第30話 CHAPTER 9「Out of sight PART 2」
龍子の居所を知らされてから三日経った。火事からは十日が経過していて、火事跡から発見された焼死体の性別が男だった事はとうに発表されているが、未だ身元は不明のままだった。龍子の殺害が失敗した事で、天童や村井、〈レーネ〉の監視が再開された可能性は高いが、天童の周囲にそれらしい人影は確認できなかった。
村井もまた、プロのマスコミである故、尾行や盗聴等についての知識は豊富で、それらの対策についても熟知している。
それぞれが仕事を調整して、十分な注意をはらって二時間以上をかけてやって来たというのに、二人はなぜか同じ日の午後、同時刻に訪れる事になってしまった。
郊外の十階建てマンション。周囲は閑静で、すぐ向かいに小さな公園があった。蝉の大合唱がクライマックスを迎えていた。駅から徒歩で来た天童と、タクシーを降りた村井は向かい合ったが、言葉を交わさずマンションに入って、同じエレベーターに乗った。
もちろんそれぞれが龍子に事前にアポイントを取っての来訪だったが、龍子から日時の指定があったわけじゃないので、これは偶然の事だった。中年男同士の妙なシンクロに、お互い心底気持ち悪く感じた。半袖の白ワイシャツ、ノーネクタイ、スラックス…恰好までほとんど同じだ。
迎え入れた龍子の恰好に、二人は面食らった。上は黒の水着ブラ、下はカーキ色のショートパンツで裸足、肌の大部分を露出させていた。腹部には少しだけ内出血しているような薄い痣と、その下に縦の手術痕がわずかに見えた。髪は若干カットされていて、染め直して明るくなった茶髪は、カーテンのない窓から差し込む光に照らされて、まるで金髪のように輝いた。
「ああ、ごめんね。着替えるから。まだエアコンないから暑くて~」
そう言いながら、龍子は横開きの扉を開いて隣の部屋に入って行った。
二人は共に、ハンカチを取り出して額の汗を拭った。
マンションの間取りはどうやら2DKのようで、入口すぐにあるキッチンは二畳半程度の簡素なもの。冷蔵庫も何もない。通された六畳ほどの部屋は板張りの床、周囲の壁は平凡な白い壁紙で覆われている。空き家から勝手に持ってきたような古い、傷だらけの木製の勉強机と椅子が窓に向けて配置されていて、机の上に黒いノートパソコンが一台置いてあった。
龍子が入った部屋の中は確認できないが、おおよそ、寝具と衣服が置かれているだけだろう。駅から徒歩で三十分以上かかり、建物も古い。〈レーネ〉に通勤するには一時間以上かかって、随分不都合だろう。もっとも今は休業中であろうし、今後もどうするつもりなのか・・・天童は不安になった。
白のブラウスを上に着た龍子が戻ってきた。扉は静かに、きっちりと閉じられた。黒い水着が透けて見えるが、気にする様子もなく、龍子は長い素足を組んで椅子に座った。
結局のところ、この色香には抵抗できねえんだ、そう村井は思った。
「それで、お話は?」
二人は戸惑い、もじもじし出した。
「どうしたの? なんか気持ち悪いわよ」
「いや、それぞれ別に話をするつもりだったからさ…」と村井が自信ない様子で答えた。
「ここは暑いし、場所を移動しないか? タクシーを呼ぶから」と天童が言った。
「ダメよ。約束があるから、ここで待ってないと」
「約束?」と村井が発するのと同時に、玄関のドアが開いた。
天童が身構えて玄関に向くと、白いTシャツとジーンズを着た喬史がいた。
「あ、いらっしゃいませ」と言ってから、店じゃなかった、と喬史は少し照れた。
「まさか、一緒に暮らしているんじゃないだろうな」村井が言った。
「僕は、龍子さんのボディガードですから」
天童は閉ざされた隣の部屋に、ちらりと目を向けてしまった。
「何もしてないわよ」そう言って、龍子はため息をついた。「全くいやらしいわね。天童さんにはがっかりだわ。所詮あなたも男よね」
「いや、ごめん。つい…」
「誰だって少しは思うだろ。そんな恰好をして」と村井。
