第21話 もうひとつの推し活
二日後、俺はオフィスに呼び出されていた。
現在進行中のプロジェクトのローンチが急遽早まり、どうしても今夜中に完了させることになったからだ。今夜はこの業界でよくあるデスマーチになるだろう。
会社の重いドアを押し開け、フロアの冷たい空気が俺を迎えた。タイムリミットが迫っているにもかかわらず、フロアは静寂に包まれ、暗がりにデスクライトがいくつか灯るだけだった。その雰囲気が、逆にプレッシャーを強めている。
フリーデスクでノートPCを広げ、社内のローカルクラウドに接続する。
デバック中のソースウインドウを開き、俺は絶句した。
「これ、今夜中に終わるのか…」
そうつぶやくと、ふと草壁さんのことが頭に浮かんだ。彼女はどんな熾烈な状況でも冷静にトラブルにも対処し、今のポジションを得た優秀なエンジニアだ。今夜も彼女がいればなんとかなるかもしれない——そう思った矢先、草壁さんの姿が目の前に現れた。
「青空さん、私のパートは終わったから、こっちも手伝うわ。不安でも決して手を止めないでね。私のフォローを信じて。」
彼女の声にはいつもの冷静さがあり、その言葉だけで少し救われた気分になった。草壁さんが隣にいるなら、この苦境もなんとかなるかもしれない。案の定、彼女の的確な指示と迅速な対応で、次々とトラブルが解決していく。コードのエラーも彼女が即座に見つけ出し、指摘してくれた。俺も彼女に続き、ひたすら手を動かす。
「この部分……こう修正すればエラーは出なくなるはずよ」
草壁さんの指示に従い、コードを修正していくと、確かにエラーが解消された。俺は内心驚き、そして改めて彼女の能力の高さに敬意を抱いた。言葉には出さないが、草壁さんがいなければ、ここまで来られなかったことは明白だ。
「本当にすごいな、草壁さん…」
俺は思わず呟いた。彼女はその言葉に少しだけ表情を緩めた。
「ありがとう。でも、青空さんが居るから、チェックに集中出来てるだけよ」
そう微笑んだ。その微笑みはいつもと変わらないように見えたが、どこか違和感を覚えた。今日はなんだか彼女の中で抑え込んでいる感情があるように感じたからだ。
しかし、作業がまだ終わっていない。深く考える余裕もなく、俺たちは残りのタスクに集中した。
そして、ついに深夜0時目前で全てのタスクとチェックを終えローンチを達成した。その瞬間に全身の緊張が一気に解け、俺は大きく息き椅子に深く腰掛けた。
疲労感と達成感が入り混じった感情に浸った。
「本当にお疲れさま、青空さん……さすがね」
草壁さんもまた、満足げな表情を浮かべていたが、その表情にやはり違和感を感じずにはいられなかった。彼女の目は、どこか遠くを見つめているようで、何かを隠しているように見えた。
「草壁さん、大丈夫ですか?なんか今日は様子が違うような」
そう声をかけたが、彼女は軽く頷くだけで答えなかった。
「よし!気分転換に、オフィスで簡単に祝杯でもあげましょうか」
俺はそう言って、外に出ることにした。コンビニまでビールを買いに行く間、草壁さんのことが頭から離れなかった。あの違和感、一体何なんだろう?ただの疲労なのか、それとも彼女が何か問題を抱えているのか。
夜風が心地よく、少しだけ気持ちを落ち着かせながら、ビールを手に戻る途中だった。スマホが震え、Slackの通知が表示された。
草壁香奈【A-8会議室に来てほしい】
草壁さんからの短い社内メッセージだった。なんで会議室に?少し疑問を抱きつつも、彼女の指示には従うことにした。
会議室のドアを開けると、そこには草壁さんが一人で立っていた。彼女は無言のままドアを閉め、鍵をかけた。さらに、自動ブラインドが音もなく下がり、窓からの光を遮断した。
「草壁さん、何が…?」
俺は軽く緊張しながら声をかけた。だが、彼女の目には何か決意のようなものが宿っているのが分かった。そして、彼女はゆっくりと口を開いた。
「青空さん、以前、昼食に行ったカフェで、私があなたに伝えたことを覚えてますか?」
その瞬間、胸が強く締め付けられるような感覚に襲われた。まさか、またあの話をするつもりなのか?
