第15話 眠らない二人
俺の部屋に入った瞬間、彼女の目は部屋をぐるりと見回していた。そして、ある一点でその視線が止まった。
「……あ」
千秋が視線を向けたのは、秋空かえでのポスターだ。彼女が演じているキャラクターが大きく描かれたそのポスターは、部屋の壁にしっかりと貼られている。その隣には、関連グッズも並んでいる。彼女がまるで見慣れた友達のようにそこにいる。
その『中の人』である千秋が、それらを見て小さく息を飲んだのがわかった。
「これ……全部、私の……だ」
千秋の声が小さく震えていた。彼女は自分がそのキャラクターを演じていることを理解しているが、こうして現実の世界で、実際に大切にされているのを目の当たりにするのは初めてだったのだろう。
「いや、俺こそ……ありがとうって言いたいんだ。俺はここ何十年もずっと、心に悩みを抱えていたんだ、それが原因で生きるのが嫌になってさえいた。——でも『秋空かえで』の配信が、ずっと俺を支えてくれてたんだよ」
千秋は驚いたように目を見開き、それからゆっくりと微笑んだ。彼女の笑顔は、どこか切なく、でもどこか温かいものだった。
「そっか、私なんかでも、誰かを支えることが出来ていたんだね、うれしいよ」
俺は、彼女のことをもっと知りたくなっていた。自分が今まで感じていた感情が、ただのファンとしてのものではなく、もっと深いものに変わっていることをは自覚している。
でもその感情がなんなのか、恋愛経験が乏しいというかほとんどない俺には、正直よくわからない。
「そうだ……千秋さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、『あいつ』のこと、もっと教えてもらえないかな?」
俺の問いに、千秋は少し表情を曇らせたが、すぐにその表情を戻して口を開いた。
「『あいつ』……は、私にとって本当に恐ろしい存在なの。最初はただの悪質なアンチだと思っていたんけどメッセージがエスカレートしていくうちに、ただの嫌がらせではないと感じるようになって、私が秋空かえでになる前の、過去の出来事まで知っていたり……だから、私の身近な誰かが関わっているんじゃないかって……」
「そのことなんだけど……俺なりに「あいつ」の足取りを色々追いかけてみたんだ。痕跡の消しかたからしてハッカー並みの技術をもってた。そして「あいつ」の目的は、君の活動を辞めさせるという意図が一貫している」
「ええ……だから、活動を休止せざるを得なかった。精神的に追い詰められてしまって……でも、復帰しようと決めた後、また『あいつ』からの脅迫メッセージが届いて」
「ん?その時に復帰を知っていたのは?誰?」
「マネージャーと……青空さん?」
「それは変だな……俺はもちろん誰にも言ってないし、マネージャーさんが漏らしてないのに行動がバレているってことは、ハッキングした?いや……それにしてもタイミングが変だ」
「マネージャーは、内部も疑う必要があるって言ってたけど……そんな痕跡を消せるハッカーみたいなひとなんて身近にいるとは思えないんだけど」
「その点については俺の専門だから、もうちょっと調べてみるよ、もしよければ、その復帰を決めた後に届いた脅迫メールのログを、出せる範囲で良いから後で教えてもらえないかな」
「うん、マネちゃんに相談してみる。彼女も青空さんのことは尊敬してるから、協力してくれるかも」
彼女の話を聞いて、俺の中に強い決意が芽生えた。俺は彼女を見つめ、力強く言った。
「大丈夫、俺が必ずなんとかするから。君を守るために、できる限りのことをするよ。『あいつ』をかならず見つけて罰をうけさせる」
千秋は俺の言葉に小さく微笑んだが、その瞬間、彼女のお腹が小さく鳴った。俺たちは一瞬顔を見合わせた後、思わず吹き出してしまった。緊張がほぐれた瞬間だった。
「お腹すいた? 何か作ろうか?」
「え?いえいえ!あたしがお邪魔してるんだから、作るよ!キッチン借りるね」
千秋はそう言って、キッチンへ向かおうとしたが、俺はすぐに反論した。
「いや、いやいや、ちょっと待って、君の料理って」
「だめ!だめよ、私やります!」
彼女は無理にでも自分でやろうとしたが、なんとなく不安そうに見えた。俺はその不安を察していたが、それでも彼女の申し出を受け入れることにした。
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「うん、任せて」
千秋はそう言いながら、冷蔵庫を開けた。しかし、その手つきがどこかぎこちない。俺はそれを見て少し不安になりつつも、彼女の頑張りを応援することにした。
「えっと……卵、牛乳……」
彼女は材料を手に取り、調理を始めたが、その動きはどこか慣れていないようだった。あ、これはいつか見た光景だ。
「あれ?これ……だっけ、あれ、ん?」
彼女は必死にスマホを見ながら、冷蔵庫を開けたり、閉じたりしているが、コンロを見た感じ明らかに火力が強い。
案の定、フライパンから焦げる匂いが立ち上った。慌てた千秋はコンロに向かおうとしたが、足が滑ってバランスを崩してしまった。
