第12話 忘却の告白

「どうしたの?——青空くん大丈夫?」


 春木優花の声が耳に届いた瞬間、腹部に鋭い痛みが走った。そしてその声がだんだんと遠のいていく——あの感覚だ。俺の体が、記憶の深層に刻み込まれたあのトラウマに反応している。


(くる……腹痛が……!)


 俺はすぐにカウンセラーの言葉を思い出し、必死にセルフ・マインドコントロールを試みた。


 俺はこの場に無策で挑んだわけじゃない。この1週間、何度もカウンセリングに通い、症状を抑え込む訓練を積んできた。その方法は、まず守りたいもの、大切な人の声や言葉、姿を思い浮かべることだった。


 今の俺にとってそれは——4年間推し続けた『秋空かえで』だ。彼女の努力し続ける姿、明るい声が、俺を励まし前に進む力を与えてくれていると想像すること。


(大丈夫……俺は乗り越えられる。守りたい人がいるんだ、負けてたまるか)


 それでも完全には痛みが消えず、冷や汗が背中を伝っていく。


「聖夜、最近仕事大変だったんだってな!貧血じゃねーのか?」


 隣に座る小久保浩司が、そんな俺の様子に気付いたのか、そっと肩に腕をまわしてきた。そして俺の耳元で小声で話しかけてきた。


「聖夜、深呼吸だ。ゆっくり息を吸って、吐いてみろ。」


 その言葉に従い、俺はゆっくりと深呼吸を繰り返した。次第に、腹の痛みが少しずつ和らいでいくのを感じる。浩司のサポートのおかげで、なんとか発作を抑え込むことができた。


(やった……俺はやれる)


 自分に言い聞かせるように、そっと息を整える。そして、ようやく春木優花に向き直ることができた。


「……ああ、久しぶりだね、春木さん」


 なんとか声を振り絞る。さっきまでの痛みが嘘のように消えていくのを感じながら、少しずつ落ち着きを取り戻していく。


「……元気だった?」


 彼女の問いに、俺は頷いた。


「まあ、なんとかね。春木さんは?」


「私?うん、まあね。忙しいけど……でも充実してるかな」


 ぎこちない会話が続く。それでも、腹痛に打ち勝っているという実感が、少しずつ俺に自信を与えてくれているのがわかった。


「ねえ、覚えてる?あの日のこと」


 突然、彼女が切り出した。彼女の目には、何かを確かめるような光が宿っている。すぐに心臓が跳ね上がる。わかっている、あの日。俺が漫画にラブレターを挟んで渡して、その後にあの事件が起きた最悪の日のことだ。


「あ、……あれは、俺の黒歴史だね。若さって怖いね、あはは」


「そうかぁ、黒歴史……なんだ」


 彼女の声が少し震えている。その震えを感じ取りながら、俺の中に埋もれていた記憶が一気に蘇る。


「こいつまだ厨二病だから、こういう言い方してるけど悪気は無いんだよ!」


 空気のマズさを察した浩司がすかさずフォローする。たしかに黒歴史は無いだろう。ラブコメの主人公なら、絶対こんな失礼な対応しないはずだ。こういうところがダメなんだよな、俺は。


「いいのよ、青空くんは……漫画好きだったもんね。私も今でも漫画好きだよ」


「そ、そうだね、あの日もヒーローキングの神巻に手紙なんか入れて……春木さんには恥ずかしい思いさせちゃったよね、ごめんね」


「え?……どういうこと」


「どういうことって……覚えてないの?」


「ねえ、ずっと気になってたことがあるんだけど」


「え……?」


「私……あの時、本当に驚いて……でも、どうしたらいいかわからなくて、黙ってたんだけど……」


 彼女が何かを言いかけた時、隣の浩司がビールの入ったグラスを俺の前に置いた。


「まあまあ、込み入った話はさ!飲んでからでいいじゃん、これじゃ会議室みたいだぞ、ワーカーホリックかよ」


 浩司はそう言うと、俺の背中をバンと叩き、ケラケラと笑った。まあ、たしかに、時間はあるわけだから、酒が入って気分が大きくなってから話したほうがいいかもしれない。


 そして参加者全員の席にビールが行き渡ったところで、幹事らしき男が面白くもない長い挨拶を始めた。なんか見たことある顔だったが名前までは思い出せない。とはいえ俺も大人だ、うんうんと頷きながら、さもわかった様な笑顔で乾杯の音頭に付きあった。


