第24話 CHAPTER 7「Lights below PART 3」
平成十九年、山梨県大月市で起きた女子大生殺害事件。容疑者が絞れず、未解決となったまま。平成二十二年に殺人の公訴時効が廃止されたため、事件はまだ、いや、解決するまでずっと捜査中となるのだが、実際のところ捜査はもうほぼ打ち切られていて、お宮入り状態となっていた。
天童の訪問に応じてくれたのは、電話応対をしてくれた一課長ではなく、当時の捜査官の一人、現警務部に勤める、天童と同じ年代の男性巡査部長だった。
膨大な捜査資料については、既に資料課のデータベースで閲覧していたのだが、とても全てを確認する時間的余裕はなく、持って回った文章では、どうにも要領を得ないでいた。当時の捜査を知る者から直接話を聞く事が、何よりも捜査の流れをイメージし易い。そう考えて、休日を犠牲にして山梨まで出向いたのだった。
捜査本部の設置経緯、担当管理官や鑑識結果など、すでに知り得ていた情報に余計な時間を割かれながらも、傾聴の姿勢を崩さなかったおかげで、巡査部長は捜査資料に載っていない、当時の捜査官達の心境等を色々と語ってくれた。
若い女性の殺害という事、被害者の遺留品や着衣の状況等から、早い段階で動機は物取りや強姦目的ではなく怨恨、容疑者は男性の可能性が高い、との予測が立った。もちろん初動段階では通り魔的犯行や女性の犯行も範囲内だったが、不審人物の複数の目撃情報のその全てが、二十~四十代の男の姿で会った事、一回のハンマー等による頭部殴打で被害者の頭蓋を砕き、死に至らしめている事から、捜査官達の容疑者に対するイメージは自然に固まっていった。
女子大生という事で異性との交友関係は広く、聞込みを行った関係者は最終的におよそ三千人にも及び、怨恨の可能性を持つと考えられる容疑者は二十名ほどあがった。容疑者はほとんどが男性、つまり動機は男女間のトラブルと言う線だった。しかし殺人もしくは傷害に至るまでの動機となると、全てが弱く、またアリバイの裏付け調査を進めて行くと、容疑者はどんどん減って行って、最終的にはゼロとなった。
そこで改めて捜査の枠が広まり、目的のない、通り魔的な犯行という線での調査が行われたが、捜査が遅れたためか、もともとその捜査を進めるには、あまりに証拠や情報が乏しすぎたためか、進展はなかった。
巡査部長は当初より無差別犯行の可能性を考慮して、もっと目撃情報や周辺監視カメラの精査、それに基づく聞込み調査の徹底を重視するべきだったと、少しの上層部批判を交えて語った。時が経ってからの再調査では、証言者達の自信も揺らいでしまっていて、捜査官達も足元が定まらなかったのだ、と。
どうだろうか。通り魔にしては、これほど形跡や目撃情報が少ないのは偶然が過ぎるのではないか。深夜とはいえ、被害者の死体発見時刻が犯行予想時刻よりも大きく遅れた事、監視カメラは、十年前は現在よりもずっと少なかったから致し方ないとしても、周辺の容疑者の目撃情報も少ない事等、随分と恵まれたものだ。多少の下調べ、つまりは計画性があったのではないか。計画性があったからと言って、無差別ではないとは限らない。はっきりした動機はなかったかも知れない。・・・動機が殺人衝動そのもの。単に若い女を殺したい、というサイコパスによる犯行であった場合は?
自分が考える事くらい、捜査本部でも一つの可能性として検討された事だろう。しかし一度捜査方針の大きな波を見つけてしまうと、皆がその流れに乗ってしまう。決して一人サーフボードを担いで、別の行先を求めて船から飛び降りる事など、できはしないのだ。
それから巡査部長は、事件から二年余りが経過した頃、捜査本部が幾分縮小されていた中で、一人の容疑者が捜査線上にあがった事を話してくれた。その情報は膨大な捜査資料の中から見落としていた部分のひとつであって、わざわざ山梨まで出向いた甲斐を見出せたものだった。…山梨だけに。
その容疑者は当時東京都八王子に住む二十四歳フリーターの男で、名前は
しかし車や電車で一時間とかからない距離や、アリバイの不確定、目撃証言による不審者との年齢や体格の一致、そして何より容疑者本人の人格、性質に強い疑いがあった。
ところが東京との協力体制を整える段階にあった矢先に、信じられないポカが起きた。容疑者としてマークされた塩崎を、監視する人員が割かれていなかったのだ。平成二十二年の三月未明より、一人暮らしの塩崎は賃貸マンションに私物を残したまま、行方を眩ました。塩崎は重要参考人の一人として、現在もその行方を追っている事になっているが、翌年の三月に起きた東日本大震災をきっかけに捜査本部の人員は大幅に割かれ、事件は迷宮入りの様相を呈していった。
さて、この塩崎と言う男と二村岳人は、はたして繋がるのだろうか。
巡査部長にも、それから手配してくれた一課長にも、二村の事は詳しく話していない。信憑性の低い容疑者情報があった、という事だけを伝えた。島流しされたキャリアが、起死回生のための手柄をむやみに探し求めている、とでも思ってくれればいい。
龍子と馴染みの喫茶店で会った日の夜、天童は自宅の寝室で、彼女に手渡された用紙を開いた。彼女の携帯電話の番号が書かれている他に、紙には一枚のマイクロSDカードが包まれていた。
スーツの上だけを脱いだままの格好で、天童はデスク上のノートパソコンの電源を入れた。引き出しの中を漁って、小さなプラスチック製の箱からカードリーダーを取り出すと、手際よくUSB端子に差し込んだ。
SDカードにはМP3(音声ファイル)が書き込まれていた。その中身は先月の二十五日、柏警察署で聞いた龍子の話〈殺し屋スカウト〉の実況を録音したものだ。天童は龍子が帰った後、SDカードを見た時からその中身を予測していた。内容はほぼ龍子の話の通りで、録音されているのはレストラン(と思われる舞台)での顛末。それ以前の様子のものはない。銃声が、まるで本物に聞こえるのが不安だが…。龍子に山梨での殺人が自分の仕業ではないのか、と問われた時の二村の反応が、音声だけではなんとも言えないが、全くの無関係とも思えない。
天童はベッドの上に脱ぎ捨てていた上着からメモ帳を取り出すと、しばし確認作業に時間を費やした。事件発生当日の深夜、現場付近、駅付近の不審者の目撃証言の内、二十~三十代の男二人連れというものが三件ある。塩崎と二村の共犯と言う線は? 二村が塩崎を始末したと言う可能性は? そして、なぜ龍子はこの事件を俺に調べさせているんだ?