「あら、肩を持つなんてめずらしい。仲良く二人で来たりして、まさか、もう一緒に暮らしているんじゃないでしょうねえ」
「馬鹿言うな」
「待っている、ってのは彼の事?」天童が問うた。
「違うわ」
「あとどれくらい?」
「一時間くらいね」
「じゃあ、待つことにしよう」天童は床に腰を下ろした。
龍子の高校生時代の友人、それも幽霊(なのか何なのか解らないが)の話を聞いた後、配達業者によるエアコンと冷蔵庫の設置があって、時刻は午後五時を過ぎた。龍子は三人の男達を誘って、徒歩で二十分ほど歩いた川辺にある、ひまわり農園まで歩いて行った。
龍子は白い日傘をさしていたが、喬史を除いて皆、高過ぎる気温と日差しの強さにひどく後悔した。加えて、一様にこちらを向いている無数の小太陽の顔に、なぜか責め立てられているような居心地の悪さを感じて、龍子は顔を逸らした。
傍に立っていた村井が龍子と話した。天童と喬史は気を遣うように距離を取った。
十分ほどの会話の後、村井は龍子の傍を離れ、天童に顔を向けて合図した。交代するように、天童は龍子の傍に歩いて行った。
「村井さんと何の話を?」
「ひたすら謝ってたわ。らしくないわね、別に村井さんのせいじゃないのに。
・・・天童さんも、随分心配かけちゃったわね。ごめんなさい」
「いや」
「それで、天童さんは何のお話? もしかして、わたしを逮捕するために来たのかしら」
「まさか、どうして?」
「あの焼死体、わたしが殺したのかも、って思っているでしょ?」
「いや、全然」
「どうして?」
「君は、人が死ぬのは嫌いだろ」
「…そうね、好きじゃないわ」
「それに、君を逮捕するくらいなら警察をやめるよ」
龍子は笑った。「ホントにいい人ね。独身なのが不思議よ」
「この通り、不細工な中年だから」
「不細工じゃないわ。 男の人っていいわよね。中身が外見に作用するから、美しさのバリエーションが女に比べてたくさんある。ハゲでもデブでも、一重でも二重でも、鼻や口がひん曲がっていても、年を取っても、格好いい人は格好いい。チビと髭は嫌いだけれど」
「女の人だってそうだよ」
「そうかしら、わたしがこんな顔していたら…」龍子は自分の両頬をつまんで、横に引っ張った。「天童さんや村井さんはこんなに良くしてくれないでしょう」
「そんな事ないよ」(それで不細工のつもりなのか?)
龍子はもう一度ひまわりの方を向いて、近づいた。日傘で視界の上半分を隠して、それからゆっくりと傘を上げて花を正面から見た。眩しいばかりの黄色い花びらに縁取られた顔には、突起物のような無数の濁った色の花弁が、幾何学的に密集している。ひとつの花に見えて、実は大量の花が集まったものだという事が良く解った。傘をさらに上げると、その後ろにも、そのまた後ろにも、ずっと遠くまで立っている光景が見えた。皆が同じ方向を、龍子の方を向いている。
違う方向を見ているひまわりをひとつ見つけた。うなだれるように下を向いている。色素が薄くなっていて、葉も枯れていた。
「考えてみれば、花を愛でるなんて女らしい事、これまでずっとしていなかったわ。でも、ひまわりは苦手かも知れない。なんか怖いわ、匂いもなんか苦手」龍子は独り言のように、小さな声で言った。
龍子の後ろ姿を見て、天童は涙ぐんだ。身長が高いから余計にか細く、華奢に見える。元警察官で、大胆な言動が多いから、村井が言うように彼女にはタフなイメージが少なからずあるが、決して力が強いわけでも、高い地位や財力を持つわけでもない。
彼女は赤子の頃に置き去りにされて、施設で不自由な思いをしながら育ち、勉強と訓練の末に得た職を理不尽に追われ、あげく何度も命を狙われた。
自殺未遂と片づけられた資料も、病院の記録も調べた。下腹部裂傷・・・浅い傷ではなかった。刃先は子宮に達していて、子宮筋の一部を損傷していた。わずかでも手術が遅れていたならば、命を失っていた可能性が高かった。また今後においても、妊娠への影響が少なからずある。
あまりにもかわいそうな女だ。なぜそんなひどい目に合わせる? 何度彼女を傷つければ気が済むんだ!
