第7話 小さな一歩
はあ、幸せな時間て、なんであっという間なんだろう……。
「あ……お仕事の時間?!」
「あ、ああ!そうだね……」
「そっか……21時か、なんかごめんね」
——そう彼女にとっても21時は特別な時間なんだよな。
俺は彼女の知名度が低かった頃から、人生をかけて努力し続けてる姿を見てきた。
だからなおさら、活動休止の原因らしい「あいつ」の存在が気になって仕方がないし「あいつ」に対して、心の奥底から怒りのような感情が沸いてくる。
「じゃお仕事頑張って!……またね」
「あの!……いや、今日はありがとう」
「………私の方こそ!本当に、本当に、ありがとう。」
彼女と俺はベランダを離れ、それぞれの部屋に戻った。
俺はデスクに座り、しばらくぼーとPCの画面を見ていた。
そしてさっきまでの出来事、彼女との会話、謎の「あいつ」という存在が頭に中をぐるぐる回り続け、その後もまったく仕事に集中できなかった。
——気がつけば朝になり、俺はやってしまった。
この仕事で初めて、納期を守れなかったのだ。
「青空さんが自分で決めた納期を落とすなんて、何かあったの?」
「……本当にすみません。昨夜はどうしても集中出来なくて。」
リモート会議の相手は、上司の草壁香奈。彼女は俺が納期を守れなかったことをキツく咎めるでもなく、むしろ体調のことを気遣ってくれている。
「クライアントには、致命的なバグが見つかったからあと2日待って欲しいってことで了承してもらったわ。でもこちらで引き取ることも出来るし、無理ならそう言ってね」
「いえ、次は絶対に間に合わせます。絶対にやれます」
「青空さんがそこまで言うのなら、信用する。ただ何か問題があるなら一人で抱え込まないでね。これでも私は上司なんだから」
今はその優しさが身に染みる。むしろ厳しく叱責される方が気持ちが楽な気さえする。
いや、ふざけんなよ俺、自分をぶん殴りたい。
「あの——今日は休んでちょっと病院にいってきます。もちろん明日中には必ず仕上げます。」
「やっぱりどこか悪いの!?だったら——」
「いえ、病気とかではないので大丈夫です!心配しないでください」
その後も草壁さんは体調について色々問いただしたが、大丈夫と押し返してリモート会議を終えた。
俺は昨夜、決意した。この『恋愛恐怖症』を克服するために、カウンセリングに行くことを。
小さな一歩かもしれないし、行くだけ無駄かもしれないけど——
「やらないで後悔するより、やって後悔するほうがいい」
この言葉は、伸び悩んでいた頃の「秋空かえで」が、他の人気Vtuberアイドルとのコラボ配信をやりたいけど、こんな底辺アイドルが人気者とコラボしたら、めちゃくちゃ叩かれるかもしれないと及び腰だった時に、俺が彼女に言った格言だった。
おそらくインターフォン越しに俺がこの言葉を発したことで、彼女は俺がブルースカイだと確信したんだと思う。情けない話、自分自身が一番実践できてない言葉だ。
「よし、ここから始めよう、俺は変わる、変えてみせる。」
俺は、以前から調べて目星をつけていたカウンセラーに電話し、午後からの予約を予約を入れた。そして、どうしても頭から離れない疑問に再び向き合った。
それは「あいつ」の正体だ。彼女の活動を休止に追い込んだ異常な存在——そいつが誰なのか、そして何をしたのか。
彼女の「あいつ」の言い方からから直感的に、過激なアンチ行動や、脅迫の類だろうと感じた。
俺はロジックを立てて情報を集める事が、人より得意だ。
すぐにパソコンの前に座り、秋空かえでのファンコミュニティにアクセスした。彼女が活動を休止した理由について、ファンたちは様々な憶測をしていたが、具体的な情報はほとんどなかった。
しかし、ある掲示板に辿り着いたとき、異様な書き込みを見つけた。それは彼女への脅迫メッセージだった。
「秋空かえで、お前は絶対に許さない。どこに逃げても必ず見つけ出してやる。」
書き込みの内容は不気味で、一部は削除されていたが、その脅迫がどれほど執拗であったかが伺えた。
「ここから何か手繰れるかもな、某掲示板で『特定神』と言われた俺の追跡力をなめるなよ」
俺はさらに調べを進めることにした。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その頃、伊藤千秋は担当マネージャーに電話をかけていた。
「もしもし、マネちゃん……わたし、復帰する!もう『あいつ』に負けたくない。」
電話の向こうで、マネージャーが驚いた声を上げた。活動休止の原因を知る彼女は、千秋の決意に驚きと共に喜びを感じていた。
「かえで、本当に大丈夫なの?」
「うん。あいつの脅迫に怯えて、ずっと逃げていたけど……もう逃げたくない。私を支えてくれる人たちのためにも、もう絶対に逃げない。」
脅迫者——「あいつ」は、ただのアンチとは違った。
奴の異常性は、彼女を精神的に徹底的に追い詰める手段にあった。
最初は嫌がらせのメッセージから始まり、それが次第にエスカレートしていった。SNS上での誹謗中傷、精神的な攻撃、そしてついには殺害予告へ。
様々な追跡の専門家に依頼したが「あいつ」は一度も姿を現したことがなかった。身分を巧みに隠しつつ、執拗に纏わりつく猟奇的な行動からも、奴がどれほど危険な人物であるかは容易に想像できた。
「分かった。私も全力でサポートするから、一緒に頑張ろう。」
「ありがとう。私、絶対に負けない。」
「かえで、警察にも相談するし、プロバイダーにも開示請求もする。でも、『あいつ』は巧妙に身元を偽ってると思うし、必ず特定出来るかわからないよ、それでもいいのね?」
会社としては開示請求をして訴える準備をしていたが、ファンの理想の「秋空かえで」というパーソナリティに傷をつけるくらいなら、このまま活動をやめたいという伊藤千秋の意思を尊重することになり、無期限活動停止という状態での様子見することを決めていた。
しかし ——もう逃げない。
千秋は深呼吸をして、自分を落ち着かせる。そして、再び自分の使命を確認する。
(わたしは、もう一度『秋空かえで』になる。みんなのためにも——ずっと守ってくれてた
この日、俺たち二人は、それぞれの小さな一歩を踏み出した。
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