二 金魚吐種(きんぎょはきぐさ)

 田畑、野原、空き地と点在する雑木林、まばらに散らばる人家を抜けて山道を少し行くと、瓦屋根の洋館が現れる。それが祭原さいばら慈愛しげみの自宅だ。

 象牙色の壁にアーチ状、丸、四角と様々な窓がついた和洋折衷の二階建て。梅雨入りから十日を過ぎ、庭木の八重やえ梔子くちなしが大輪の花を咲かせていた。


 パトカーで帰っていく号を背に扉を開ければ、やはり鍵はかかっていなかった。前後不覚でよく開けられたものだ、と我ながら呆れる。

 今後のために、鍵は付け替えるべきかもしれない。空が白んできて眼鏡もないので、灯りは点けずスリッパに足を入れて進む。


 足は二階の寝室ではなくリビングへ向かった。何故そうしたのか分からないが、そうすることに慈愛は疑問も覚えない。必然の行動だったのだろう。

 上げ下げ窓の前へ設置されたソファに、熊のように大きな影が寝転んでいた。カーテン越しに儚い朝日が差しこんでいるが、影は塗られたように黒いままだ。


 そう見えるのは、長い髪が男の体を覆っているから。こちらの気配に身を動かすと、死人に似て艶のない白膚しらはだが暗がりに浮かび上がる。

 身を飾るのは黒い着物に白い帯で、生地も仕立てもかなり上等そうだった。

 慈愛の裸眼視力は0.4だが、その姿は角膜と水晶体の屈折率を無視して網膜に像を結んだ。光があろうとなかろうと、のものの顕現を阻むことは出来ない。


 慈愛はそこに在るものを見て、短く声をもらした。



 勤務時間外の朝四時から働いて、我ながら律儀なことだ。当の慈愛にはかなり冷たくあしらわれたが、恥ずかしいところを見られて気が立っているのだろう。

 河野こうのごうが思い巡らしながら、パトカーを駐在所に発進させて間もなく、急激な違和感と異物感が身体の奥深くからせり上がった。


(おい、勘弁してくれ。今か? 今なのか?)


 ようやく日が出てきた未舗装の道路、路肩に寄せることなくその場に急停車させる。号はパトカーの扉を開け、文字通り転がり出た。

 とっさに口を押える。胃袋がここから出せと魚のように躍り、強烈な痙攣に思わず膝をついた。喉がひくつき、息が出来ない。体内と体外をそれぞれに遮断して耐える苦痛に、ボロボロと涙が出た。一瞬ごとにまだか、まだかと焦り、手足が震える。


 草むらに向けて、号はついに胃の中身をぶちまけた。喉から排泄する嫌な感覚と、やっと解放されたという相反した爽快さが過ぎ去っていく。

 消化液の飛沫と、朱金色の鱗が曙光しょこうを照り返した。

 三匹の金魚が、号が吐いた胃液の上で跳ねている。ぴちぴちと音を立て、口の中には胃散の苦みと生臭さが残り、唾を吐けば金魚の糞らしき黒い塵。


 五感のすべてがこれは現実だ、「また」と己に突きつけた。

 ため息を吐きながら、号はダッシュボードから巾着型のプラスチック袋を取り出した。きちんと水も入っているそれに、和金の稚魚たちを指でつまんで入れていく。


「口洗いてぇ……」


 梅干しを思い浮かべながら唾を出しては吐き、可能な限り口の中をスッキリさせる。金魚袋を助手席に置き、号は大急ぎで駐在所へ向かって走り出した。


 いつの頃からか、号は突発的に金魚を吐く子供だった。一番古い記憶は家族で縁日に行った三歳の時で、金魚すくいの金魚を勝手に呑みこんだと思われたものだ。

 号はもちろん、金魚を呑むどころか、口に入れた覚えもない。そもそも胃酸の中で、か弱い観賞魚がどれほど生き延びられるものか。


 小学校に上がるころには「金魚食い」「金魚吐き」と噂になっていて、教師にも目を付けられる始末。だから号は吐き気がすると、必死で人のいない所へ逃げた。

 生きた金魚を陸で死なせるのも忍びないので、水筒を持ち歩いた。金魚を吐いたらそこに放りこみ、用水路や池に放流する。


 幸い、地元は金魚小売店に養魚場、金魚の即売会と魚が生きる環境に事欠かないので、こっそりそこの水槽にも入れたりした。

 善くないことだとは思うが、捨てずに自宅で飼えば親にバレるのは避けられない。最悪なのは警察学校に入っていた頃だが、それは置いておこう。


(オレが金魚を吐いたら、良くないことが起こるか、もう起こったか、だ)


 号の経験則ではその範囲は一日以内。保護した金魚が後で見たら死んでいたり、破裂したようにズタズタになっていたら、よほど凶悪な何か。

 まるで、号の身代わりを引き受けるかのようだ。


(今度は何が起きる? 何があった?)