二村岳人・・・現在三十四歳、独身。住所、勤務先はすでに調べ上げている。非嫡出子、つまり父親は不明。母親は二村
机の上に置いた紙を見つめた。きれいな数字で、龍子の携帯電話番号が書かれている。
今日はもう遅いし、電話をかけるのはやめておこう。もう少し、二村の事を調べてから。
大きめの着信音を鳴らす携帯電話のディスプレイは、非通知を表示していた。Tシャツと短パン姿の掛井
「はい、もしもし」と少し不機嫌そうに掛井は言った。眼鏡をかけておらず、髪の毛がまだ乾いていない。
「わたしよ」と、高い声が鳴った。
掛井は一瞬息を詰まらせてから、「お前、なぜこの番号を知っているんだ!」と怒鳴った。
「うるさいわ。 そんな事より、あれから一週間経ったわよ。一向に動きが見られないようだけど」
「動きだと?」
「財産を全て処分して、わたしと国民に弁償しなさい、と伝えたでしょう? それから全ての罪を告白して、自首しなさい」
「何をバカな」
「する気ないのね、じゃあ覚悟なさい」
「待てっ! 待ってくれ」 掛井はリクライニングチェアに深く腰かけて、一息入れてから、声をかなり小さくして続けた。
「君が求めているのは、詰まる所は金だろう?」
「先に述べたとおりよ」
「金を払って、さらに自首など、するはずがないと君も解っているはずだ。君が言っているのは二択だ。金を払うか、面倒なことになるか。本当のところ、私が罪に問われるかどうか、怪しいものだと思っているのだろう?」
「…そうね」
「じゃあ、お互いが妥協するべきだ。なんだったら、君が復職できるよう取り計らってやってもいい」
「いいえ、警察に未練はないわ」
「そうか、さあ条件を言え。交渉だ」
「現金で三億、それとあなたの政界引退と、息子さんの政界進出の辞退、ついでにあなたの残りの生涯をかけてのボランティア活動、ええと、他には…」
「ふざけるな! 三億だと? そんな金はない!」と、また怒鳴り声に戻った。
「交渉する気はないわ」
「ならば地獄へ行け!」
「いや」 そう鳴って、電話は切れた。
携帯電話を切ると、龍子はそれを傍に立つ喬史に手渡した。
「処分しておいて」
「わかった」 喬史は受け取ると、すぐに携帯からバッテリーを外し、SIМカードを抜いて、それぞれをズボンのポケットにしまった。
龍子はリュックから自分のスマホを取り出すと、着信を確かめた。喬史とさやかさんの他に、本日の着信はなかった。
厚い雲に覆われはじめているのか、上の夜空には星も月も見えず、反して煌びやかな幾つもの光の粒が、下に行くほど密集し、うねりを打っていた。高い所が好きなわけではないが、この後下に降りて行って、あの光の渦にのみ込まれないと帰れない、と思うとうんざりする。龍子は窓からの景色を見下ろしながら、大きくため息をついた。
「何もこんな所で食べなくてもいいのに、高かったんじゃないの?」喬史が心配そうな表情で龍子を見つめた。
「いいじゃない、たまには贅沢しなくちゃ。美味しかった?」龍子は笑顔で振り返った。
「うん、でも、こんな格好で良かったのかな」
「平気よ、何も言われなかったじゃない」
「そりゃ龍子さんはカッコいいから…」
喬史は普段の格好…白いTシャツに赤いチェックのネルシャツ、ベージュ色のパンツ、龍子は昼間の格好から、Tシャツを黒色のものに着替えていて、黒のキャップを手にしていた。
「さあ、帰りましょう。もう遅いわ」
そう言って、エレベーターホールに向って歩き出した。さっきまで二人で夕食を食べていた、ホテルのレストランの入り口を横切った。
「送って行くよ」
「あなた、明日も仕事早いんでしょ?」
「大丈夫だよ、そっちで寝て、始発に乗って行けば」
「駄目よ、ちゃんと眠っておかないと」
「平気だよ」
「駄目、私は大丈夫」
エレベーターの扉が開いた。龍子はキャップを目深に被り、喬史に寄り添って腕を組んだ。「さあ、下界に帰りましょう」
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