第23話 溢れ出る感情

 ——わたしは、聖夜さんに恋をしている。


 それに気づいた瞬間、千秋の心は大きく揺れた。


 これまで一度もリアルな異性に恋愛感情を抱けなかった事を悩んでいた自分に、なぜ突然こんな感情がが生まれたのか、そして、なぜこんなにも心が振り回されているのだろうか。


 ——ちがう、これは突然じゃない。

 わたしはこの4年間『ブルースカイ』を通して『中の人』の青空聖夜に触れてきた。

 単に実感していなかっただけで、わたしは、ずっと彼の言葉に助けられていたし、時には依存し、その存在に安心させられてきた。


 そう、あの人はずっと、わたしの『推し』だったんだ。


 でも、胸が締め付けられるようなこの不安感や、苦しさはなんなんだろう。自分の気持ちに気づけたのに、なんでこんなに心が辛いんだろう。


 あれだ——駅で見た「あの光景」のせいだ。


 聖夜と親密にしていた黒髪の女性の存在が、私の心に棘を刺している。


 彼がどんな人と親しくても、たとえ恋人がいたとしても、それは彼の自由だ。だって私たちは別に付き合っているわけでもない。プライベートに口出しする理由はなんてない。


 でも聖夜さんは、何があってもわたしを支えてくれるって言ってくれた。


 それは、やっぱりリスナーとして?『ブルースカイ』の使命だから?


 昨日、彼は『中の人』である私を食事に誘ってくれた。話したいことがあるって言ってた。


 何を言おうとしてたんだろう……聞きたい、彼の本音を知りたい。


「ああもう、どうして……どうしてわたしは仕事を選んだのよ!どうしていつも、いつも、こうやって選択を間違えてしまうのよ!」


 トップVtuber『秋空かえで』は、今やその活動に注目が集まる存在だ。事務所から復帰までの間、異性との接触やスキャンダルを避けるように強く言われているのも、今は特に慎重になるべき状況だからと理解している。


 ——でも、胸の奥から湧き上がってくるこの気持ちは。


「『秋空かえで』を守るために……もし、このまま聖夜さんを失うのだとしたら」


 ◇◇◇


 その考えが浮かんだ瞬間、伊藤千秋は冷静でいられなくなっていた。

 彼の優しさ、彼の支えが、これまでも、これからも、自分には必要だと感じていた。


 だからこそ、会って直接話さなければならない。


 ——もう復帰のことなど気にしていられない。彼を失うほうが、今は何倍も怖い。


 千秋は思い切ってスマホを手に取り、聖夜にメッセージを送ることを決めた。


 Chiappy【おはようございます、聖夜さん。お時間があれば、今日の昼間に少しお話ししたいです。】


 送信ボタンを押した瞬間、千秋の心はドキドキと高鳴り、少しの後悔もあったが、それよりも彼にもう一度会いたいという気持ちが勝っていた。聖夜からの返事はすぐに返ってきた。


 1224【え?それは外で?どこか個室でも予約しましょうか?】


 Chiappy【昔からよく知ってる、静かな所があるので。場所は……】



 ◇◇◇



 昼過ぎ、聖夜は港区白金にある自然植物公園を訪れていた。そこは、目黒駅から徒歩10分ほどの場所に位置し、都会の喧騒を忘れさせる静かなオアシスのような場所だった。


 入り口をくぐった瞬間、彼を迎えたのは、都会の中心とは思えないほど豊かな緑と、ひんやりとした木陰の心地よい涼しさだった。まるで別世界に足を踏み入れたかのような感覚が広がる。


 中へと小径を歩いていると、太陽の光は木々の間から柔らかく差し込み、地面に葉の影を映し出している。その光と影のコントラストが幻想的で、聖夜の心を静かに落ち着かせてくれた。


 初めて訪れた聖夜とって、こんな隠れ家的な場所があったことも、千秋がここを知っていたことも、なんだか意外だった。


 数分遅れて、千秋が現れた。彼女は少し緊張した様子でゆっくりと聖夜の方に歩いてきた。その表情から、彼女もまた今日の話に対して何か決意を持っているように見えた。


「お待たせしてすみません、聖夜さん。こんなところまで来てもらってごめんなさい」


「こんなに素敵な場所、知ってたんですね、ここなら声バレも心配いらないですね」


 聖夜は周囲をゆっくりと見渡しながら彼女に話しかけた。


「……私も久しぶりに来ました。ここ、静かで安心できるんですよ。」


「前にも来たことがあったんです?」


「ええ、じつはわたし、この近くの中高一貫の女子校に通ってたんですよ……でもお嬢様学校の厳しい雰囲気がわたしには合わなくて……親に勧められて入っただけで、自分で選んだわけじゃなかったから、正直あまり楽しくはなかったんです。だから——……嫌なことがあるとここに来て、心を落ち着かせていました。ここにいると少しだけ自由を感じられたというか……あ、ごめんなさい、なんかひとりでベラベラと」


