第23話 CHAPTER 7「Lights below PART 2」
龍子から仕事の邪魔にならないよう自分から行く、との電話連絡をもらって、午前中に時間を作ったのだったが、話したいことの一割も話す事ができなかった。
なじみの喫茶店に入ってから十分ほど待って、龍子は約束の時間よりほんの二、三分遅れで現れた。祝日の昼前では、店内の客は自分の他には老夫婦が一組だけで、手を挙げるまでもなく、龍子は自分の姿をすぐに見つけて、向かいの席に座った。
「わざわざありがとう」と、笑顔で挨拶をすると、龍子はすぐに「天童さん」と続く言葉を遮るように言って、その後リュックのファスナーを開きながら「アイスコーヒー下さい」と店主に呼びかけた。
「尾行されているわ。わたしじゃなく、あなたが」低めの、落ち着いた声だった。
「俺にかい?」
「通りの向かいに、黒い車が停まっていたわ」
「どうして解る?」
「わたしはあなたがこのお店に来る前から張っていたのよ。徒歩のあなたをつけていたから、ずいぶんおかしな挙動をしていたわ」
「なら移動しよう」
「いいのよ、顔を確かめるわ」
「店に入って来るのか?」
「もう車が動いているでしょう。すぐそこにパーキングがあったわ」
外を見て、確かめる事はしなかった。
「話したい事がいっぱいあるんだけど…」
「天童さん・・・わたしの事、本当にまだ好きでいてくれているの?」
「ああ、そうだよ」精一杯にこやかな表情のつもりで、そう言った。
「ありがとう、とても嬉しいわ」
龍子は言葉だけでなく、本当に嬉しそうな、眩しいばかりの笑顔を見せてくれた。着ていた服装が付き合っていた当時を思い出すものだったせいもあって、年甲斐もなくときめいた。そりゃあもう、ときめいた。
「それじゃあ、面倒をかけるわね」 龍子はリュックの前ポケットを開いて、小さく折り畳んだ紙を差し出した。「わたしの携帯電話の番号よ。できる事なら登録はしないで頂戴」
「いいのかい?」と言って受け取ると、紙だけではないことがわかった。
店主がアイスコーヒーを運んできた。龍子の容貌を確認すると、グラスをテーブルの上に置いた時に、ちらりとこちらに、(腹立たしく思える嫌らしげな)笑顔を向けた。どうか何も言わずに戻ってくれ。その細やかな願いは叶えられた。
「ホントは携帯もこっちで用意するつもりだったけれど、まあ、まだそこまで心配する事もないでしょう。お金もかかるし、第一めんどくさいわ」
「じゃあ、色々と話してくれるんだね」
「どこまで話すかはまだ解らないわ。あなたの事は信じているけれどね…わたしが恥ずかしいのよ」
「恥ずかしい?」
「今後、もしも迷惑に思ったり、危害が及ぶ事になったら、いつでも離れてくれていいわ。前以て断ってくれさえすればいい」
「・・・わかった」 それは絶対にない、と本心を言ってやりたいところだが、そのセリフを言うには自分は年を取り過ぎているな、と思った。
来店を知らせるチャイムが鳴った。天童は眼球だけを動かして確認した。
振り返って堂々と入口に顔を向けた龍子が、「多分、警察官でしょう?」と呟いた。
「ああ、そうだな」
半分トレーニングだと考えて公園内を早足で歩き回ったのだが、とてつもなく暑い中で、息が切れ切れになってきた。自動販売機でペットボトルの冷たい水を買って飲むと、喉から胴体内部に冷気が行き渡る快感に、天にも昇るほどの気持ちになった。いっそ頭から被ってしまいたいが、こんな美女が水を滴り落とすとなると、こんな広い公園の中であっても、きっと人目を引いてしまうだろう。一応尾行を撒こうとしているのだから、それはまずい。しかし、とてもこれ以上歩き回る気にはなれない。
体力がずいぶんと衰えたのだ、と龍子は思った。三十代になったばかりだが、それでも二十代の時と比べると大きく違う。疲労を感じやすくなって、かつ回復が遅い。それだけじゃない、食事の量が減った。その分運動量も減らしてしまっているせいか、特に痩せても太ってもいない。でも筋肉量は減ったのだろう。
性欲も減った、というよりほとんど無くなっている。二十代前半の自分を思い返すとまるで別人だ。今と比べると、昔は淫乱と言われても仕方ないレベルだっただろう。男に身体を委ねる気になれなくなったのは、間違いなく、男にお腹を刺されたせいだ。あの時の恐怖と痛みは、はっきりと自覚できる程に、心と体に刻み込まれたままになっている。きっと一生消える事はない。
ひどい目に合わされたのだが、別に男そのものが嫌いになったわけではない。天童さんや
自分を想ってくれている、きっと信頼には全力で応えてくれる男たちに、だからと言って全てを頼ってはいけない。自分で始末をつけなければ、わたしはいつまでも彼らの愛情にきちんと応えられないままだ。…まあ、多少は手伝ってもらうけれども。それに、単にわたしの腹の虫が治まらない、っていうのも多分にあるけれど。
