第24話 迫られる選択


 マネちゃん【かえで、大変だよ!】


 伊藤千秋のスマホが震えた。


 ディスプレイに表示されたマネージャーからのメッセージに目を通した瞬間、伊藤千秋は頭が真っ白になった。告げられたのは、『あいつ』についての連絡だった。


 なんと『あいつ』が、なんとフォローズ宛に伊藤千秋に関する「告発文」を送ったらしい。


 フォローズとは「秋空かえで」が所属するVtuberプロダクションで、数多くのトップVtuberアイドルを育成し、大成功をおさめた業界のトップ企業だ。


 告発の内容は、秋空かえでがリスナーと同じマンションに住んでいること。

 そして、彼女が「秋空かえで」に関する活動内容を部外者に漏らしているというものだった。


 まさに、彼女の立場を脅かす内容だ。


 マネちゃん【近藤会長にも知れて、今かなり厳しい状況になっている。急いで事務所に来て!】


 マネージャーの言葉が脳裏に焼き付いた。千秋は、冷や汗を感じながら震える手でスマホを握りしめた。


 かえで【わかりました。すぐ向かいます。】


 フォローズの本社ビルに到着すると、千秋の心臓は高鳴っていた。会議室に入るまでの道のりが、恐ろしいほど長く感じる。廊下を歩くたび、足が重くなり、胸の奥で恐怖が膨れ上がる。


 近藤会長が怒っている——それだけで、千秋にとっては足がすくむほどの大問題だ。


 近藤修、フォローズの会長であり、Vtuber業界の重鎮。秋空かえでとして所属した当時、特技や個性に乏しく知名度が低かった彼女に、配信者としてファンを獲得する戦略を指南した人物。彼の手によって無名の状態から一気にトップVtuberへと駆け上がることが出来た「秋空かえで」にとって、近藤は生みの親のような存在だ。


 だが、その優れた手腕の裏には冷酷ともいえるほどの厳格さがあり、規則違反を許さないことでも知られている。


 会議室のドアを開けると、スタッフに囲まれるように近藤会長が静かに座っていた。冷静だが、その背後には怒りの影がちらついているようだった。


「座ってくれ、秋空かえでくん」


 近藤の言葉は静かでありながら、凍りつくような重みがあった。千秋は言われるままに席についた。周囲には、マネージャーや他のスタッフが緊張した面持ちで座っている。誰もが沈黙を守っている中、近藤が鋭い視線を千秋に向けた。


「君に対する告発文が届いた。色々と書かれてはいるが、重要なのは『秋空かえで』がリスナーと同じマンションに住んでいる。そして活動の内部情報を部外者に漏らしている、という部分だ。」


 千秋の胸が締めつけられるような感覚が広がる。息苦しいほどのプレッシャーが彼女を襲った。告発の内容はある意味で正しい——リスナーであり『推し』でもある青空聖夜が隣に住んでいる。


 だが、それは奇跡のような偶然で、彼との関係がそんな風に扱われるなんて思ってもみなかった。


「知っていると思うが、フォローズにおいて情報漏洩は非常に重大な問題だ。秋空かえでとしての活動は、私たち全員で守ってきた。そしてそれは、多くのリスナーたちも同じだ。その信頼を裏切れば、すべてが台無しになる。」


 近藤の言葉は鋭く、まるでナイフのように胸に刺さる。千秋は俯いたまま、震える手を膝に握りしめた。言い訳をすることはできない。彼が言っていることは正しい。


「秋空かえでがどういう存在であるべきか、君自身も理解しているはずだ。Vtuberとしての成功は、リスナーとの距離感をどう保つかにかかっている。それが歪んでしまえば、君が築いてきたすべてが崩れてしまうんだよ。」


 千秋は必死に答えようとしたが、言葉が喉の奥に詰まって出てこない。ただ、うなずくことしかできなかった。


「そして君が最も信頼し、依存しているリスナー『ブルースカイ』——君の隣に住んでいるのは『彼』なんだろう?」


「……え、それは」


 千秋は言葉に詰まった。たしかにそうだが、なぜそれを『あいつ』が知っていたのか疑問に思ったし、聖夜を巻き込みたくないという思いもあったからだ。


「彼を庇いたい気持ちはわかるが……君がいま優先的に考えるべきは、ここにいるスタッフや、復帰を待ってくれている多くのリスナーのことではないのか?」


 近藤の声はさらに低く、しかしその中に何か試すような響きがあった。


「秋空かえでを支えてきたリスナーであり、君の恩人でもある彼。だが、その関係が仮に公になった場合、どれだけの問題を引き起こすかを理解しているのか?」


 千秋は唇を噛んだ。秋空かえでを推し続けた「ブルースカイ」。彼の支えがなければ、自分はここまで来ることはできなかった。それは彼女にとって絶対的な真実だ

 でも、近藤やスタッフ、そしてクリエイターの支えあっての自分であることも間違いなく、感謝もしている。


 そしてなにより……推し続けてくれるリスナー達こそが、「秋空かえで」としての自分が最も大切にしたい『宝』だ。


「君には二つの選択肢がある。『秋空かえで』を辞めるか、それとも青空聖夜との関係を断つか。」


 近藤は静かに言い放った。その言葉は千秋の心に深く刺さった。


「……辞める……か、聖夜さんとの関係を断つか……?」


 千秋は頭が真っ白になり、その場で凍りついた。どちらの選択肢を取っても、彼女の心は深く傷つくことになる。


 秋空かえでとしての存在を捨てるか、ずっと支えてきてくれた青空聖夜を失うか——どちらの道を選んでも、彼女の未来に痛みが伴うのは明らかだった。


 近藤は冷たい視線を千秋に向けながら続けた。


「私には、君がどちらを選ぶのか見極める責任がある。秋空かえでとして成功してきたのは、君だけの力ではない。彼を切り捨てることでVtuberとしての未来を守るか、それとも彼を選んで『秋空かえで』を捨てるのか、君に決断してもらうしかない。」


 千秋は言葉を失い、ただ俯いた。周りのスタッフやマネージャーが「その二択はあまりに厳しすぎるのでは」と必死に彼女を助けようとしている様子を感じながらも、近藤の言葉が頭のなかでぐるぐると巡り、伊藤千秋は呆然となっていた。


「もし私が『秋空かえで』を辞めたら……どうなるんですか?」


 千秋は弱々しい声で問いかけた。彼女は秋空かえでとして生きてきた自分を否定することの意味を理解しながらも、その言葉を投げかけた。


 近藤は少し間を置いてから答えた。


「君が辞めれば、フォローズが責任をもって騒ぎを公にせず終息させる。スタッフやクリエイターには迷惑がかかるが、リスナー達は残念に思いながらも時間と共に「秋空かえで」を忘れていくだろう。——だが、君自身がどう生きるのか、それをどう考えるかが重要だ。」


 彼の言葉は、まるで彼女の内面を試すかのように響いた。千秋は深く息を吸い込んだ。


「少し時間をください……」


 彼女は立ち上がり、会議室を後にした。その後ろ姿に近藤は何も言わなかったが、その表情は、千秋がどのような選択をするのかを、静かに見守っているように見えた。

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