第9話 CHAPTER 3: Run for your life PART 2

 国会議事堂、検察、警察、各省庁、おまけに皇居まで、国の重大機関が利便性だけを理由にして密集している。日本を破壊するには、日中にここにミサイル一発ぶちこめば済む話なんじゃないのか。でも破壊ではなく、侵略、支配するならば、結局は指導者達を降伏させる事が一番早くてお手軽なのだろうから、真っ先に重要なこの場所が、政治家や官僚たちと一緒にいる自分たちの命が脅かされることはないだろう。この町で暮らす、働く人達はそう考えているのかもしれない。破壊が目的の戦争なんてありはしない、あくまで手段であって、可能ならば土地建物、資源、資産、それに自然環境が無事なまま、略奪したいはずだ。首都に住む人間は、その高度な都市自体を自分達の命の楯にしているのだろう。

 しかし災害はどうだ。記憶を風化させる間もなく、次々と起こる大地震、台風、洪水、土砂崩れに、さすがに全国民が他人事とは思えなくなっている。自然災害は財産等に目もくれず、否応なく無慈悲に襲来し、効率よく命を奪っていくという事を心に刻まれている。  

 しかし都心に住む者は、大地震にも最新の耐震構造や設備を備えた建物は耐えられる、大津波が来ても建ち並ぶ高層ビルに逃げ込めば大丈夫、土砂は山がないから大丈夫、ライフラインについても、ありとあらゆる企業が揃っているのだから、最優先でなんとかできるだろう、等と思っていないか。きっと思っている。首都は何をおいても第一に守られるものと確信している。

 いい気なものだ、ただそう都合よく思い込んでいるだけだ。実際にはどうか解りはしない、あっさりと違う地に首都が移転されて、ほとんどほっぽらかしにされるかも知れない。

 高い所から灰色調の景色を見下ろしていると、こういうくだらない思考に浸ってしまう。長年続く妻の浪費癖、家事への無関心、成人手前の一人娘からの、年々度合いを増していく侮蔑の眼差しを思い返すだけで東京の滅亡を、庁内で散見する癒着、贈収賄、多種のハラスメントといった汚職への苛立ちからは日本の滅亡を、そして今、その汚職との過去の自らの係わりへの嘆きからは、いっそ世界の破滅までを望んでしまっている。

 合同庁舎高層階にある広い会議室の隅に、二人の男が立っていた。他には誰もいない。二人共に同様の半袖白ワイシャツに、下は濃紺色のスラックス姿だ。

 窓の外を眺めながら、物思いに浸っていた男が振り返った。

「放っておいてもいいんじゃないのか?」警視庁刑事局捜査第三課長の戸谷とたに敏弘としひろ警視、五十二歳が言った。浅黒い肌、年齢相応の深い皺が額、目じり、頬、顎元に刻まれている。白髪が多く交った頭髪を七三に分けていて、落ち窪んだ目が、神経質そうな印象を与える。背が高く、やや痩躯だが、腹回りはぽっこりと出ている。

「私もそう思わない訳でもないのですが」同じく捜査第三課第二係長の真壁まかべ康二こうじ警部、四十三歳が答えた。染めていると思われる真っ黒な短髪、たれ目と同じ角度のヘの字口で、常に不満そうに見える。身体つきは肩幅が広くごつごつとした感じだが。実際は贅肉の比率が高くなっていて、背も戸谷より頭一つ分低く、ずんぐりとした印象だ。

「もう五年も経っているんだ、今更どうするつもりもないだろう」戸谷は腰に手をあてた。

「そうだといいのですが」

「何度も聞くが、間違いないのか、勘違いの可能性は?」

「間違いありません、何度も写真で確認致しましたし、後日名前も確認する事ができました。第一、私の静止を振り払って逃げたんですよ、しかもその際、一緒にいた男が二人の警察官を突き飛ばしてね」

「その男は何者なんだ?」

「解りません、それについては全く情報がないので」

「柏市警察にいた理由は?」

「それは、半年前にこちらで逮捕した複数窃盗犯の別のヤサが、柏市にもあったという事で、証拠品のですね…」

「それは聞いたよ、お前の事じゃなく女の事だ」

「ああ、失礼しました。女が訪れた件については一切の記録がないのですが、署内で突っ込んだ追及をしたところ、知る者がいました」

「突っ込んだだと?」戸谷が睨んだ。

 真壁は焦った様子で「いいえもちろん、理由の説明等はしておりません、上の方まで話を通してみただけです。また、嘘を言ったわけでもありません、あくまで知り合いを尋ねるといった程度に済ませております」と返した。

