第16話 草壁香奈の恩人
翌日の朝、俺は早めに家を出て、六本木にある会社に向かった。
今日は夕方に春木優花と会う約束もあることだし、恋愛恐怖症も克服出来たし、たまには真っ当な会社員らしくしようと思ったわけだ。
商業ビルの高層階にあるオフィスに入ると、いつもよりも静かな雰囲気が漂っていた。まだ出社している人が少ないせいだろう。
オフィスに入ると、デスクでパソコンを見つめている草壁香奈が目に入った。普段はバリバリと仕事をこなす彼女だが、今日はどこか様子が違う。目の下にクマができていて、いつもピシッとしている姿勢も少し崩れている。飄々とした表情がなく、むしろどこか弱々しい感じさえする。
「おはよう、草壁さん。なんか、今日は元気がないみたいですね」
俺が声をかけると、香奈はかなり驚いたように顔を上げたが、その後あたふたしながら立ち上がり俺の方をみた。
「え!?あ、青空さん……今日は出社日だった?」
驚いた彼女の声にはいつもの自信が欠けていて、どこかオドオドしている。俺はその態度に戸惑いを感じつつも、先日、彼女が訪ねてきたときに追い返してしまったことを思い出し、申し訳ない気持ちになった。
「あ、いえ、たまには顔を出さないと、忘れられちゃうかと思いまして」
らしくないジョークを飛ばしてみたが、彼女の反応はどこかよそよそしい。
「やだな、来るって分かってたらもっとちゃんとしてたのに」
そう言って彼女は引き出しから小さなポシェットを取り出し、足早にどこかへ行ってしまった。
俺は同じ部署の同僚に一通り挨拶をしたあと、フリーデスクに座りノートPCを開いて仕事を開始した。集中し始めると時間が経つのはあっという間で、気がつけば時計は12時を過ぎている。
そろそろ休憩を入れようと思い、草壁香奈の席を見ると、彼女も一旦仕事を終えようとしているところだった。朝の様子とは違い、いつものキリッとした表情に戻っていて、目の下のクマも消えている。なんだか朝よりも綺麗に見える。
俺は席を立ち、彼女のデスクへ行った。
「草壁さん、先日は、せっかく訪ねてくれたのに、ちゃんとお話もできなくてすみませんでした。お詫びに、もしよければ昼食でもどうです?奢りますよ」
俺の誘いに、香奈は驚いたように目を見開き、少し戸惑った表情を浮かべた。普段は冷静で毅然とした彼女が、突然の誘いにオロオロする様子は、ちょっと意外で新鮮だった。
「え……あ、あの……いいんですか?私なんかと……」
「もちろんですよ!こうやって草壁さんとちゃんと話す機会もなかったので」
俺の言葉に、香奈は少しだけ微笑んで頷いた。
「わかった。お言葉に甘えて、ぜひご一緒させていただきます!」
こうして俺たちは、近くのカフェに足を運び、昼食をとることにした。店内は北欧風ともいえるモダンで洒落た雰囲気で、女性とのランチタイムにはちょうどいい。
ほのかにかかっているBGMがクレモンティーヌとはセンスが良いな、などと、最近まで恋愛恐怖症で女性にビビり散らかしてた男とは思えない思考が頭を巡る。人とは変わるもんだ。
「いいお店ですね、青空さん。センスいいですね。」
「いや、俺も初めて入るんですよ。さっき食べサチで見つけただけです」
注文を終え、料理が運ばれてくるまでの間、香奈は少し躊躇しながらも、口を開いた。
「実は……私、大学生のころ、この会社にインターンとして来ていたんです」
「え?そうなんですか?俺、その時まだ普通に出社してたけど気が付かなかったな」
「そのときは、今とはまったく違う姿だったから……分からなかったと思います」
彼女は少し俯き、目線を斜め上にそらせて、もじもじとした表情を見せた。なんだか会社で見る雰囲気と違って、自信なさげというか、可愛らしいというか、こういう一面もあったんだな。
「どんな感じだったんです?」
俺は興味を持って、彼女の話に耳を傾けた。
「ええ、私って実はけっこうオタクでして、当時は……分厚いメガネをかけて、服も髪型も地味で、自分に自信もなくて……」
「へえ!今の草壁さんからは、ちょっと想像できないな」
香奈は少し遠くを見つめるような目をして、続けた。
「そのとき、私、進行中のプロジェクトで大きなバグを見つけたんです。プログラミングが好きだったから、勝手に修正しちゃって……でも、それが大問題になっちゃって」
俺は驚きながらも、黙って彼女の言葉を待った。
「そのとき……私の代わりに責任をとってくれた……エンジニアがいたんです」
彼女は上目遣いで視線をキョロキョロさせながら、少し顔を赤らめ、ちらちらと俺の方を見ながら話を続けた。
「彼は……普段無口で地味で、あまり目立たない人でしたけど……私、彼の行動に胸が熱くなって、気持ちも惹かれて……私もこんな人になりたい、自分を変えたいと思ったんです」
そう言うと一度俺の顔をみつめて、恥ずかしそうにうつ向いた。
「それで、今の草壁さんがあるんだね……」
俺の言葉に香奈は軽く頷き、少し寂しそうに微笑んだ。
「やっと同じ会社に入れたのに、その人とは、会社でほとんど会えなくなってしまって……。いつかそのお礼を言いたいって思っていたんだけど、いざとなると勇気が出なくて」
俺は彼女の言葉に胸が締め付けられるような感覚を覚えた。彼女がその人に対して抱いている思いが、どれほど強いものかを感じ取ったからだ。だって俺も……同じだったから。
「……その人に、思いを伝えられるといいですね」
そう言うと香奈は少しだけ顔を赤らめながら、再び俺を見つめた。
しばらくもじもじしながら黙っていたが、やがて恥ずかしそうに口を開いた。
「ええ……今日、やっと言えました。本当に、やっとね。」
俺は驚きながらも、彼女の言葉に深く頷いた。
「そっか……それは良かった。俺からも、その彼に礼を言いたいくらいです」
すると、香奈は急に席を立ちがった。
「え?どうしたの?」
俺が困惑していると、彼女は顔を真っ赤にしながら俺に向かって言い放った。
「もう……バカ!本当に鈍感なんだから!」
え?なんで怒ってるの?俺、まずいこと言っちゃった?何かやらかしたの?
「今日はお詫びにおごってもらいますからね!」
そう言うと彼女はぷいっと席を離れ、急いで店から出て行った。
残された俺は、しばらく彼女の言葉を反芻していたが、ようやく彼女が自分に対して抱いている気持ちに気づいた。
「え?……あれ?もしかして、それって……あ!——俺だ」
彼女が語ったエンジニアの話、遠い記憶を思い起こせば、そういう事件があった気がする。驚きと共に、胸の中にじんわりと温かい感情が広がっていくのを感じた。
「こんな俺にも、誰かを変えるような行動があったんだな」
その直後、俺は二人分のランチを食べることになった。
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