかなおり、してあげてください』


 克生があのような調子だから、最近は同級生の多くが彼を避けるようになっていた。森之進だって家の都合がなければ、どんなにそうしたかったことか。

 けれど、自分よりもずっと小さな女の子が、痛いのも怖いのも我慢して飛び出したその勇気と意志の強さに、森之進は目の前がクラクラした。


 精神から出る眩い輝きが、眼に、その奥の心まで突き刺さった瞬間だ。後でこの件を聞いた父は「女子に庇われるとは情けない」と言ったものだが、どうでも良い。


 彼女は、育乃は、なんて女の子だろう。こんな人間が世の中に、それも自分の近くにいるなんて。育乃が勇気と優しさを発揮する様を、森之進は何度も目撃した。

 だから今がある。愛する彼女と、その間に出来た娘の美登里とが。


 彼女たちを傷つけるものは、アザミの棘一本たりとも許さない。そのためなら、森之進は何だって出来る。二人は、決して色あせぬ輝きを放つ宝物なのだから。

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