「で、どうした?」

「先日署長自身が電話をかけてきたのですが、名前と容姿以外、詳しい事はわからないと。ではなぜ名前を知っているのか尋ねたのですが、とにかくそれ以上の事は別の者に問い合わせしろ、との事で」

「別の者?」

「埼玉県警刑事部捜査一課の天童警視にと」

「埼玉? え、警視だと?」

「ええ、しかもキャリアです」

「キャリア? 一課長か?」

「いえ、課長代理です」

 戸谷は自分の口を片手で覆って、それから唇をつまむ仕草をした。「代理?」

「私と同年代なのですが、ずいぶんと変わり者のようで、何があったか察庁勤務はわずか一年、三十を越えてからも省内勤務を固辞して、ずっと刑事部を渡り歩いていたようです」

「そりゃ相当な変人だな」

「地方大学出で、かなり上には疎まれていたようなのが理由だと思いますが、その反面切れ者という噂もあります」

「どう切れるって言うんだ」

「詳しくはまだ調べておりませんが、記録に残っていなくとも、実際多くの立件、逮捕に寄与していたとの話があるようです」

(そんな話が警察内に残っているという事は、疎んずるとも、その男を高く評価している者が多くいると言うことか・・・)

「そんな男が、あの女と何の関係がある? いったいどういう事なんだ」

「どうしましょう、下手につつくわけにもいかないんじゃないでしょうか」

「藪蛇を出す事になったら目も当てられん。それになんといっても相手はキャリアだ、今は島流しされていても、何がきっかけで、いつ上に来られるか解りゃしない」

 くそ、今大地震が起きて、埼玉県警だけでも地の裂け目に落ちて行ってしまわないだろうか、と戸谷は思った。「とにかく、まずは相談に行くしかないな」

「行くって?」

「決まっているだろう、ドンだよ、ドン」

 二回目のドンの〝ン〟の発音は、鼻を軽く鳴らしたような、Fを混ぜたものだった。

「ドンって、つまり、掛井かけいさんのところですか?」

「バカ、うかつに名前を出すな」と戸谷はくぐもった声で言った。

 真壁も同様の声で言った。「・・・も・・か?」

「なんだって?」と、戸谷は声量を少し戻した。

「私もですか?」

「当たり前だろ」

「しかし、今はあちらも大変な状況でしょう、ご迷惑になるのでは?」

「迷惑だと? こっちを放っておいても、大変な事になるかも知れんだろう。冗談じゃない、俺達こそ迷惑してるんだ、俺達は巻き込まれただけなんだぞ」

 戸谷はまた窓の外を眺めて思った(俺は一人では死なんぞ)


 天童警視の携帯電話に龍子から非通知で連絡があったのは、ハルと話した翌早朝の事だった。自宅で二時間程度の睡眠の後、シャワーを浴びて、昨晩の飲み代と長距離タクシーの代金で札を全て使い果たしてしまった財布の中身を見て、ベッドの上で下着姿のまま呆然としていた時だった。(ここ数日で十万円以上使ってしまったのだ)

 龍子の声を聞いて、自我を取り戻した。龍子は今にも眠ってしまいそうな声で、手短に用件だけを話した。今日午後八時に横浜で待ち合わせと、彼女の言うままに了承した。

 昼間に現金を引き出し、無理やりに仕事に都合をつけて、午後六時半には署を出た。帰宅ラッシュで混雑する横浜駅西口を出て南に向かって十数分歩き、繁華街の横道に入った。小さなネオンサインの看板がいくつもかかった古い雑居ビルが建ち並んでいる。それらに挟まれた場所に、待ち合わせに指定された、レトロな喫茶店〈ヒマワリ〉があった。木目調のドアの横に小窓があるが、暗い店内の様子は外からは窺い知れなかった。もう閉店してしまったかのように見える。

 ゆっくりとドアを開くと、上部に掛けられた鈴がリン、とひとつ鳴った。

 薄暗い暖色系の間接照明の下、焦げ茶色のビニールソファと黒いテーブルが置かれた狭い店内。カウンターの中にいた老齢の女が立ちあがって、こちらを見た。女はいらっしゃい、と声をかける事もなく、店内を歩く動きに合わせて、ただじっと顔を向け続けた。丸くて柔和な顔つきだが笑顔はなく、かといって不審げなものでもない、ただ力の抜けた素の表情だ。天童はなぜか視線を外せず、逆に誘導されているような気分になった。

