三、もろもろの人草(ひとぐさ)

十五 盲目は恋のみならず

「コンクール優勝おめでとう、育乃いくの

「おめでとう」


 昭和四十七年。コーヒーポットが立てる複雑で芳しい香りに包まれながら、母は久しぶりに満面の笑顔を見せた。言葉だけ祝う兄も、美智代みちよの明るい表情には少なからず気分を良くしたらしい。カフェの席で、母子はささやかなお祝いを開いていた。

 十月、さほど大きくはないがピアノコンクールで初め優勝した育乃のため、母は子供たちを連れて京都へ出かた。


 父はどうでも良さそうだったので付いてこず、克生かいは母といっしょに日帰り旅行を楽しみに来ただけだが、楽しい時間を過ごした。

 当然のように、慈愛しげみだけ置いて行かれたのが心残りだ。

 中学生の時、育乃は森之進もりのしんの母が営むピアノ教室に通い出した。もっと技術を磨きたいと思い切って言い出したら、意外にも美智代は快諾してくれたのだ。


「育ちゃん、君のピアノ聴かせてもらって良いかな?」


 元々兄の友人としてひんぱんに家を訪れていた森之進とは、話す機会がいっそう増えた。そして時たま、前述のようなことを言う。

 それが時々ではなくなったのは、いつからだろうか。

 育乃がアップライトピアノを弾き、後ろで森之進が聴き入る、そんな穏やかな時間が日常の一コマになったのは。やがて人生の一コマになったのは。


〝王子様の妹も王子様〟――学生時代、周囲は育乃をそう評した。少女の柔らかさに、青い果実に似た固さが内包され、黙っているとすぐ少年と間違えられる。

 そのせいか、女子生徒からはやたら人気があったものだ。そして男子生徒からも。けれど、育乃は誰の告白も受け容れず、交際もしなかった。例外はただ一人。


「実はこっそり、君が綺麗だと思いそうなボタンを買い集めていたんだ。いつか理由をこじつけて、プレゼント出来たらって思って。お眼鏡にかないそうかい?」


 ピアノコンクールで優勝した時、森之進はお祝いにとボタンのセットをくれた。

 服のボタン集めは育乃の趣味で、友だちからいらなくなった物をもらったり、手芸品店を回ってカンカンに貯めこむのだ。

 森之進が一生懸命集めたボタンの詰め合わせは、まるで宝石箱のようだった。

 要するに、育乃もかねてより森之進に恋していたのだ。告白されたのは十八歳の時、後にも先にも、育乃は夫以外の男を知らない。


 彼への好意が決定的になったのは、中学二年生のある出来事がきっかけだ。

 こっそり厨房からよく磨かれた包丁を持ち出し、育乃は兄の部屋に向かっていた。もうあの人を許せない、このままでは幼い異母弟が殺されてしまう。

 高校生になってますます暴力性に磨きがかかった克生は、慈愛の腕を折って病院送りにした。もはや育乃も、最大限の暴力に訴えるしかない。


 兄に包丁を突きつけた所で、お前には無理だと笑われるのが落ちだ。実際、誰かを傷つけるつもりはない、でも大嫌いな自分自身なら別だ。

『これ以上しげちゃんをいじめるなら、死んでやる』そう言って自分の首を切れば、女を見下しているあの兄だって慌てるはずだ。だって母が血相を変えるだろうから。

 美智代は慈愛が死んだって気にしないだろうけれど、自分の娘に対してはその限りではない。祭原さいばらの霊術は簡単には死なせてくれないだろうが、本気を見せてやる。


「育ちゃん、何してるの?」


 曲がり角からかけられた声にギクリとした。布巾で包むぐらいすれば良かったと思いながら、育乃は包丁を腰の後ろに隠す。遊びに来ていた森之進だ。


「遅いよ」


 一瞬で距離を詰められ、軽々と捻られた手首から包丁が落ちて、からんと音を立てる。育乃の企みなど茶番に過ぎないと告げるような、情けないほど軽い音だった。

「何をしようとしていたの」と問われ、慈愛のことも脅迫のことも洗いざらい吐き出すと、育乃はその場でわんわん泣いた。