 それからは、同級生たちが席を自由に移動しながら、思い思いの会話を楽しむ時間が続いた。元々美人で、皆に好かれていた春木優花は、誰かしらに話しかけられていて、その後、まともに彼女と話す機会は訪れなかった。


「青空くん、ごめんね、話、途中だったのに——」


 俺としては、例の事件についてしっかり話せたわけではなく、どこか消化不良な感覚が残っていたものの、あの症状をギリギリ抑え込めたことは、大きな進展だ。春木優花が今でも魅力的な女性であることを確認できたのも、嬉しかった。そして何より、彼女と顔を合わせ話せたことが良かった。


(まあ、多くを求めるのは贅沢だ。これでも俺にとっては大きな一歩だ)


 その後俺も、いくつかの会話に加わった。何人かの同級生の顔や名前、当時の記憶が意外と鮮明に蘇った。もちろん、会話の相手はみんな男だったけれど、消し去りたかった俺の過去は、思っていたほど悪いものではなかったのかもしれない。少し救われたような気がした。


 それは、まるで見慣れた風景の中に、知らず知らずに新しい風が吹き込んでいたことに気づいたような、そんな感覚だった。


 同窓会が終わりに近づくと、参加者たちはそれぞれの席に戻り、最後の挨拶を交わしていた。


 俺もそろそろ帰ろうかと思い、荷物をまとめ始めた。その時、ふとトイレに行っておこうと思い立ち、静かに席を立った。


 この店のトイレは、店の外のビルの廊下にあって意外と静かで、パーティーの喧騒が嘘のように感じられた。用を済ませて廊下に出ると、そこには春木優花が立っていた。


「青空くん、少し話せる?」


 驚いた。彼女がここにいるなんて思ってもみなかったし、ましてや俺に声をかけてくるなんて。心臓がまた早鐘を打つように鳴り始めるのを感じながらも、なんとか冷静を装って返事をした。


「ああ、もちろん。どうしたの?」


「ここじゃ話しづらいから、ちょっと外に出よう?」


 彼女の瞳は真剣だった。俺は頷き、店とは反対に廊下を少し歩くと、そこは大きなベランダのようになっていて、夜の赤坂の街が見渡せた。そして幸い誰も居ない様だった。


「ここなら大丈夫かな……」


 彼女はそう言って、小さく息をついた。そして、俺の目をしっかりと見つめながら話し始めた。


「青空くん、今日は話せてよかった。ずっと、あの日から、あなたが話しかけてくれるのを待っていたの。」


 その言葉に、胸の奥がじんと熱くなった。俺の口からは、すぐには言葉が出てこなかった。ただ、彼女の瞳に込められた真剣さに圧倒されていた。


「俺も、あの日のことをずっと気にしていたんだ。だから、今日こうして話せて、本当に良かったと思ってる。」


「私もね……あの時、青空くんのことが好きだったよ。」


「え……」


 その告白に、俺の心臓が一瞬止まったような気がした。過去形なのは当然として、彼女が、あの春木優花が、俺のことを好きだったなんて。ずっと抱えていた後悔と苦しみが、一瞬で霧散していくようだった。てことは、告白が成功してたら付き合ってた?俺の人生まったく別物になってたってことかよ……。


「ずっと言おうと思ってた。でも、機会がなくて……ごめんね、あんなことになって」


「いや、俺こそ……ごめん、無視するみたいになっちゃって」


 沈黙が続いた。しかし、その沈黙は先ほどまでの重苦しいものではなく、どこか救いがあるように感じられた。


「あの、青空くん、今度もう一度会えないかな?」


「え?」


「今日、会ったことでね、もう一つだけ、あなたに伝えなきゃいけないことができたの。でもね、それを言うには、私にも考えを整理する時間が必要だから……もう一度会って話したいと思って。」


「もちろん……大丈夫だよ、会おう。」


 そう言うと彼女は微笑んで、スマートフォンを取り出した。「それじゃあ、SNSのアドレスを交換しよう。連絡取り合えるように。」


 俺たちはアドレスを交換し、彼女は少し戸惑ったようにしながらも、再び口を開いた。


「本当にありがとう、青空くん。今日は会えて本当によかった。次に会うとき、ちゃんと話すから。」


「うん、俺も、待ってるよ。」


 そう言って、彼女は軽く頭を下げてから、少し足早に去っていった。その背中を見送りながら、俺はその場にしばらく立ち尽くしていた。


 彼女がこの後で俺に、何を伝えたいのかは、さっぱり分からないが、その夜は、まるで夢を見ているような感覚だった。


 あのトラウマをついに、克服出来たのだから。


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