「その…はい、もちろん覚えてます。でも…」
「だったら、私にも教えてほしいの。あなたが私のことをどう思っているのか」
突然の問いに、頭が真っ白になった。どう答えればいいのか分からず、必死で言葉を探した。
「俺は……草壁さんのことは尊敬しています。晴らしい上司で、いつもフォローしてもらって感謝しています。でも…その、異性として見るような気持ちは…今までなかったから、正直あの話にも驚いたっていうのが本音です」
自分でもあまりにも不器用な言い方だと思ったが、それが精一杯だった。彼女の目が少しだけ曇り、苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、私は女性として魅力がないってことだね……」
「いや、いや、そんなことはありませんよ!あなたは本当に美しくて、魅力的です。それは僕だけじゃなく、周りの人もそう思っているはずです」
俺は焦って言い直した。草壁さんはその言葉を受けて、一歩俺に近づいた。
「だったら…私を、今からでもいいから、ちゃんと一人の女性として見てほしい!」
その真剣な目に、俺は戸惑った。彼女の気持ちが心に重くのしかかる。どう答えればいいのか、本当に分からない。だが、頭の中には伊藤千秋の顔が浮かんでいた。
——しかし俺は、伊藤千秋に自分の気持ちを告白したわけじゃない、それどころか食事に誘ったことすらない。二人で過ごしたあの夜の出来事も、偶然の結果であって、二人の間に恋愛感情があるかすらわからない。
よく考えろ俺、伊藤千秋にとって俺は、『秋空かえで』のヘビーリスナー『ブルースカイ』でしかないんだ。それは所詮、ヴァーチャル恋愛じゃないのか?キャバクラ嬢に本気になるくらい、ダサい発想じゃないのか?
今目の前にいる草壁さんのリアルで真っ直ぐな気持ちに対峙すると、自分の気持ちが一層分からなくなってくる。
俺の中の伊藤千秋への愛は、所詮が『推し活』の延長だ。世間からみれば現実逃避したバカな男かもしれない。この葛藤を見た誰もが、俺を嘲笑うかもしれない。
——でも『推し』を死ぬ気で応援して何が悪いんだ……俺は『推し』に救われた。その気持ちに恥じることなんて何もない。
そう、俺は自らの意思で『推し活』に魂を燃やしていたんだ。
「草壁さん……俺には、人生をかけて『推し』てる人がいます」
俺は、意を決して告白した。
「到底、理解されないかもしれないけど、その人を『推す』ことで俺は救われてきたんです、変われたんです……その気持ちに嘘はない」
「それが、私じゃダメな理由なの?」
「いやだから、僕はあなたに相応しくない……世間的に見れば気持ち悪い男ですよ」
それを聞いても草壁さんは冷静だった、驚きもせずじっと俺を見つめていた。
そして——静かに、上着のボタンを外し始めた。
「えっ、ちょっと待って!何を……」
俺はパニックに陥り、それ以上言葉が出てこなかった。
草壁さんは落ち着いた表情のまま、シャツをはだけた。
白い肌に映えるピンク色の下着が見え、華奢な体のわりには胸が大きかった。
それよりも気になったのが、その脇腹にある、赤く痛々しい火傷の跡だ。
「これは、私が、誰にも見せたくない傷……」
そう言うと彼女は、その凛々しい目に涙を浮かべながら話を続けた。
「私は美しくなんかない。醜い過去で汚れた女なの。でも、あなたに出会ってから、私は変わろうと思った。ずっと努力してきた……あなたに気づいてもらうために」
その言葉に、俺は強く心を揺さぶられた。自分と同じだったから。
彼女にとって、俺という存在が『秋空かえで』であり伊藤千秋なのかもしれないと感じた。
しかしその瞬間に自分の中で伊藤千秋という存在が、とてつもなく大きくなっていることを確信した。
「草壁さん、とりあえず服を着てください……」
そう言って俺は、彼女に背を向け、服を着てくれるのを待った。
すると草壁香奈は後から俺に抱きついてきた。その手が震えているのが伝わり、俺の心が締め付けられた。彼女がどれほどの勇気を振り絞ってこの場にいるのか、痛いほど理解できるからだ。
「それなら……私にとって、青空聖夜が『推し』だよ。わたしもずっと『推し活』中だよ」
「草壁さん……」
「私は!まだ……過去を引きずるダメな女なの……。でも、変わろうって。まだ変われるって努力してきた。あなたが居てくれたから……」
自分を好きだと『推し』だと告げる相手の気持ちに応えることが出来ない。
それが、こんなに苦しく、辛いことだなんて……俺は今まで、想像すらしたことがなかった。
「ごめん……草壁さん……」
「わかった、もう……私を選んではくれないんだね」
草壁香奈の温もりが、ゆっくりと俺の背中から離れていく。まるで彼女の寂しさ、悲しみが直接、俺の心に伝わってくるようだった。
「私……帰るね」
震える声を抑え、精一杯気丈に発したその言葉越しに、彼女の心が砕ける音を聞いたような気がした。何か言うべきだと思ったが、言葉が出てこない。
俺は結局、何もできずに立ち尽くすしかなかった。振り返ることすら出来ず、彼女がドアを閉めて出て行くまで、ずっとその場に立ち尽くしていた。
この時、俺は、あの夜ベランダで命を落とそうとしていた、伊藤千秋の心理を、はじめて理解できたのかもしれない。
そして、彼女に抱く自分の本当の気持ちも。
------------------------あとがき--------------------------------
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