 その女性の向かいのカウンター席に、黒っぽいスーツ姿の男が一人座っていた。男は座ったまま椅子を回して、天童に身体を向けた。

 イスの軋むような音を聞いて、ようやく天童は老女から目を離し、男の顔を確認した。ああ、と天童はその顔に気づいて、記憶を辿った。「あんた、村井さんか」

「ひさしぶりだな、天童さん、少し太ったな」

「あんたは逆に痩せたようだな、どこか身体を悪くしたのかい?」

「あいにく、ぴんぴんしてるよ」

「そうか、あんたはずっと追い回しているって事か」

「そう言うあんたはどうなんだい、諦めたんじゃなかったのか?」

「安心した。今の口ぶりじゃあ、龍子とあんたが付き合っているという事はなさそうだ」

 にやにやと、つくり笑顔で話す二人は、明らかにお互いへの侮慢を示し合っていた。

 レフェリーのように老女が間に入った。「コーヒーでも飲むかい?」低く、濁った声だ。

「いや、いいよ」と村井が答えた。「すぐに出るから」

「俺は別にあんたに会いに来たわけじゃないんだけどな」と天童。

「これから連れて行く」

 村井は立ち上がって、カウンターテーブルの端の天板を折って、中に入った。

 村井の手招きに応じて、天童も同様に入っていく、カウンターの奥に入ると、流し台や冷蔵庫の他、電子レンジや炊飯器等が所狭しと置かれた狭いキッチンがあって、そのさらに奥にステンレス製の勝手口のドアがあった。

 店の裏口から出て狭い路地を抜けると、さっき通った繁華街へ出た。それから数分、賑わう通りを二人は黙ったまま歩いた。繁華街の熱気、湿気、すれ違う人々の喧噪、すえた体臭と香水、酒が交りあった臭気が、最近寝不足気味な天童にはこたえた。軽く吐き気を催して、右手で口を覆った。やや方向感覚を狂わされていたが、大体の位置、駅からそう離れてはいない事をしっかり認識していた。

 やがて、また路地に入った。ごみ箱が所々に置かれた裏道にある非常口から、二人はビルに入った。

「ずいぶんまだるこしいな、俺はそんなに警戒されているのか?」と、天童が村井の背に向けて言った。

 村井は前を向いたまま「さあな、警戒していないって事はないだろうな、だがまあ、まだ誰かにつけられているって事はなさそうだ」

「一体、俺のいない間に、龍子ちゃんに何があったんだ?」

「それは直接聞くんだな」

 裏口の階段から二階へ上がって、通路を歩くとキャバクラ店の入り口があった。ゴールドとプラチナの配色で、バラの花が描かれた大きな看板が壁に貼られている。店名はアルファベットで reineレーネ とある。

 通路に沿った壁には、若く美しいミニドレス姿の女達が立ち並んだ写真をプリントした、大きなパネルポスターがかかっている。天童は何気にポスターを見たが、龍子の姿はなかった。先日会った龍子から、彼女が以前からこういう店で働いているという事を聞いていたが、あらためて、性風俗のものではなかった事に少し安堵した。

 赤い絨毯が敷かれた通路を少し進むと、黒服姿の男が、劇場にあるような厚みのあるドアを開いて二人を招き入れた。店内には大音量が鳴り響いていた。

 ハルと会った千葉の〈クラシオン〉と比べると随分広い、百五十平米程ありそうなフロア。大きなソファがいくつも並べられていて、各テーブルの上には多くのボトルとグラスが置かれている。客席はほとんど埋まっていた。キャストも含めると六十~七十人程の男女がいる様子が、(明らかにキャストの数が客数に対してマイナスだろう)暗くした照明の下でも確認できた。

 天井の梁に設置された、いくつかの可動式LEDスポットライトの光が、ホール中央のステージに集約されていた。そのステージでは、黒色の上下セパレートのセクシー衣装を着た若い六人の女が、後ろに控えた、首にいくつもネックレスをぶら下げたDJが流すヒップホップミュージックにのせて、やや不揃いで拙いダンスを踊っていた。

 二人はステージから離れた端の席に案内された。メニューを手渡されたが、村井は開かずに、ウイスキーのボトルを出すよう要求した。やがて、ボトルと共にグラスと氷が運ばれて来た。運んできた黒服姿の男は井達いだち喬史たかふみだった。

