第8話 CHAPTER 3: Run for your life PART 1
ようやく向いに座ってくれた時には、もう日を跨いでいた。
彼女は出勤するとすぐに店長に言われたのだろう、午後七時半ごろにまっすぐ自分のところに来て、挨拶してくれた。しかしわずかに話す間もなく彼女に指名が入って他のテーブルに行ってしまい、その後も次々とテーブルを渡り歩き、時折顔を見ては頭を下げてくれるが、とうとう営業時間が終わるまでに席についてくれる事はなかった。
仕方がない。彼女が出勤するまでに、現金の持ち合わせは余裕が無くなってしまっていた。カードはあるが、気楽に使えるほどの生活をしている訳じゃない。店長をはじめアマネやナオ、彼女たちが帰った後に相手をしてくれた他のホステス達が、残った酒をちびりと飲んでいる自分を邪険に扱わなかった事に感謝して、大人しく待つことにした。
最後の客を見送って、近づいて来た彼女の足取りは明らかにふらついていた。向かいのソファに力が抜けたかのようにトスンと座ると、上機嫌な様子で、「いやあ、飲んじゃったな~、ごめんなさいね~、長く待たせちゃって」と言った。
「いえ、お忙しいところすみません。お疲れのようですが、大丈夫でしょうか?」
「あ~、大丈夫ジョーブ、慣れていますから、あ、わたし、名前言いましたっけ?」
「ええ、ハルさん、とお聞きしました」
「そう、ハルです。本名ですよ、ハルコマキっていうの、わたし」
「えっと、ハルコさん?」
ハルはぷっ、と吹き出した。「ややこしいですよね、季節の〝はる〟が姓で、小さいに、本の一巻、二巻のまきで〝こまき〟が名前なの。お客さんのようにハルコって呼ばれたり、マキって呼ばれることもあって、どっちも間違ってるよ!って。自分の名前を言う時に、もっとハルの後に間を置けばいいんだけれど、つい一気に言っちゃうのよね。 だからね、高校生になった時、やっぱり友達にはちゃんと下の名前で呼んでほしいな、って思っていたから、自己紹介の時に、ずっとコマキって名前を印象付けるように言おうって考えていたのよ。頭の中でずっとコマキ、コマキってね。そしたら緊張しすぎて、〝コマキ・ハルです〟って逆に言っちゃったのよ。すぐに違う、あべこべだ、ハルコマキです、って言い直したら爆笑されちゃってね。外人かよって、結局どっちが名前なの?ってね」
酔っている風だが、ハルははっきりと淀みなく喋って、大きく口を開けて笑った。人当たりが柔らかい印象を持った。彼女の容貌は目が大きくて、鼻は少し低めで小さく、顎が丸みを帯びた丸顔でかわいらしい。長い巻き髪がポニーテールに結わえられていて、髪の色は黒、化粧もほどほどにしているので清潔感がある。その美貌と働きぶりから、おそらく人気ナンバーワンであろうと窺えた。
ハルは着ている白いシフォンミニドレスのスカートの裾をパタパタと振って、皺を直した。ちらりと細い太腿が見えた。
「きっとお疲れでいらっしゃるでしょうから、早速本題をお尋ねしていいでしょうか?」
「ああ、ごめんなさい」とハルは姿勢を正して、愛想の良い表情を向けた。「はい、どうぞ」
「まず、この画像の女性をご存知ですか?」と、天童は胸ポケットにしまっていた用紙を開いて、ハルに差し出した。
ハルは用紙を手に取って言った。「ええ、
随分とあっさり答えたな、と天童は拍子抜けしたが、まあこれは店長から先に聞いていたのだろう、もう彼女が龍子を知っている事は解っているし、隠す必要はない。
「彼女はあなたの元同僚だとか、友人ですか?」
「ええ、三年程前に、岡山で一緒のお店で働いていたの」
「岡山ですか?」
天童と龍子が先ごろ再会した時以前に、最後に会ったのはもう一年以上前の事だ。しかし、それまでも頻繁に会っていた訳ではなかった。龍子との男女の付き合いがあったのは一年足らずの間の事で、同管轄内で働いていた事もあって、その後も浅い友人関係を保ってはいたが、天童が他県に異動する事になった際に接点は消えてしまった。彼女にはもう他に付き合っている男がいたため、天童は大人しく引き際を認めた。
