第1話 奇跡か絶望か

 ——ああ、もう死のうかな。


 21時……この時間になると自然と涙腺に涙が浮かび、虚無感と孤独感に押しつぶされそうになる。



 俺の名前は青空聖夜あおぞらせいや 35歳、都内の大手ソフトウェア会社で働くITエンジニアだが、毎日家で仕事をしている。なぜなら4年前のパンデミック以降、継続してリモートワークを申請し続けているからだ。


 家に閉じ籠るこの生活は俺の性に合っていた——その理由は『恋愛恐怖症』


 その原因は、高校生の時のあの出来事だ。隣の席で自分に優しくしてくれるマドンナ的な女子がいた。話をすると趣味が合い、お互いの好きな漫画を貸し借りする仲だった。やがて俺は彼女を好きになり、漫画にラブレターを挟んで渡した。


 次の日、教室に入ると、その手紙が壁に貼られていた。みんなに笑われ、彼女も俺に話しかけなくなった。


 ——それ以来、俺は女性と会話するだけでも腹痛を感じるようになった。特に優しくされたり、興味を持たれたりすると、その症状は激しくなる。仮に自分好みの女性だった場合など、目を合わすだけでも腹に激痛が走る。


 当然、恋愛から遠ざかり続け、親からも結婚どころか彼女ができないのかとチクチク言われ、35歳アラフォーになった今、そのプレッシャーがさらに自分を追い詰めていた。


 ちなみに聖夜という名前は12月24日生まれだからだ、笑えない。


 そんな俺の、唯一の心の支えだったのがVtuberアイドル『秋空かえで』だった。


 彼女を知ったのは、ちょうど4年前、リモートワークで家に引きこもっていた時に、彼女の初回ライブ配信を偶然視聴したのがきっかけだった。彼女は3Dモデルで作られた架空のキャラクターだが『中の人』の声や実際の動きに同期して正確に反映する。その体型も『中の人』とほぼ同じに作られた最新モデルで、まるで生きていると錯覚するほどに感情表現がリアルだった。


 それからの俺は、彼女の配信を4年間かかさず視聴し続けてきた。俺を含む初回に参加していた12人は円卓の騎士と呼ばれ敬わていた。俺のリスナーネーム『ブルースカイ』はガチリスナーはもちろん、『秋空かえで』本人も把握していて、彼女とはメッセージチャットを通じて、かなり会話をしてきたが、不思議なことに『恋愛恐怖症』は一度も発症しなかった。


 つまり彼女こそは、おれが唯一、ガチ恋しながら自然に話せる女性だったのだ。

 その優しくて明るい話し声と、屈託のない笑顔だけが、俺の救いであり癒しだったのだ。

 俺は、リスナーたちと時々情緒不安定になる彼女を励まし、毎日、どんな時でも応援し続けた。

 推しの彼女は、やがて登録者数200万人を超えるトップVTuberの一人として世間にも知られるようになった。それがまるで自分のことのように嬉しかった。


 これがまさしく『推し活』ってやつだ。


 ——しかし、1ヶ月前、体調不良を理由に『秋空かえで』は突如、となった。


 このパターンでVtuberが活動停止した場合、大抵はそのまま引退だ。



 ◇◇◇◇◇◇◇◇



 その日から、俺の心は再び深い闇に包まれた。


 夜、彼女の配信スタートだった21時が来る度に、その空虚感は増していく。

 もう、彼女の推し活なしでは、生きていく自信がない……。


 俺は、何かに誘われるようにい窓を開け、冷たい夜風を感じながらベランダに出た。


 ——ああ、都心の夜景が虚しい、いっそこのまま落ちてしまえば……すべて終わりにできる。


 体がゆっくりと都会の光に吸い込まれそうになったその時、隣のベランダに人影があることに気がついた。目をやると、酒に酔ってるのだろうか、虚な目で手すりに座って今にも落ちそうな、飛び降りそうな女性の姿があった。


(え?なにこれ……自殺!?やばい、やばいぞ!)


 次の瞬間、俺の体は条件反射的に動いていた。ベランダの手すりによじ登り、身を乗り出し壁を越え、隣のベランダへと飛び移った。その時は恐怖も感じず、ただ彼女を助けなければという思いだけが俺をを突き動かしていた。

 隣のベランダに降りると彼女を後ろから抱きしめ、力いっぱい引き戻す。その体は軽く、すぐに俺の腕の中に収まった。彼女からはアルコールの匂いがした。意識朦朧とした彼女を抱きかかえたまま、空いていた窓から彼女の部屋に入り、間近に見えたベッドにそっと寝かせた。


 スタンドライトが薄く灯ったのその部屋を見渡すと、『秋空かえで』のグッズやポスターが目に入った。あれ、お隣さんも彼女のファンだったのか、まあ今や有名人だからな。もしかして俺と同じ理由で生きる気力でも失ったのとか?いや、いや、俺ほどのガチリスナーなんて、そうそういるわけない。


 よく見ると壁際に大きめのワークテーブルがあり、そこには女子に不似合いな、かなりハイスペックなタワー型パソコンが置かれていた。さらに特殊な装置のついたカメラと、アーム式の配信者用高性能マイク……これはちょっと珍しいな。


「う……あれ、わたし、なんで……」


 助けた女性が頭を押さえながらベッドから起き上がった。さっきはよく見えなかったが、部屋の明かりに照らされた彼女の顔は美しく、スラリとした体型も相まってどこか一般人とは違うオーラというか、洗練された何か感じた。


 それより、なにより俺が気になったのは、だ。


「あ、俺、隣に住んでる青空って言います。あなたが酔ってベランダから落ちそうだったので、思わず助けに入って……」(俺も死のうとしてたんだけど)


「え!ええ!わたし、とんでもない迷惑を、ごめんなさい!ごめんなさい!」


 ——— ああ……4年間、毎日聞き続けたを、絶対に間違えるわけない。


 今、俺の目の前にいるの女性は間違いなく『秋空かえで』の『中の人』だ。


 その瞬間、俺を、あの腹痛が襲ってきた。


 おなじ声なのに、あんなに好きだった声なのに、例のトラウマが蘇り、激しい腹痛で体が動かなくなりそうだった。


 VTuberの『秋空かえで』は大丈夫だったのに、生身の女性である彼女中の人には、強烈な腹痛反応が出てしまったのだ。


「大丈夫ですか?しっかりしてください!」


「すみませ、、、ん、、これで失礼します!」


 そういうと俺は、彼女の部屋の玄関へ走り、外へ飛び出した。

 自分の部屋のドアにたどり着くと鍵がかかっている。当然だ、ベランダから向こうの部屋に入ったんだもの。管理室を呼ぶにもこの時間じゃもう誰もいない。とはいえ彼女の部屋にもどるなんて絶対に無理だ。


 俺はそのままドアの前にしゃがみこみ膝を抱え、息を整えながら腹痛を抑え込む。


 ——ああなんてこった!まさか、まさか、


 こんな無様な俺にとってそれは、まったく奇跡の出会いなんかじゃなかった。



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