第31話 重なる想い
配信が終わった翌日、俺は伊藤千秋を待っていた。
待ち合わせ場所には、あえて昭和なレトロが色濃く残る、少し寂れた公園を選んだ。錆びついたブランコや、ひび割れたコンクリートの地面が広がり、かつて水が流れていたであろう小さな橋がかかる水路は随分前から水が抜かれて枯れたままだ。
公園の中央にある金属性のポールのてっぺんには時計があって動いてはいるが、この場所の時間は止まっているように見えた。
俺が座るベンチの前方には誰が置いたのか、しがら焼きのたぬきの置物が立っている。なんとも言えないマヌケな表情が愛くるしい……これ、店の玄関とかでたまに見かけるけど、何か意味があるんだろうか。
ほとんど誰もいない、忘れられたこの場所が、俺ににはなぜか心地よかった。ここにある何もかもが、どこか懐かしくて、何も気負わずにいられるからだ。
秋空かえでの最終配信から一夜明けたけど、あの感動はまだ俺の胸に強く残っている。
実を言うと、配信中ずっと泣いていたのでコメントなんかは、ほとんど見えてなかった。
彼女が語るひとつひとつの思い出が、俺の心を震わせて、もう感情が抑えられなかった。
俺が、俺たちが「秋空かえで」と過ごした時間が、どれだけ貴重で大切なものだったか……それをはっきりと自覚できた。
そんなことを思い返していると、待ち合わせの時間になり、伊藤千秋が現れた。
彼女は少し緊張した面持ちで、公園の入り口からゆっくりと歩いてくる。『推し』の配信時とは全く違う姿——リアルな女性。それが今、俺の目の前にいる伊藤千秋だ。
「待たせちゃった?」
彼女は少し照れくさそうに笑った。それを見た瞬間、俺は息を呑んだ。今ここにいる彼女は、もう「秋空かえで」の『中の人』ではなく、伊藤千秋なのだ。
けれど、俺の胸の中に湧き上がる感情は、今も何も変わらない。
「いや、大丈夫。俺も今来たところだよ」
そう言って彼女を迎えたが、実際にはかなり前から待っていた。千秋は俺の隣に腰を下ろす。しばらく沈黙が続いたが、俺は思い切って口を開いた。
「昨日の配信、すごかったよ。正直、ずっと泣いてて……ほとんどコメントも見えなかったんだ。こんなに感動したのは生まれて初めてだったよ」
俺は心からの言葉を千秋に伝えた。自分でも驚くほど正直に、感情が溢れてしまっていた。
「そっか……ありがとう。でも、もう『秋空かえで』
はいないから……ね」
千秋の言葉には、どこか寂しさと戸惑いが滲んでいた。それは分かる、彼女は「秋空かえで」として、リスナーたちに推され、愛されてきたけれど、今日からは伊藤千秋としてだけ、生きることになる。そのギャップは、彼女自身にとって大きな不安になっているのかもしれない。
「聖夜さん、あの、実は……」
千秋がぽつりとつぶやく。
「ん?……なに?」
千秋は、じっと自分の膝に視線を落としたまま、小さな声で呟き始めた。
「わたしね、『秋空かえで』の時、ずっと心の中で『中の人』の自分を比べてたの。彼女はあんなに多くの人達に愛されてたのに、実際の私は……全然ダメだから……。うまく人とも話せないコミュ障で、ドジで……、きっと、聖夜さんの理想も壊しちゃったんじゃないかって不安で……」
そんなわけないでしょ!って俺は反論しようと思ったが、千秋の話が続きそうなので最後まで聴くことにした。
「聖夜さん……あのね、ずっと気にしてたことがあるの。ベランダで助けてくれた夜も、その後も、聖夜さん、私と会うのを避けてたでしょ?」
彼女の声には、隠しきれない不安が滲んでいた。俺はその言葉に一瞬動揺した。
確かに、千秋と初めて会った頃、俺は恋愛恐怖症のせいで、彼女と直接向き合うのを避けていた。だけど、彼女がそれを気にしていたなんて、俺は全然気づかなかった。
「その時から、ずっと不安だったんだ……『推し』の『秋空かえで』とイメージが違ってて、幻滅させたんじゃないかって」
千秋は、視線をそらしたまま言葉を続ける。
「……もしかして、わたしが『秋空かえで』だから優しくしてくれてるだけなんじゃないかって……」