 言葉も感情もぐちゃぐちゃに潰れて喉を震わせ、頭は酷く痛み、全身が地獄のように熱い。時間の流れが狂って、過去も現在も意識の中で入り乱れながら、育乃は自分がいかに馬鹿で卑怯で恥知らずで、家族も友人もみんな大嫌いかを喚き散らした。

 言うことが出てこなくなって、ふうふうと呼吸をくり返していると、手首を捻り上げていたはずの森之進に、自分が抱きしめられていることに気がついた。

 すうっと引き潮のように興奮が過ぎ去って、恥ずかしさより落ち着きで充たされる。そして浜辺に残されて光る貝殻のように、育乃は自分の本音を見つけた。


「わたしは、みんな、にしあわせになって、ほしい、だけなのに」

「そのみんなに、育ちゃんを入れなきゃ駄目だよ」


 森之進の言葉はどこまでも滑らかで棘がなく、指で触ると安心するボタンの感触に似ていた。ずっとこの優しさに溺れていたい。

 だが気がついてしまった、自分は彼に止めて欲しかったのだと。兄を本気で脅すなら夜やるべきなのに、土曜の真っ昼間、誰がいてもおかしくない時間を選んだ。


「私って、やっぱりオンチだ。母さんといっしょ」


 しばらく泣き笑いし、育乃は森之進に二度とこんな馬鹿な真似はしないと誓った。

 心の奥深くまで自分の愚かさをさらけ出してなお、優しく受け容れ、埋め合わせようとしてくれる彼に、育乃はすっかり恋に落ちたのだ。

 そして月日が流れる。


「子供の頃、克生が面白半分に野アザミで叩いてきた時、君は我が身を省みず兄の前に立ちはだかった。その勇気と意志の強さにぼくはずっと心を奪われてしまった。あの時は君に庇われたけど、今度はぼくに一生守らせて欲しい」

「え?」


 夏で、夜で、月明かりが照らす静かなびわ湖の浜辺でのことだ。

 森之進が優しい小声で語りかけ、指輪の入った箱を差し出してきた時、それがプロポーズであることは分かった。だが、育乃はうーんと首を捻ってしまう。


「……ごめんなさい、野アザミのこと、覚えてない」

「えっ」

「それって私が幼稚園の時? 小学生の時? 確かに昔は兄さんが暴れて、私がそれを何とかしようとしたことは覚えているけど、多すぎてどれだか分からない」


 しばらく間の抜けた沈黙がふわふわと通り過ぎ、「あ、一生守ってもらえますか」と育乃が返答した瞬間、森之進は雄叫びを上げた。

 物静かな彼が声を出して、喜びのあまり湖に入って全身ずぶ濡れになりながら転げ回るのを見て、育乃も波間に飛びこんだ。

 この時彼女は二十歳、命を落としたのは二年前。

 つまり、森之進に心を寄せたその数ヶ月後だった。



「ごめんね育ちゃん、これで君は五人目だ」


……私に話しかけているのは誰だろう。とても聞き覚えのある、優しくて悲しい声、よく知っている誰か……大切な、ひと。


「どうしていつもこうなるんだろう。君が口無しに殺された後、本当はプロポーズを反対されたんだ。いつここが見つかってしまうか冷や冷やするよ。

……いや、今回はとうとう君に見つかったんだったね。どうしてだろう、君は代替わりするごとに、疑い深く、嘘に対してヒステリーを起こす。それは元からの性質ではあったけれど……いや、克生や景克かげよし先生のお小言を思い出すな、やめよう。

 育ちゃん、君の記憶ではぼくたちの最初の子どもを死産だったと思っているだろうね。でも本当は、子どもと一緒に君は命を落とした。男の子だった。

 三人目の君は、産めなかった子供を自分が殺したんだと責めて、病んで、……ああ、何度でも思うよ、どうしてぼくは目を離してしまったんだろう。どうしてもっと早く気がついてあげられなかったんだろう。

 どうして、君の話をもっと聞いてあげられなかったんだろう! この悲しみを二人で乗り越えられたなら、君が首をくくることなんてなかっただろうに!