 こっちへ、と歩き始めた千秋の後を聖夜がついていくと、池の中にかかった木の桟橋のような場所に出た。


 水面には水草が浮かび、その上を小さな虫たちが飛び交い、時折、水鳥が静かに泳いでいる。池の周囲は少し開けた場所で、聖夜はその静かな景色にしばし目を奪われた。


 千秋は桟橋の真ん中付近で立ち止まり振り返ると、聖夜の方をみつめたり、うつむいたりしながら何かを言おうとしているようだったが、なかなか言葉を発することが出来ないように見えた。


 聖夜としても、自分の気持ちを伝えるチャンスだと思いつつも、彼女が話したいことも気になっており、まずはそれを聞いてから自分の思いを伝えるべきと考え、彼女が話し出すのを待っていた。



 一方で千秋は、聖夜に恋をしているという気持ちを、素直に伝えるべきだと思っているのに、言葉が喉に詰まっていた。何度も自分の想いを言おうとしたが、その度にためらいが生じていた。


 しばらく沈黙が続いた後、ふと千秋が口を開いた。


「昨日の……駅で一緒にいた黒髪の女性、あの方は……誰ですか」


 自分でも驚くほど唐突にその質問をしてしまった千秋は、言葉を発した直後に後悔した。もっと言うべき言葉はたくさん浮かんでいたのになぜこんな選択を……。


 千秋は昨日見たあの光景がどうしても頭から離れず、気持ちとは裏腹にそのことを問いただしてしまったのだった。彼女は心の中で自分を叱責したが、もう後戻りはできない。


 聖夜はその言葉に一瞬驚いたが、それよりも春木優花のことをどのように説明すべきかで悩んでいた。


 春木優花が警察関係者であることや、密かに『あいつ』を追ってることは二人だけの秘密事項だった。発覚すれば処分を免れないリスクを彼女は背負っている。いくら千秋とはいえ、この場で事実を話すことはできない。


「ええっと、彼女は春木優花と言って……高校の同級生なんです。……初恋の人でしたが、今はただの友人です」


「初恋の人……」


 その言葉が千秋の胸に重く響いた。ただの友人だと言われても、昨日の駅前で見た二人の親しげな姿がどうしても心から離れない。自分が彼に対して抱いているこの感情は、ただの不安なのだろうか。それとも、もっと深いものなのか。千秋は混乱していた。


「……わたしがこんなに大変な時に、どうして他の女性と会っていたの……。何があっても、ずっと支えるって、そう言ってくれてたのに」


 千秋は、自分でも信じられないほど、声が震えているのが分かった。感情が抑えきれず、言葉がどんどん溢れてくる。理性では彼を責めるべきではないと分かっているのに、心の中の不安と嫉妬がそれを許さなかった。


 聖夜は千秋の言葉に驚きながらも、焦って答えた。


「違う!千秋さん……俺は、本当にあなたを支えたいと思ってる!昨日のことは誤解しないで。春木さんとは、ただの友人で、昨日はちょっと仕事の件で会ってただけで」


 聖夜はどうにか千秋の誤解を解こうと必死だった。しかし、千秋の心の中で募っている不安と嫉妬は簡単に消え去るものではなかった。彼の言葉を聞いても、すべてが言い訳のように思えてしまう。


「……でも、やっぱり……どうしても……わたしは」


 千秋の目に涙がにじんでいるのが見えた。彼女の心がどれほど揺れているのか、聖夜には痛いほど伝わってきた。しかし、彼がこの場で話せることは限られていた。春木優花が警察関係者であることはやはり言えない。だが、この状況が、彼女に疑念を抱かせてしまっている。


「千秋さん、俺はあなたを守りたいんです。今、できる限りのことをしてるんです。でも、まだ全部は話せません。どうか、俺を信じてほしい……」


 聖夜は苦悩を抱えながらも、精一杯の言葉で千秋に訴えかけた。これでは自分の告白どころではなかった。しかし、千秋の表情からは、その言葉がどれほど届いているのか分からなかった。


「聖夜さん……わたし、彼氏でもないあなたに頼りすぎたよね……彼女でもないのに、怒ってごめんなさい。……今日は帰ります」


 そう言うと千秋は、聖夜を押し除けるように小走りで走りだした。そしてもう自分ではコントロールできないほどに、聖夜に対して強い感情を抱いているこをはっきりと自覚していた。


 そして聖夜も、愛する人を怒らせるという初めての経験に戸惑いしかなく、彼女の想いを察することが出来なかった。


「なんで……俺はいつも、こうなるんだ……」


 桟橋に残され、途方に暮れる聖夜。


 ——二人の関係は今、すれ違いの中で揺れていた。

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