三年前に埼玉に戻ってきた時に、天童は龍子が警察を退職していた事をはじめて知った。退職の理由は解らず、ただ良からぬ噂話があった。また、龍子のその後の行方自体も解らなかった。何年も関係を絶ったままでいたくせに、住居や携帯電話の番号が変わってしまっていた事に落胆する自分に対して、未練がましさ、不甲斐なさを嘆いた。
しかしそれから半年程経って、龍子は天童の前に現れた。ある日不意に電話がかかって来たのだ。待ち合わせて再会した時に、若い男を一人連れていた。
三年程前に龍子が岡山にいた時に、自分は埼玉に戻ってきた、それから半年程経って、つまり今から二年半ほど前に再会した時に、彼女はどこに住んでいたのだろうか、岡山からわざわざ来てくれたのだろうか、そもそも彼女は警察を辞めてからの五年間、どういう生活を送ってきたのだろうか。もちろん尋ねた事は何度かあった。しかしまともな答えを得る事はできなかった、そして自分でもそれを追及する気は起らなかった。もうどうせ、彼女は自分のものになる事はない、そう考えていたからだ。
「私は、彼女とは古くからの知り合いなのですが、ここ一年連絡が途絶えておりまして」
「あら、この前会ったんでしょ?」
「え?」
「天童さんでしょ? 龍子ちゃんからいろいろと聞いていますよ」
「私の事を?」
「ええ、昔同じ警察署で働いていて、龍子ちゃんと付き合っていたこともある。とても優しくて、有能な人だってね」
「そんな風に言っていましたか」
「天童さんがこちらに見えるかもしれないって、言っていましたよ」と、ハルは何か含んだような笑みを浮かべて言った。
天童は少し考えて「じゃあ最近も?」と問うた。
「ええ、一週間くらい前だったかな、彼女と話しましたよ」
自分と会った数日後か… 「彼女とはずいぶん親しいご様子ですね」
「そうですね、気が合うんですよね、年も同じだから」
という事は、彼女も三十歳前後。「彼女もですが、あなたもかなりお若く見えます」
「三十って、もう若くないですか?」
「いえ、そういう意味ではなく・・・」天童は照れた表情を隠すように下を向いた。「私にとっては、二十でも三十でも目に眩しい、接するに憚られるような存在ですよ」
ハルは笑った。「ありがとうございます、ほんと、良い人みたいね」
「いいえそんな、でも、もしそう思っていただけるなら、私は彼女の現在の連絡先を聞きそびれてしまっていて、それでなんとか手がかりを探って、こちらにお伺いしている次第なのですが」
「龍子ちゃんの電話番号って事?」
「そうです」
「それだけですか?」
「いえ・・・あなたはきっと事情をご存知なんだと思いますが」
「仁村岳人の事?」
「にむらたけひと、例の男の名前ですか?」
「そうです、年齢は三十三歳、住所は…後でメモをお渡ししますね」
「じゃあ、龍子ちゃんの話は本当の事なんですか。その男が殺人を犯したと・・・」
「それは解りません。わたしも確かめたわけじゃないし」
「ああ、そうですか」と天童は穏やかに引き下がった。龍子との付き合いは長い。こういう、じらされる展開はこれまでに仕事でも恋愛でも、何につけても色々とあった。これで苛つくようなら、彼女にここまで執着しない。
ハルは少し意地悪そうな笑顔になって、「龍子ちゃんに惚れる人って、みんなどこかМっ気があるのよね、天童さんもそうみたい」
天童はにやりとして言った。「そうですね、彼女に対してはそうなってしまいますね、お恥ずかしい」
「いいえ、初めて会っただけで何だけど、わたしは、天童さんみたいな人は龍子ちゃんにぴったりだと思うわ、彼女にもそう話しておく」
「本当ですか?」天童は本気で喜んだ。
「でも、女の人の電話番号は、本人から教えてもらうよう努力するべきですよ」
「聞いたんですけれどね…」と情けない声を出した。
「龍子ちゃんにことわりなくお教えする事はできないけれど、わたしから天童さんが会いたがっていたと、連絡しますよ」
「ありがとう」天童は両膝に手をついて頭を下げた。
「でも、龍子ちゃんは天童さんには迷惑をかけたくないって言ってたのよね。後悔する事になるかもよ」
天童はにこやかな表情で細かく三回頷いた。それは解っている。
「まあそれも…彼女の
「そうですね、心地いいんですよ、それが」
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