第13話 押せるときに押せ
帰りの電車の中、俺の胸は高鳴っていた。
(春木優花も……俺のことが好きだった)
信じられない気持ちと共に、ずっと感じていた苦しみや後悔が少しずつ薄らいでいくのを感じる。
まるで長い夢から目覚めたような感覚だ。高校時代、彼女にラブレターを渡そうとして失敗したあの日から、ずっと胸に抱えていたトラウマ。それが今日、思いもよらない形で解放された。
電車が揺れる中、俺はふと窓の外を見る。暗い夜の風景が流れていく。スマホを見ている会社員の女性。酔ってネクタイを腕に巻いて寝ているおじさん。そんな他愛もない風景すら平和に思える。これまでの人生で、こんなにも心が軽くなった瞬間はあっただろうか。
(それにしても春木さん、もう一度会って何を伝えたいんだろうか?)
それを考えると一瞬、胸が苦しくなる。彼女の誘いを聞いたとき、俺は確かに嬉しかった。でも、同時に自分に問いかける声が聞こえた。
(秋空かえでを守るために、伊藤千秋のために行動したんじゃなかったのか?)
秋空かえでの明るさ、努力し続ける姿、ファンへの愛情。それが俺を今まで支えてくれていた。そして、彼女の『中の人』である伊藤千秋が、俺の隣人だと知ったとき、俺の心は彼女に対する想いでいっぱいになった。
だからこそ、恋愛恐怖症を本気で克服しようと思った。
でもこれは——恋愛感情なのだろうか。
推しと恋愛の違いって何なんだろう。
まだはっきりと自分でも分からない。だけど、少なくとも彼女が、俺にとって特別な存在だということだけは間違いない事実だ。
(でも、俺は『中の人』伊藤さんをどうしたいんだ?彼女とどうなりたいんだ?そもそもありえる関係なのか?)
俺の胸の中で葛藤が渦巻く。恋愛経験がない俺にとって、恋愛とはどういうものなのか、それすらもはっきりと理解できていない。
だからこそ、これからどう行動すべきと選択すること自体が、恐ろしく感じられる。
(そもそも伊藤千秋さんは『秋空かえで』を
そんな不安が頭をよぎる。行動ができるようになったことで、現実の『選択肢』がリアルに迫ってきている。そして、それがもたらす結果を受け入れるのが怖い。逃げたくなる。
電車が最寄り駅に着き、俺は重い足取りで家路をたどった。そして伊藤千秋の家のドアの前で立ち止まると、インターフォンを見つめたまま身体が固まってしまった。
「くっそ情けない……あのトラウマを克服したとて、俺の中身は何も変わっちゃいない」
何度か試みたが、結局、伊藤さんのインターフォンを押せないまま、俺は自室に戻った。
家に着いても、心の中のもやもやは消えなかった。俺はソファに深く腰を落とし、考え込んだ。
(秋空かえでにとっての俺は『最強のリスナー・ブルースカイ』……だけど伊藤千秋にとっては『ただの隣人』……逆の立場なら『面倒で厄介な隣人』……になるよなぁやっぱり)
その時、スマホの通知音が鳴った。春木優花からSNSメッセージが届いたようだ。
俺はスマホを手に取り、彼女とのSNSメッセージ画面を開いた。
U-KA【今日はありがとう!本当に会えて嬉しかったし、色々話せてよかった。なにより青空くんが素敵な大人になっててホッとした。】
1224【こちらこそ!会えて良かった。色々と悩みが晴れたし感謝しかないよ。ありがとう!】
U-KA【こちらこそ!あ、そう言えば青空くんて勤め先はどの辺なの?】
1224【あー会社があるのは六本木だよ】
U-KA【そっか、じゃあ明後日の夜に六本木で会えないかな?】
おっと、俺はリモートワークで自宅は恵比寿なんだけど、ここで説明するのもなぁ。こないだのことを草壁さんにも謝りたいし、久々に会社に顔を出すかな。
1224【いいよ、じゃあ19:00くらいで大丈夫そう?】
U-KA【19:00だね大丈夫!じゃあ場所は任せるね】
春木優花……次に会う約束を取り付けたが、そういえば彼女って独身なのかな?どんな仕事をしてる?
まあ、それは会った時に聞けばいいか。別に俺にやましい気持ちはないのだから(たぶん)。
彼女は初恋の人で、とても美人ではあるけど、不思議と変な期待は湧かないんだよな……なんか他に目的があるようにも感じるし。
するとスマホの時計が21:00を表示した。
この時間になると「秋空かえで」の声が無性に聴きたくなる病は相変わらずなようだ。
俺には『中の人』伊藤さんにコンタクトできる方法が二つある。
ひとつは隣のインターフォンを押す。
もうひとつは、ゲームフレンドの「ちぃポリ」ことchiaki110にゲームチャットで話しかける。
俺は今、彼女に何か言葉をかけたくなった。だが、何を言えばいいのか分からないまま、しばらく画面を見つめていた。
プロのVtuberならば、リスナーと直接コンタクトするのは御法度だ。でも俺は単なる隣人でもあるわけで、隣人として会ったり、ゲームフレンドとして話したりするのは規約的にどうなんだろう?全然問題ないよな?だって知らなかったんだからさ。
(もしかしたら、彼女も今、俺と同じように悩んでる可能性はあるのかな……)
そんな考えが浮かんだ瞬間、心の中に一筋の光が差し込んだ気がした。
自分だけが悩んでいるわけじゃなくて、彼女もまた、何かに葛藤しているかもしれない。都合の良い考え方かもしれないけど、プラスに考えてなにが悪い!恋愛ってそういうもんだろ(経験無いけど)。
(やっぱり俺から行動すべきだ、待ってたら何も始まらない!)
この選択と行動が、どれほど重要で、どれほど大きな影響を及ぼすのかは、今の俺には正直分からない。それでも、このまま逃げ続けることだけはしたくなかった。
(やらずに後悔するなら、やって後悔しろ——)
俺は、立ち上がり廊下に出た。そして伊藤さんのドアの前に立ち、意を決してインターフォンを押した。
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