第25話 伊藤千秋の決断
俺は自宅デスクのアーロンチェアに深く腰掛け、PCの画面をぼーっと見つめながら考え込んでいた。
伊藤千秋が、あそこまで感情を露わにしたことが、どうにも引っかかっていた。春木優花のことについて、何度も頭を巡らせてみたが、何が正解だったのか、どう対処すればよかったのか、全くわからなかった。
「彼氏でもないのに、彼女でもないのに……か」
そもそも「彼氏」「彼女」って、どういう関係なんだ?想いを告白して、お互いを大事にするって約束した仲ってだけなら、『推し』と『恋人』にはどんな差があるんだろう……告白もしていないのに、純粋に愛情を注いで相手を支える——そっちの方がむしろ尊いんじゃないか?恋愛の定義っていったいなんだろう。
(ピロン)PC画面にSlackの通知が表示された。
草壁香奈【仕様変更の件について】
うわ……また仕様変更?今は内容を見る気力がない。しばらくほっとこう。
それにしても、草壁さんはあの告白の後でも仕事モードで通常運転なんだな……歳下なのにハートが強いというか、見習わなきゃな。
その点、俺ときたら……35歳にもなってこんな恋愛の初歩的な事でうじうじ悩んでるなんて、親が知ったら泣くかもしれん。ついこないだも「とりあえず孫の顔が見たい」とか言ってたけどさ……母さんそれ、レベル1の勇者に「とりあえず魔王を倒してこい」ってクエスト出すくらい無理ゲーだよ。
「ああ、ダメだ。頭が混乱してる。外に出て頭を冷やそう」
俺は立ち上がり、薄手のコートを羽織って玄関を出た。
すると、目の前には帰宅途中の千秋がいた。深い帽子と伊達メガネをかけている姿から、彼女はどこかに出かけていたようだった。
「あ……千秋さん」
「……聖夜さん」
俺の声に反応した千秋は、こっちを見たまま顔を真っ赤にして涙ぐみ、俯いてしまった。
次の瞬間、彼女は突然泣き出し、手を震わせながらポロポロと涙を流し始めた。
「ど、どうしたの?何があったの?」
「聖夜さん……わたし、もうダメかもしれない……もう」
その言葉に、胸がギュッと締め付けられた。一体、彼女に何があったというんだ。まさか、また『あいつ』の仕業か?
「にぇえ……もおむり……わだし、泣きそう……」
「いや……千秋さん、もう泣いてるけど……」
頭が真っ白になった。こんな時、どうすればいい?抱きしめて頭をなでなでする?いや、アニメのイケメンならいざ知らず、彼氏でもない俺がそんなことをすれば、ただのセクハラになってしまう。俺は混乱しながら、彼女の涙をただ見守るしかなかった。
すると彼女はふらふらと歩み寄り、俺のコートにしがみついた。そして涙が止まらないまま、震える声で呟いた。
「う、うぇ、………わたし、がんばってるのに、どしたら」
「千秋さん、とりあえずここは人目につくから、部屋に入ろう」
そう言って俺は、千秋を自分の部屋へと招き入れた。彼女はソファに腰掛け、俯いたまま静かに涙を流し続けた。俺は彼女にハンカチを手渡し、黙って見守るしかできなかった。
しばらくして、ようやく彼女の涙が止まった。少し落ち着いたようで、彼女は静かに口を開いた。
「ごめんね……少し冷静になった」
「大丈夫だよ。何があったのか話してくれる?」
そう問いかけながらも、俺の心臓は小さく音を立てていた。本当に一体何があったというんだ。
彼女が言葉を選ぶように話し始めると、その一つひとつが、まるで俺の胸に棘のように刺さってくる。千秋がここまで追い込まれてるなんて、俺の胸の中には焦りと苛立ちが募り、無意識に拳を握りしめていた。
「つまり、所属事務所宛に『あいつ』からの告発文が送られてきて、Vtuberを辞めるか、俺との関係を切るか迫られてるってことか……」
俺の言葉に、千秋は小さく頷き、再び俯いた。その表情に浮かぶ深い疲れと怯え、そして涙を堪えるように震える肩を見るたびに、胸がぎゅっと締め付けられる。
俺は深く考え込んだ。なぜ『あいつ』が、俺の存在を詳しく知っているんだ?これが、どうにも引っかかる。
——しかも隣人という事実まで。
……やはり俺と『あいつ』の間に繋がる『何か』があるということなのか?