「天童さん、どうしたの?」
「いや、なんでもない。どうも年を取ると、涙もろくなって」
言葉に出してしまった事で堰を切ったように、両目から涙が溢れ出した。
「ああ、いかんいかん」天童は右手で顔を覆った。
龍子は微笑んだ。「わたしの事、いろいろ知ったのね? わたしのために泣いてくれているの?」
天童は手首を返して、甲を眉間にあてた。いじめられて泣いている子供の様だ。
「いかん」と繰り返し言った。
ようやく涙を引っ込めると、天童は口をすぼめて深呼吸した。話を変えよう。
「そうだ、話しておかないとならない事があったな。ええと、
「ええ」
「君はどこまで知っているんだ?」
「話した通りよ。犯行を自供しているって事だけ」
「女子大生殺害事件には、公にされていない容疑者がいる」
(龍子は
「二村岳人じゃない、別の男だ。だが、その男の身辺調査を行った捜査資料の中に二村の名前があった。膨大な量の聞込み調査の中の一つで、奴はその容疑者とたった二ヶ月の間だが、同じ職場にいた過去があった。時期は事件より二年前で、資料上特に親しい間柄だったという情報はなかったため、スルーされたようだが、とにかく繋がりはあったわけだ」
龍子は無反応のまま、天童に顔を向けていた。
「ここからは俺の推測だ。現場の目撃証言の内、不審人物の中に男二人というものがいくつかあった。容疑者と二村の年齢、体格と合致している。また、容疑者と二村にはその性質の悪さに共通点がある。となると本来、共犯の重要参考人として取り調べされていても不思議じゃあない。だが、その記録はない。
そして、なぜ君が二村に目を付けていたのか? 君の友人、ハルさんからの相談がきっかけだと聞いたが、どうにも不自然でね。実際二村はハルさんが勤める店、クラシオンを何度か訪れていて、まあ、酔うと乱暴なふるまいをして、迷惑がられていたのは事実みたいだが、奴が〝人を殺した〟と言った、と証言しているのはハルさんだけだ。
彼女は居場所を転々としているようで、君と一緒に岡山で勤めていた事もあれば、大阪や名古屋にいた事もあると言うし、多分どこでも売れっ子だったろう。危ない男が店に来るならば、すぐに職場を変えるくらいのフットワークを持ち合わせているんじゃないかな。 …俺が思うに、彼女は単に、君の協力者なんだ。
君はずっと前から二村に目をつけていた。奴の素性、そしてどんな男かを調べ上げて行った。なぜか、それは奴が殺人事件の参考人、いや容疑者から外された事の理由でもある。二村は、母親である二村
天童は少しだけ間をおいた。
龍子は平静でいるようで、それは天童に、推測が当たっているという確信を与えた。
「掛井は認知せず書類上、二村は非嫡出子だ。おそらく母親には高額な慰謝料が支払われたのだろう。だが、もしかしたら本人は知っているのかもしれない。本人からか、もしくは母親からその事実を知らされた警察、又は検察はどうしただろう。組織はそこまで腐っちゃいないと思うんだが、中には毒カビそのものみたいな奴がいるのも確かだ。掛井は元警察官僚だからな。スキャンダルは掛井家だけに留まらない。・・・飛躍しすぎかな?」
「いえ、いい線行っているわ」
「それで、君の目的だ。二村が掛井の子供である事を、どうやって知ったのかは詳しくは解らないけれど、君はおそらく掛井への復讐の材料として、奴の身辺調査を始めた。同じ職場に喬史君が勤めていたのもそれが理由だ。しかし、二村は退職したのに、なぜまだ彼は勤めているんだ?」
「社長さんに今辞められると困る、って頼まれているのよ。あの子、腕が良いみたいで」
「…そうか。 ええと、解らないのは俺に何ができる、って事なんだ。君が俺を柏警察署に呼んだのは、俺にあの、君と二村の会話を聞かせたのは、俺に二村を逮捕させたい、と考えての事なのか? でも、それは無理だと君も解っていただろう。あの会話は突飛すぎるし、そもそも
「ここまで自分で調べ上げてくれた。あなたのような警官じゃないと、こうは行かないわ」
「それに、二村が犯行に係わっていると決まったわけじゃない」
「そうよ、それが問題なの。そんなの、わたしにはどうでも良かったのに、あいつの事を調べている内に、どうにも面倒な事になったのよ」と、龍子は表情を崩した。
「わたしにとっては、二村が掛井の息子っていう事が解っただけで良かったのよ。わたしを刺した事におまけまで付けてやって、幾らふんだくってやろうかしら、って考えていただけ」
「君、掛井をゆするつもりなのか?」
「ゆするわ。あの脂肪の
「聞かなかった事にするよ」
「それが人を殺したなんて言って、どうしたらいいか解らなくなった。そんなの知らんぷりしておけば良かったんだけど、横から邪魔が入って来て」
「邪魔?」
「天童さん、巻き込んでしまってホントにごめんなさい。でもここまで来たら、あなたはもう、黙って見過ごす事はできないでしょう」(わたしはあなたを利用しているの)
「巻き込むも何も、俺はまだ何もしていないよ。君は、二村をどうしたいんだ?」
「天童さん」
天童は真剣な表情で、龍子は潤んだ瞳でお互いを見つめた。
「天童さん、暑い。死ぬ」
「そうだね」天童は下を向いた。
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