第30話 最後の配信
千秋は静かに椅子に腰かけ、目の前に座る近藤修をじっと見つめていた。
彼女が何度も足を運んだフォローズの会議室。今日ここが、秋空かえでとして、最後の場所になる。そう覚悟を決めていた。
「本当に、それで良いんだな、後悔はないか?」
近藤は淡々とした口調で問いかける。その目には揺らぎがない。彼は、千秋が何を選択するかを見極めようとしているのだろう。
千秋は目をそらすことなく、深く息を吸い込んで答えた。
「はい、わたしは本日をもって、秋空かえでを……辞めます。」
言いながら、胸の奥にずっと抱えていた重たい何かが、すっと解けていくような感覚があった。長い間悩み続けた決断だった。それを思い返すと、肩の力が自然と抜けていく。
「いままで、ありがとうございました……」
千秋は静かに立ち上がり、深々と頭を下げた。部屋には彼女の辞意を見守るスタッフたちが数名いた。その顔に複雑な表情が浮かんでいるのが、背中越しでも感じられた。
だが、ドアに手をかけたその瞬間、近藤の声が響いた。
「待ちなさい。今日というのは、承服できかねる」
千秋は驚いて振り返る。近藤は、冷静に彼女を見つめながら、言葉を続けた。
「辞めるのは、11月1日にしなさい。」
その言葉に、千秋は戸惑いを隠せない。
「でも、わたしはもう決心したんです……。いまさら後戻りは……!」
声が震えた。決断は揺るがないはずだったのに、近藤の言葉は、まるで彼女の意思を超えて、何か大きなものを揺さぶっているようだった。
「そうではない。その日は、君の復帰日であり、卒業の日だ。」
千秋は思わず息を飲んだ。卒業の日?規約違反をした自分に、そんな選択肢があるとは思っていなかった。
「え……わたしは規約違反で引退させられるのではないのですか?」
「規約違反?そんなものは存在しない。『あいつ』の事件はもう、フォローズには存在していない。私は、君がどう生きるのかを確かめたかっただけだ」
その言葉を聞いた瞬間、千秋の中でずっと抱えていた恐れや不安が、一瞬にして崩れ落ちた。
「近藤会長……」
「君は、リスナーたちに、『秋空かえで』がどう生きたかを伝えなさい。それが最後の仕事だ」
千秋は、近藤の顔をじっと見つめた。自分がもう一度、秋空かえでとして、リスナーたちと向き合う機会を与えられるということが信じられなかった。
「いいんですか……わたしが、もう一度、秋空かえでになっても……?」
近藤は軽く頷く。しかしその目には、厳しさが宿っていた。
「だが言っておく。私は今まで多くのアイドルの卒業を見てきたが、好意的な意見ばかりではない。怒り、抗議する者や、心無い意見も出てくるかもしれん。君はそれを受け止める覚悟はあるのか?」
千秋はしばし考えた後、強く頷いた。
「はい、すべてはわたしのやってきたことの結果ですから」
「そうか……ならば、しっかりと卒業しなさい。秋空かえで。」
◇◇◇ ◇◇◇
「秋空かえで、11月1日復帰&卒業配信!」と大々的に告知が出されたのは、配信の3日前だった。
そのニュースは瞬く間にSNSを駆け巡り、ファンの間で大きな話題となった。
「秋空かえで、卒業?なんで?」 「また何かあったの?」 「復帰って言ってるけど、どういうこと?」
ネット上では、様々な憶測やデマが飛び交い、原因についての議論が熱を帯びていった。しかしその一方で、多くのファン、リスナーたちは過剰に反応せず、ただ静かに彼女の復帰を待ち望んでいた。
そして迎えた11月1日。時計の針が夜9時を指すと同時に、配信が始まった。画面には、長らく姿を見せなかった秋空かえでが映し出される。
待ちわびていたリスナーたちは、コメント欄で一斉に彼女を迎えた。画面は次々と流れるコメントで埋め尽くされ、彼女の名前や「おかえり!」というコメントが何度も連呼さた。
特に注目を集めたのは、初期のリスナーたちで構成された「円卓の騎士」12名が全員揃ったことだ。それは秋空かえでの配信にとって、特別な瞬間だった。もちろんその中には最強リスナー『ブルースカイ』もいる。
「秋空かえで」の卒業配信がスタートしてから、彼女は一人ひとりのリスナーたちとの思い出を振り返りながら、配信を進めていた。
「みんな、覚えてるかな?初めてのゲーム実況の時……私、操作が全然うまくいかなくて、同じところで30分ずっとジャンプしてたよね」
コメント欄には
【覚えてるよ!】
【あれはめっちゃ笑った!】
【あれで推しになった】
という声があふれた。それを見て、秋空かえでは微笑んだ。初期のころの苦労や失敗も、今となっては全て大切な思い出になっている。
「それから、あの歌配信……覚えてる?みんながリクエストしてくれた曲を一緒に歌った時……」
画面にはリスナーからのコメントがどんどん流れていく。思い出を語る彼女に、ファンたちは心から共感し、過去の配信を懐かしんでいる。
【ヘタウマな歌も、大好きだったよ!】
【かえでちゃんも下手だから自分も頑張れた!】
【完璧じゃないのが逆に好きになった!】
【一生懸命だから、私も頑張ろうって思ったよ】
その瞬間、秋空かえでは少し声を詰まらせた。こんなにも多くの人たちが、自分を支えてきてくれた。このリスナーたちと「秋空かえで」は一緒に成長してきたんだ。
彼女の心には、リスナーたちへの感謝と愛が溢れていた。
「ここまで来れたのは、みんなのおかげです……ほんとに、ありがとう。みんながいたから、秋空かえでとして生きることができたよ」
彼女は涙で歪む画面から、コメントをひとつひとつ目で追っていった。リスナーたちとの絆が、今、画面越しに感じられた。
【いっしょう『推し』だからね】
【ずっと応援してるよ!】
【卒業しても、君が大好きだよ!】
【かえでちゃん、生まれてくれてありがとう!】
そして配信が終わる時間が迫ってくる。
秋空かえでは感極まり、涙声で語り始める。
「どうして、みんな……そんなに優しいの?勝手にやめてしまうわたしを、もっと責めてもいいのに……。どうして、こんなに温かいの?」
そんな彼女の声に、一人のリスナーが答えた。
【私たちは、『推し』の鏡なんですよ】
その一言が、画面を通じて広がり、他のリスナーたちも次々と賛同の声を上げた。
その言葉に、秋空かえでは胸がいっぱいになり、涙を拭いながら微笑んだ。
「みんな……本当にありがとう。秋空かえでは、今日、卒業します。でも、ずっと心の中に……みんなの中に、私は生き続けます」
【ありがとう、秋空かえで】
画面の向こうで、多くのリスナーたちが温かく見守る中、配信は感動と共に静かに幕を下ろしていった。
千秋は、その光景を見つめながら、静かにあの日の近藤の言葉を思い出していた。
『君がどう生きたか、そして、どう生きるかだ』
「みんな、ありがとう……わたしは、こう生きたよ」
配信終了と表示された画面の奥から、リスナーたちの温かい拍手が、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
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