約束の時間が近づいた。そろそろ駅に向かわなくちゃならない。水をもう一口飲んで、歩き始めた。物陰の少ない公園では、あたりが良く見渡せる。さっきの男達の姿は見当たらない。女の子だらけのカフェに、おっさん二人が別々に入ってきた時は驚いたけれど、きっとわたしが気づいている事も解っているのだろう。人を変えて、まだ後をつけているかもしれない。とにかく
「暑いな、なんでわざわざこんな所で立って話さなきゃならないんだ?」と、龍子よりも十センチ程背が低い、野球帽を目深に被った中年の男が不満そうに尋ねた。
「わたしに尾行がついているのよ。あなた、まともに写真なんか撮られてもいいわけ?」
「尾行? なんだ、あんた本気で国会議員にケンカ売っているのか。よくやるよ」男は帽子のつばをさらに下げた。「それで何の用だ?」
龍子は手に持っていた小さめのリュックを開けて、少し中身のものを弄ってから、男に見せた。中には化粧ポーチや折り畳んだTシャツ、黒のハンチングキャップを底にして、飴が入った袋とペットボトルの他に、ハンディタイプのビデオカメラが入っていて、開かれた液晶モニターには、録画された映像が静止画で映し出されていた。
リュックを覗き込んだまま男は言った。「誰? このおっさん」
「あなた知らない?」
「え? これじゃあ解りにくいなあ」
静止画はリュックの中から隠して撮られたもので、両サイドは真っ暗、ピントを合わせた中央画面の上部に、小さくあおりのついた顔が映っている。
「おそらく刑事よ、本庁のね」
男はリュックから顔を離して、龍子の横に立ち並んだ。
「ふうん、そう言われると、なんか見覚えがあるように思えるな。俺に尋ねるって事は、つまりはそういうタイプの、って事だろ?」
「それから、町田って名前の、裏稼業の男を知らないかしら?」
「町田…知らんな。そもそも名前なんてアテにならんからな」
「掛井と繋がりがある男よ。ホントは知っているんじゃない?」
「ふん、どっちにしろ、なんでお前にそんな事教えなくちゃならないんだ」
「あら、じゃあどうして来てくれたの?」
「・・・あいつはどうしてるんだ?」
「元気にしているわよ。あの子器用だし、体力もあるから色んな仕事ができるの。何をやっても食べていけるわ」
「そうか、確かに器用だ」
「髭に伝えておいて、お金は払うわ。だからもうあの子には構わないで」
「どうだろうな、何せあいつはボスのお気に入りだ」
二人は少し場所を変えて、多くの人が行き交う駅出入り口前の中央に立った。
「町田って奴の話は聞いた事がある、もちろん本名じゃないがな。お前の言う通り、裏稼業…事件屋って奴だ。掛井だけじゃなく、政界、財界、警察、ヤクザとも繋がりがある、危険なタイプだろうな」
「そう、やっぱりそういう奴がいたのね」
「お前の手には負えないんじゃないか。 どうだ、手助けしてやろうか?」
「悪いけど、あなた、わたしのタイプじゃないの」
けっ! 男は思わず顔をあげてしまった。慌てて下げ直してから、「冗談じゃない、俺だってお前みたいな高飛車な女は嫌いだね。女は器量じゃなく、気立てが良いのが一番だ」と言って、横目で龍子を睨んだ。
「気立てのいい人が、あなたみたいな如何わしい男を相手にするわけがないでしょう。どうか笑わせないで頂戴」と言って、龍子は口の前を手で隠して笑った。
「俺はお前が自分で言う程の美人だと思えねえな、整っちゃあいるが、面白みのない顔だ。チャームポイントがないよな。表情も冷たくて、好きになれんな」
「そりゃそうよ、あなたが嫌いなんだもの。愛嬌はしっかりと封をして隠しておりますわ」
鼻息をひとつ鳴らして、男は龍子から顔を逸らした。
「あいつを返すなら手を貸してやる。嫌なら勝手にしろ、殺されちまえ」
「返すの返さないの、物じゃないのよ、あの子自身が選んでわたしの傍にいるのよ。当然の事じゃない、幼き頃から憧れた麗しきお姉さんをさしおいて、むっさいくっさいちっさいおっさん達の元になんて、いられるわけないじゃない」
「ちっさいのは俺だけだ、誰がちっさいおっさんだ。お前がでかいだけじゃねえか。並んで立つんじゃねえよ、くそ」
男は龍子との距離を、人一人分だけ空けた。
割と表情豊かでからかいがいのある男だ、と前から思っていた。自分に対して本気で敵愾心を抱いている分、村井さんを相手にする時よりも遠慮なく、嗜虐性が刺激される。
「髭から言われているからな、少しだけなら調べてやる」と、団子鼻をすすって、いじけた感じで男は言った。
「ああ、それともうひとつ」と龍子が言った。
駅に向かう通行人が二人の間を通って行った。仕方なく、男は龍子との距離を詰めた。
「あの男、どうしてるの?」
「あの男?」
「
「お前にはもう関係ないだろう」
「そうは行かないわ。調べ上げたんでしょう? どうなの、あの男は本当にやったの?」
ああ? 表情を消してから、男はさらに龍子に近づいた。
「調子に乗るのもいい加減にしろよ、な」
「・・・そうね」
龍子はしゃくりあげそうになった呼吸を止めて、男がその場を離れて行くまで必死に堪えた。最後に平静さを失ってしまった自分の様子を振り返って、龍子はこの後大いに悔いた。
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