 駐在所奥の生活スペースは、壁の一面が金魚の水槽で埋め尽くされていた。すべて号が吐いた、胃の中かどこかで生まれたきらめく赤い命。

 一年かけて数も増えたので、仕方なく人に配ったりしている。

 健康診断で異常が見つかったことはない。少なくともレントゲンでは分からないらしく、骨折や打撲で病院に行った時も何も見つからなかった。


(ひびきの時は、おまえら出てこなかったくせに)


 号は三年前に、二つ年下の妻を亡くしている。河野ひびき、旧姓須賀。彼女は神島に住む親戚に勧められて、祭原総合病院に入院していたが、帰らぬ人となった。


※ ※ ※


『ねえ、ごっちゃん。人に草が生えたらどうなるか、想像してみて。種類はなんでもいいよ、雑草雑草。分かる?』


 ある日、病院からかかってきたひびきの電話は奇妙なものだった。ひそひそと、他聞をはばかるように声をひそめ、確実に秘密を伝えねばという意志を込めながら。


『カビが生えるのに似てるような、ちょっと違うような。毛皮の代わりに芝生を着た人間、って感じじゃない。いや、そういう人もいたかな。変だよね、後で説明するから。気持ち悪いと思うけど、目とか口とか顔中から草がボーボーに生えたり、耳の穴からツタが垂れ下がっちゃうみたいな。皮膚の下につる草が張って、そこだけ盛り上がって色も緑になったり、酷いよね。ここでは人が今、そんな風になっているの』


 明るかった妻が羅列する異様な言葉に、号はなかなか答えられなかった。彼女が何を言っているか分からない。まるで怪奇映画か何かだ。

 これは何の話で、ひびきは何を伝えようとしているのだろう。言葉を遮って質問すれば、自分が知っている妻に戻るだろうか。それとも。


『みんなだよ。お医者さんにも生えている人がいる。ここはきっと、あの草を治療する病院なんだよ。そう、苗床、苗床にされた人から退院して、誰も見ないフリして』


 そこで彼女は、夫が沈黙し続けていることに気づいたようだ。

 す、と自分を抑える一息が受話器の向こうでした気がした。後から思い返してそう思うのは、号が抱える罪悪感がなせる脚色かもしれない。


『なんてね!』


 曇り空に日が差したような一声だった。陽気にトーンを跳ね上げて、冗談を笑い交わしたり、二人で愛を囁いた頃と同じ声音。

 前の話をなかったことにするため、誤魔化すために使ったのは初めてだった。


『やっぱ長期入院ってやだね~。さすがのあたしも気弱になっちゃうから、最近夢見が悪くてさ。あ~、退屈で死んじゃいそう! 早くお見舞い来てね~』


 どうすれば良かったのだろう。号はその時、余計な詮索を避けて無難な世間話に終始し、明るく陽気な妻との会話という体裁を守ったまま通話を切った。

 あのとき、苗床の話を追求すべきだったのか。遠方で新人警官をやって、ひびきがいくら不安定になっていても、すぐ駆けつけられないような立場のくせに?


 どれだけ悔いても過去は変わらない。この電話から一週間ほど後に、ひびきは容態が急変し、号が駆けつけた時は霊安室での再会となった。


※ ※ ※


 餐原町さんばらちょうに赴任して一年、数ヶ月に一度のペースで号は金魚を吐いたが、それらしき凶事は今のところ起きてはいない。吐いた金魚が死んでいることもない。

 町では大した事件事故もなく、原因がとんと分からなかった。こんなことは初めてだ。大きな出来事といえば祭原景克の死だが、今のところ事件性はなかった。


(つまり、オレには分からないところで何かが起きている、ってことだ)


 それは、ひびきの不可解な病死とも関係しているのではないか。だから前の駐在が退職すると知って、号は赴任に名乗りを上げた。

 病院で人々が苗床にされるというひびきの訴えと、死。それを追うのはマトモじゃないが、彼女のことを放っておいたり、忘れたくない。


 様々な思惑を抱えながら、号は仮眠を取っていつものように勤務に出た。新入りの金魚はタライで水に馴染ませてから、後で水槽へ移動させる。

 駐在所前の田んぼ道を、ランニングシャツと長靴姿の老人が通りがかった。この辺りに住んでいる、新巻あらまきさんという年配の住民だ。気さくに手を振ってくる。


「やー、駐在さんおはよう」


 違う。

 号は「あ?」と語尾が上がる不躾な声が出た。変化ではない、強烈な違和が視界からこれでもかと突き刺さる。あれは新巻であって新巻ではない。

 しわが刻まれた顔から、青々とした草花がびっしりと生えていた。まぶたを押しのけるように伸びる葉を見れば、眼球は根に食い尽くされていることだろう。


 禿げ上がった頭のあちこちに血管が盛り上がっていたが、それは静脈でも動脈でもなく、緑色の蔓が皮下に埋まっていると号は気づいた。

 耳からはエノコロ草やスギナが天へ向かって生い茂り、鼻には血止めのように芝がびっしり詰まって……バカな一発芸みたいだ。


「イい天きですねえ」


 言葉を次ぐ新巻の口から、よだれのようにスベリヒユが垂れ下がった。

 は、と号は気の抜けた吐息をこぼし、いっそ笑ってしまおうかと思う。だがここで笑ったら、自分はいつまでもいつまでも笑い続ける気がした。


 そもそも笑えるような立場だろうか、原因不明の金魚吐きは。

 いつか自分も顔中の穴から、次は体中の穴から、金魚を出し続ける肉の塊にならない保証がどこにある。新巻も、自分も、どうしてそうなった。


 ごぽりと腹の中が泡立つ。ああ、また一匹生まれてしまうのかと号は膝をついた。

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