「よう、ここで働いているのか」と天童が言った。

「はい、毎日ではないですが」

「龍子を呼んでくれよ」と村井。

「今はダメです」

「なんで?」

「なんででもです」

 喬史はテーブルに全て置くと、そそくさとバックヤードに戻っていった。

「彼、確か龍子ちゃんと同じ施設の出身だって聞いたけど」

「ああ、そうだ、ずっとくっついてやがる。忌々しい奴だ」

「龍子ちゃんの男なのか?」

「バカ言え、弟みたいなものだよ、確かまだ二十五、とか六のはずだ」

「その年齢差じゃ、男女の関係になるのにおかしな事はないだろう。俺たちなんて龍子ちゃんより十以上も年上だぞ」

「龍子は年下好きじゃない」

「なぜ解る?」

「あんたよりかは、龍子の事を知っているつもりだよ」

「龍子ちゃんは、ここで働いているのか?」

「そうだ」

「どのくらい前から?」

「うるさいな、自分で聞きゃいいだろう」

 村井は自分のグラスにウイスキーを注ぐと、天童の方にボトルを差し出した。

「いや、俺はいい。最近飲み過ぎだから」

「俺のおごりだぞ」

「ありがたいが、ホントに飲みすぎなんだ」

「そうか、もうお互い年だからな、身体には気をつけないとな」と言って、村井はグラスに口を付けた。

「龍子ちゃんとあんたとは、ずっと付き合いが続いているのか? その、彼女が警察を辞めてからも」

「ああ、まあな」

「なぜ警察を辞めたのか知っているのか?」

「だから、その辺の事は直接聞けばいいだろ、何度言わせるんだ」

「そうか、そうだな」

「龍子も話すつもりでいるだろうよ」

「なんか、ドキドキしてきちゃったな」

「アホか」村井は片眉を上げて、天童に軽蔑を示す表情を向けた。

「龍子の話を聞いたら、もう後戻りできないぞ、覚悟はあるのか」

「そりゃ聞いてみないとわからん」

「じゃあ聞くな、帰った方がいい」

「そうはいかん、龍子ちゃんの方から俺に連絡をよこしたんだぞ」

「ほいほい飛んできたんだろう?」

「そうさ、まだ彼女に惚れてるからな」

 ぬけぬけとぬかしやがって、そう思いながら、村井はグラスに残った酒を飲み干した。

「龍子との話は手短に頼むぜ、その後、俺とアフターの約束があるんだからな」

 ぬけぬけと・・・、天童は苦々しく思った。

 曲を締めくくる大きな電子音が鳴り響いた。ステージでは半裸の女たちが寄り添い、各々セクシーポーズを決めて並び立っていた。客席から拍手と歓声があがった。指笛を鳴らし、女達の源氏名を発して呼びかけていた。女達はステージを降りて、手を振りながら客席を通り抜け、バックヤードに下がっていった。すぐに着替えて、接客につくためだ。

 フロアの照明は点かないまま、スポットライトはステージに向けられたままでいた。DJが機器を操作していると、ステージ前にハンドマイクを持った黒服姿の中年男が現れた。

 DJは慌ててステージの上に大きい厚めの朱色の座布団をひとつ敷くと、足早にステージを降りた。

 浅黒い肌をした中年男は、興奮しているような様子で、「皆様、拍手及びご声援ありがとうございました。さて、レーネの週末限定プレミアムショーはまだまだ続きます。次はファンの皆様お待ちかね、久々の登場となります。さすらいの美人女流落語家、アンダーグラウンドエンターテイナー、裏真打ちクイーン、杜若かきつばたぽぽろんさんの登場です!」と勢いよく捲くし立てた。

 すると、ステージの両脇に置かれたスピーカーから録音された三味線、笛、太鼓の大きな音が流れ出した。落語の出囃子、メロディーはずっと昔に聞いたことのある、とあるお菓子のテレビコマーシャルで流れていた、軽快でアップテンポのものだ。

~ちゃかちゃんちゃんちゃん、ちゃかちゃんちゃん♪~

 一斉に拍手と歓声が巻き起こった。釣られて、村井と天童も拍手した。

 浅黒い男と入れ替わりに現われ、ステージに上がった茶色の巻き髪をポニーテールに結いて、青紫色の花柄模様の着物を着た女は、座布団の上に正座すると、手をついて深々とお辞儀した。

「ぽぽろんちゃーん」「大好きー!」と、所々で野太い声が上がった。

「本日は、客席一杯のお足運び、まことに感謝申し上げます」

 甘く、落ち着いた声がスピーカーから流れた。着物の左前の襟元には、ワイヤレスマイクが取り付けられていた。

 女流落語家のその馴染みある声と美貌は、ステージから一番離れた客席からでも、十分認識できた。

「お初に目にかかる方もいらっしゃるかと存じます。わたくし、杜若ぽぽろんと申します。よろしくお見知りおきの程を願います」

 口を開けたまま、天童は村井に目をやった。

「知らん、解らん」と言って、村井は首を振った。

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