第10話 過去への挑戦

「よし終わった〜」


 と、俺は満足げにPCのモニターから目を離し、背もたれに深くもたれかかった。久しぶりに達成感を感じた瞬間だった。


 そして草壁香奈宛にデータを送信する。予定より1日早く仕上げたことで、昨日追い返してしまった彼女への罪悪感が少しだけ薄れた気がする。


 外を見ると、窓の外には夜の静寂が広がっていた。街の明かりが遠くにぼんやりと見え、時折聞こえる車の音がかすかに響く。時計を見ると、もう午前2時を回っていた。


「こんな時間か……」


 一息つこうと、立ち上がってキッチンへ向かい、冷蔵庫から冷たい水を一杯注ぐ。冷たい水が喉を通り過ぎる感触が、意識を現実に引き戻すと、キャビネットに畳んで置いてある千秋がくれた毛布に目がいった。


(そういえば、あの後どうしたかな……)


 ふと、伊藤千秋のことが頭をよぎる。彼女の声が隣から聞こえてきたとき、ほっとする自分がいた。草壁香奈のことは人として尊敬しているが、男女の関係とかそういう感じになるのには抵抗感があったからだ。

 恋愛恐怖症の35歳童貞が何を偉そうにと思うだろうけど、俺にだってそういう意識があったっていいだろうが!やんのかこら。


 彼女が気付いているのかは分からないが、秋空かえで、いや、伊藤千秋は4年間いつも俺を救ってくれてたし正しい方向に導いてくれていたんだ。彼女の方こそ恩人なんだよ俺にはね。ああ、キモい男の妄想だよ、いいじゃん別に。


(会ってちゃんと話をしたいな……でもきっかけが無いよな、ただの隣人だし、そもそも警戒されてるし)


 再び椅子に座り、机の上のスマートフォンに目をやる。SNSを開いて、ふと「秋空かえで」のアカウントをチェックしてみた。彼女が活動休止してからというもの、ずっと更新が止まっている。しかし、フォロワーたちが未だに応援のメッセージや、彼女の復帰を願うコメントを毎日寄せていることに、胸が温かくなる。


 なぜだろう「秋空かえで」のリスナーってみんな人間が出来てるというか、良い人が多い。トップリスナーの俺ブルースカイに関してはショック過ぎて、休止発表以降は一度も応援メッセージを送れていないわけだが。ああ、情けない小さい男ですよ。


(千秋さん、今も隣にいるんだよな……どうしてるんだろうな)


 こんなに近くて遠い隣人も珍しい。心配は募るが、今自分にできることは限られている。彼女が再び立ち上がれる日を待つしかない——そう自分に言い聞かせるしかなかった。


「それにしても、『あいつ』の正体……」


 仕事を終えた達成感が一気に霞む。脅迫メッセージを送り続けていた「あいつ」の存在が、俺の頭の中で再び色濃く浮かび上がる。


 匿名掲示板だとしても、脅迫の類いなら身元の特定はさほど難しくない。特に引退まで追い込まれるレベルなら彼女宛に直接DMなどで脅迫があったと予想できる。その場合は警察などに頼らなくても追跡する手段は豊富にある。


 それでも『あいつ』と呼んでいる、ということは正体が誰なのか、まったく見当がついていないはず。


 掲示板のログの特徴からみてIPアドレスを偽装するTorブラウザー使っているのは間違いない。さらにVPNも経由して追跡を困難にしてる可能性も高い。

 

気になるのは、このやり方、ログや足跡の消し方、ブラフの使い方に見覚えがあることだった。


 その時、スマホの通知が鳴った。


 コージー【おーす、同窓会の場所は赤坂の春夏秋冬に18:00で決まったらしい】


 1224【わかった、ありがとうな】


 コージー【言いにくいんだけどさ、、、春木優花も来るみたいだぞ、本当にいいのか?】


 その名前に心音が高まる。このトラウマの原因、俺のラブレターが教室に晒された事件の、告白相手のあの子だ。

やっぱり来るのか、いや、俺がそれを望んでの参加じゃないか、いまさらビビるな。


 1124【大丈夫だよ、問題ない】


 コージー【でもまだ治ってないんだろ?例の腹痛になるやつ】


 1124【そうだけど、20年近く前の話だぜ、もうなんともならないよ】


 コージー【だったらいいんだけど、無理はすんなよ】


 同級生で唯一付き合いのある小久保浩司には俺の『恋愛恐怖症』について話したことがある。あの日から明らかに症状が出てたので本人も薄々勘づいていたらしかったが、直接聞かされると友人としてはショックだったようで、それ以来俺のことをかなり気遣ってくれてる。


 1124【もし腹痛が出たらこっそり帰るから後はごまかしといてくれ】


 コージー【おーけい、まあそれくらいはまかせろ。偽証は俺も得意だからな】


 その言葉で俺はあることを思い出した。


 1124【そういえばコージー、学生時代によくやってた例のTorとVPN使った身元偽装って今も使ってたりする?】


 コージー【え、なんでそんなこと聞くんだよ。もうやってねえよ】


 1124【だったらいいけど。最近お前のやり方とよく似た偽装テクニックを見かけて、懐かしくて聞いてみただけだよ】


 コージー【やめてくれよ、この歳でネット犯罪者なんてごめんだぜ】


 1124【そりゃそうだよな、たまたまだろうな】


 コージー【ちなみにそれってどこで見たんだ?】


 1124【ZNNだよ、アイドルの掲示板だったかな】


 コージー【そっか、なるほど。とりあえず俺は関係ないからな!】


 1124【わかってるって。じゃあ日曜日な】


 深いため息をつきながら、再びSNSを閉じる。いよいよ春木優花に会うことになる。考えすぎると精神的に参ってしまうので、今は一旦頭を休ませるべきだと思い直した。


 その時、スマホが振動し、別の通知が届いた。画面には、「秋空かえで」のアイコンが表示されている。


(え……更新が……?)


 急いでアカウントを開くと、彼女からの新しいメッセージが投稿されていた。


「みんな、待っててくれてありがとう。もうすぐ戻れるかもしれません。今はまだ準備中だけど、復帰時期が分かれば報告します!」


 その短いメッセージに、俺の胸は熱くなった。千秋が再び戻る決意と行動を開始したのだ。彼女が抱えている不安や恐怖を想像するだけで、俺の中にも強い決意が湧き起こるのを感じる。


(俺も、やれることをやるしかない……)


 俺の心に炎のような闘志が宿った。彼女を守るため、自分ができる最大限のことをしてみせる。何より過去を克服し自分を変えたい。これ以上彼女を苦しめる「あいつ」を、絶対に許さない。


 俺は、すでに次なる行動を考え始めていた。


「やらずに後悔するより、やって後悔しろ——」


 彼はもう一度この言葉を自分に言い聞かせ、PCに向かい直した。俺がしなければならないのは、ただ仕事をこなすことだけではない。千秋のため、自分自身のためにも、真実を掴み、彼女を守ることが新たな使命なんだ。


 待ってろよ過去の俺、そして「あいつ」。

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