しかし今は、迫られる選択に、彼女がこんなにも苦しめられている。俺にできることと言えばひとつしかない。
「千秋さん、俺が消えることで『秋空かえで』が助かるなら、それでもいいよ。どこにいようと、俺は君を『推し』続けるし、俺の想いは変わらないから」
そう言った瞬間、彼女は俯いたまま、かすかに震えていた。そして、ゆっくりと顔を上げた。その目には涙が浮かんでいるが、何か強い意思と決意が見えた。
「ダメよ……聖夜さん。わたしは、あなたを失いたくない。青空聖夜は……伊藤千秋にとって、もうかけがえのない存在だから」
彼女の言葉に、俺の心臓が高鳴った。めちゃくちゃ嬉しかった。でも、同時に戸惑いもあった。彼女の想いに応えるべきなのか——自分にはその価値があるのか、悩みが胸を締めつけた。
すると伊藤千秋が突然、意を決したように立ち上がり俺の目をじっと見つめた。
それを受けて、俺も思わず立ち上がった。
しばらく見つめ合った後、彼女はゆっくりと口を開いた。
「青空聖夜さん……私は——」
「……はい」
「——あなたが好きです」
驚いた。まさか、よもや、彼女の方から告白してくるなんて思ってもみなかったから。俺は完全に不意をつかれ、思考が一瞬止まってしまった。
俺からも、すぐに彼女に伝えなければならない——俺の愛の告白、この自分の気持ちを。
「千秋さん、俺も……あなたに伝えたいことがある」
真剣に彼女を見つめながら、俺は続けた。
「伊藤千秋さん……俺は——」
しかし、千秋はそこで手を上げ、俺の口に手のひらをかざして言葉を遮った。
「ちょっと待って……そこから先は、わたしが伊藤千秋になった後で聞いていい?」
「ちょ……え?どういうこと?」
俺には彼女の言葉の意味がすぐには理解できなかった。もう告白する覚悟は出来てるし、今でも後でも気持ちが変わるわけがない。
「いや、今ちゃんと言いたいんだ、俺は——」
すると俺のスマホが震え、呼び出し音がなった。
小久保浩司からだ。
『……聖夜、俺がやった、俺なんだ、こんな結果で……すまねぇ』
「おい!浩司……どうしたんだ?何言ってんだ!」
浩司の声は、意識が朦朧としているようで明らかに様子が変だ。
『ほんとに…ごめんな……こんな選択しか……できなく…て……俺が……あの時……ちゃんと……』
「おい!しっかりしろ!浩司!今どこだ?」
『……——』
それ以降、浩司からの返事はなく、スマホの通話も途切れてしまった。彼に何かが起こっていることは間違いないが、居所が分からない今、動きようがない。俺はソファに座り考え込んだ。
「俺がやった」だと?『あいつ』の正体は自分だと言いたかったのか?小久保浩司。
「そんなわけがない……」
俺が呟くと、伊藤千秋が不安そうな顔で尋ねてきた。
「ねえ、聖夜さん……何があったの?コウジって誰なの?」
俺は少し考え、俺と浩司との関係、彼が天才的なハッキング技術を持っていること、そして『あいつ』ではないかと疑っていた事実と、誰かを庇っている可能性があることを、彼女に話した。
「小久保浩司……小久保……まさか」
そう言うと伊藤千秋は静かに俺の部屋の中を見回し、大切にしている「秋空かえで」のポスターの前に歩いて見つめ始めた。
そしてデスクの付近で立ち止まり考え込んだ。
すると何かに気づいたような表情を浮かべ、呟いた。
「……わかった」
「え?何が?」
俺が尋ねると、千秋はにっこりと笑い、肩をすくめた。
「なんでもないわ」
明らかに何かを隠している笑顔とその返事に俺は不安を覚えた。
——しかし、彼女の目には先ほどまでの涙とは違う、強い意志が宿っていた。その目を見つめていると、俺はそれ以上何も言わず、彼女の言葉に従うしかなかった。
「じゃあ、そろそろ部屋に戻るね。今日はありがとう、聖夜さん」
「わかった……気をつけてね」
俺は彼女を部屋のドアまで見送り、その後静かに扉を閉めた。胸の中に何かが渦巻くなかでハッと気がついた。
「ああ!俺の告白がまだじゃないか……ったく」
頭を掻きむしりながらも、さっきの千秋からの告白は、俺にとってまるで白昼夢のような信じられない出来事だった。
「喜んでいいんだよな、俺の妄想じゃないよな」
しかし、俺からの告白を止めた彼女の意図は……小久保の名前を聞いて何かに気がついた後の、彼女の様子——そして、小久保浩司の身に今何が起こっているのか。喜びと同時にわからないことが多すぎる。
その時、再び俺のスマホの呼び出し音が鳴った。
今度は春木優花からだ。
『もしもし!青空くん?!大変なことになったわ』
「春木さん?一体どうしたの!」
『小久保浩司が……自殺未遂よ』
何か大きなことが始まろうとしている。
——それだけは、確信した。
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