 そして四人目はこうだ。君はぼくの植物園を見つけて、予備に株分けした鉢植えを見つけてしまった。裸の自分が鉢の上で足を抱えているなんて、気分が悪くなっただろうね。本当にごめんよ。でも、ぼくは君をうしないたくないだけなんだ。

 今も君は、鉢植えを見るとぼくの話し半ばに逃げ出して、自動車の前に飛び出してしまった。即死だったよ。まるで本当は自分が死んでいると知っているように、君は何度も何度も死をくり返す! 育ちゃん、頼むからぼくと共に生きてくれ。

 一生ぼくと一緒に居てくれよ。ずっと、ずっと傍に居てくれよ……」


 この人は何を言っているんだろう? 分からない、思い出せない……いや、きっとまた忘れていくんだろう。今にも意識がなくなりそうに眠いのに、ただ眠気が続くだけ。夢うつつのままに、私はまた私ではない私になる。

……ただ、どうしてだろう、この声の人が怖いのは。

 見えず、話せず、動けず、ただ聞くだけの私をなでる手は優しい。時々、体全部を使って抱きしめられる。その時私は自分の形を知る。

 ああそうか、動けない今、私の身体は自分のものじゃないんだ。


 声の主の言うことを忘れていく内に、私は自分が育乃という名前だったことや、家族のこと、娘のこと、友だちのこと、生徒のこと、ピアノの弾き方やお裁縫、料理の作り方なんかを思い出していく。自分がいつ、どんな風に死んだかも。

 それなのにどうして、私はここにいるの?

 そんな意識が芽生えた時、声の主が、夫が自分に語りかけることの意味を理解して私は戦慄した。この人が、私を死なせないんだ。何度死んでも引き留めているんだ。


 私はまた生きる機会をもらったのかもしれない、でも、それは本当に? 私は本当に元の私なの? 死を選んだ私の意志は、こうも踏みにじられるべきことなの?

 私はもう死んだのに、貴方はその事実から目を背けて自分を騙し続けるんだね。

 ねえシンさん、私を見てよ。私の死を無視することは、私の生きてきたことを無視するのと同じじゃない。あんなに愛しているって言ってくれたのに。

 どうしてこんな酷いことをするの。

 もうやめて、シンさん。

 お願いだから、鉢植えを作らないで。



 どうだん稲荷の裏、満天星どうだん山およびその樹海は神主である帰家の私有地だ。墓地とはまったく異なる道筋で、樹海の中に森之進は密やかに小屋を建てていた。

 密やかに鉢植えを育てる植物園に、彼は朝晩足を運んで念入りに世話をしてる。妻が帰ってこなかった日曜日の夜、小屋の扉を開けて森之進は目を見張った。


 三つの植木鉢に植わっていた植物が、すべて黄土色に枯れている。細長い葉の上に膝を抱えて座る格好で、元は精巧な人形のように育乃の姿をかたどっていた。

 熟すと本人の肌や髪の色を持つが、一つは新しく作ったからまだ肌が青かったのに、それも枯れ葉色になって、古びたスポンジのように輪郭が崩れている。


 誰かがやろうとして出来るものではない、これは神から力を借りた植物――いわば本物の反魂樹なのだから。

 それが枯死したということは、彼女は二度とよみがえらぬよう〝花のをすくに〟に連れて行かれたということだ。

 森之進はズボンの膝を突き、その場に突っ伏して号泣した。

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