「わっ!」
ある程度のトラブルを予測して構えていた俺は、咄嗟に彼女を支えた。彼女の体が俺にしがみつくように倒れ込んでくる。彼女の体はあの日のように華奢で細く、俺は難なく受け止めることができた。
なんだかキスをする直前の王子様とお姫様のような格好になってしまい二人の間に一瞬、静寂が訪れた。俺の心臓が激しく鼓動し、彼女の頬がさらに赤く染まっていくのがわかった。
えーっと!ラブコメ漫画ならこの後どうするんだっけ?まったく思い出せない。
「……ご、ごめんなさい」
「い、いや、俺こそ……」
そのまま見つめ合う時間がしばらく続いた。言葉が出てこない。互いに何かを感じながら、その場格好のまま固まってしまった。
「千秋さんて、普段料理しないでしょ、ていうかかなり苦手だよね」
「なぜそれを……。あたしってそんな感じ?Uber Eatsで済ませる系オンナに見える……?」
千秋は恥ずかしそうに顔を伏せる。その姿に、俺は思わず笑ってしまった。
「俺は秋空かえでの最強リスナー『ブルースカイ』だぞ。料理が苦手なのは最初から知ってたよ」
俺の言葉に、千秋は驚いたように顔を上げた。彼女の目には、信頼と感謝の気持ちが込められていた。
「ありがとう、青空さん……『ブルースカイ』の返しって本当に安心する。私、ずっと自分が情けない女だって思ってたけど、リアルでもありのままの自分でいられるなんて……すごく不思議」
千秋の言葉に、俺も胸が温かくなった。彼女が心を開いてくれたことが、何よりも嬉しかった。
結局、千秋の料理は大失敗に終わり、俺たちは再びソファに戻って、Uber Eatsを注文した。
それからは、まるで旧友同士のように、お互いが絡んだ思い出話を語り合いながら夜を過ごした。好きなアニメやゲーム、そしてお互いの趣味について、時折笑い合いながら話す時間は、思っていた以上に心地よかった。
「……気がつけば、もう朝だね」
千秋が窓の外を見つめながら呟いた。薄明かりが部屋に差し込んでいて、夜が完全に明けるのを感じさせる。俺もその光景を眺めながら、静かに同意した。
「本当だ……こんなに話し込んじゃっうのは、あの耐久配信以来じゃないかな」
「そうだね!あれは本当に大変だったよね」
「俺も次の日は仕事にならなかったよ、あはは」
「でも今日はすごく楽しかった。ありがとう青空さん。そして——『ブルースカイ』」
「俺も、すごく楽しかった。千秋さん。そして——『秋空かえで』」
お互いの、もう一つの名前で呼び合った瞬間、千秋の目が見開き、表情が一気に明るくなる様子が見えた。その急な変化が可愛らしくて、俺も思わず微笑んでしまう。異性なのに、こんな風に、心からリラックスして話せる相手がいるなんて、今までの俺は想像すらしていなかった。
その時、ふと彼女が真剣な表情で俺を見つめてきた。
「青空さん……いや、聖夜さん。これからも、もっと……いろんな話、してくれる?」
その言葉に、俺の心臓が一瞬止まりそうになった。でも、すぐに笑顔で頷く。
「もちろん、いつでも話そう。俺も千秋さんともっと話したいし、もっと一緒にいたいから」
彼女の瞳がキラリと輝き、その瞬間、彼女が小さな声で呟いた。
「……楽しみにしてるね」
その言葉が、俺の胸にじんわりと染み込んでいく。こんなに穏やかで、でも少しだけ胸が高鳴る朝を迎えたのは、初めてかもしれない。
その後、早朝からやってる害虫駆除業者に連絡をして、すぐに来てもらった。ムカデの亡骸は見つからなかったが、作業員が言うには窓が少し空いていたから、そこから逃げたんだろうということだった。
部屋へ戻れる状態になったので、彼女はまだ少し恥ずかしそうにしながら、ソファから立ち上がった。俺も彼女に続いて立ち上がり、玄関まで見送りに行く。
「じゃあ、また……今日はありがとう」
「うん、また……困ったときはいつでも言って、千秋さん」
彼女は小さく頷いて、少しだけ照れくさそうに微笑んでからドアを開けた。
ドアが閉まり、彼女が部屋を出て行った後も、俺はしばらくその場に立ち尽くしていた。心の中で繰り返し、彼女の言葉を反芻する。
(もっといろんな話を……か)
ていうかこれ、夢じゃないよな?実は昨夜インターフォンを押しに行く直前で寝てしまったとか。この後目が覚めるとかそんな寝オチは令和じゃ流行んないから、絶対にやめてくれよ。
その瞬間、スマホが小さく震えた。画面を見ると、春木優花からのメッセージが届いていた。
U-KA【確認!明日、会えるの楽しみにしてるね!】
俺はスマホを手に取りながら、これから始まる新たな日々に胸を躍らせた。
(まさかこれって、伝説のモテ期ってやつ?あんなのラブコメだけの世界だろ、俺は千秋さん一筋なんだから!関係ないんだからね!)
これから何が待っているのかは分からないけれど、35歳、彼女いない歴=年齢だった俺の人生が、大きく一歩踏み出したことだけは感じていた。
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