彼女の声は震えていた。まるで、自分の存在そのものを否定しているように感じられた。俺の心に、強い痛みが走った。千秋がそんな風に自分を責めていたなんて想像すらしてなかった。
「怖かった……あなたにとって、自分が、ただの伊藤千秋になるのが、ずっと……怖かったの」
その瞬間、俺の心が震えた。千秋の不安と葛藤が、痛いほど伝わってきた。彼女も悩んでいたんだ。
俺は、少しだけ間を置いて、言葉を選びながらゆっくりと口を開いた。
「千秋……さん、もう正直に言うよ」
彼女の目は、今から最悪の答えを受け入れるかのように不安に満ちていた。俺は、彼女の目を真っ直ぐ見つめながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「俺が君と会うのを避けていたのは、実は……俺、ずっと恋愛恐怖症で、気になる女性と話すと激しい腹痛を起こしてたんだ……恥ずかしいから言えなかったけど」
俺の言葉に、千秋が驚いたように顔を上げた。
「じゃあ……初めて会ったあの夜、私から逃げたのは……」
彼女の目にはまだ少し不安の色が浮かんでいる。それも当然だろう。俺は一瞬苦笑して、頬を掻きながら言った。
「……あの時も、めっちゃ腹が痛くなったんだよ」
「え?お腹が痛かった……の?」
「でもね!画面越しとかで話すのは全然大丈夫なんだ!だけど顔見て直接話すとか、気持ちを伝えるとかしようもんなら……そりゃもうとんでもない激痛でさ」
千秋は目をパチパチさせてる。もう……なにこの可愛い生き物。
「インターフォンで呼んでも、出てこなかった……あれも?」
「うん。直接顔合わせると腹痛になるからね……」
「……そうなんだ、でも……お腹が痛いって…」
千秋は目を丸くしながら、少し笑いを堪えている。何かがやっと理解できたような表情を浮かべた。
「でも君とちゃんと話したかったから、あの後カウンセリングに通って、最近やっと克服出来たんだ。」
「じゃあ……最初に会った時、わたしのこと嫌いじゃなかったんだ」
俺は、小さく笑いながら頷いた。
「雷が落ちたみたいだったよ」
「え?それってどういう……」
「はっきり言いますと……ひと目惚れでした。声以外も、ぜんぶ。」
「え!……ちょっと、え、そんな!わ、わたし、てっきり、見た目で幻滅されたのかと」
千秋は顔を赤くしてきょどりはじめた、どう反応すればいいのか分からず、照れくさそうに視線を泳がせている。その姿に、俺も少し笑ってしまった。
「ほんとだよ。だから……君が『秋空かえで』だと知った時は驚いたけど、あの瞬間から、俺の『推し』は伊藤千秋になってたんだ」
「でも……」
千秋は少し黙り込み、再び不安そうな顔をした。その瞬間、俺は目線の先にある、たぬきの置物を指差して言った。
「もし君が、あの奇妙なたぬきの『中の人』だったとしても、俺は君を『推す』自信がある!」
「聖夜さん…」
「俺は、35年間……恋人がいたこともないダサい男だけど……こんな俺で良ければ……君を、一生『推し』続けたい」
俺は真剣に、そして少し照れくさそうにそう言った。千秋は俺の言葉を聞いて、しばらくの間、何も言わなかった。だけど、その目には少しずつ涙が溢れてきた。
「わたしね、これが……初めての恋なの」
「え?……うそ」
そして、彼女は顔を手で覆いながら、震える声で呟いた。
「……ずっと悩んでた。わたしはリアルな人を一生、誰も好きになれないんじゃないかって。でも……あなたに出会うためだったんだね」
彼女の肩が震え、涙がこぼれ落ちた。俺は、そんな千秋の手をそっと取り、ぎゅっと握った。
「俺は……君のことが好きです」
その言葉に、千秋は顔を上げ、目を真っ赤にしながら微笑んだ。
「うん……聖夜さん」
俺たちの間に、ようやく穏やかな笑顔が広がった。
そして千秋は、俺の目を見つめた後、ゆっくりと目を閉じた——。
しがら焼きのたぬきが、おっとりした目で、重なる二人を見つめていた。
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