第22話 CHAPTER 7「Lights below PART 1」

 土曜日から始まった三連休の最終日、つまり祝日である月曜日の午前十一時に、氷川ひかわ龍子りゅうこ天童てんどう警視の前に現れた。場所は天童が勤める埼玉県警察本部から少し離れた、浦和駅の東側にある喫茶店。天童は勤務中でスーツ、氷川龍子は大きく開いた丸首の白いTシャツとデニム、ベージュのスニーカー姿。黒のリュックを持っていた。

 それぞれがアイスコーヒーを少し飲んだ後で、それ以前の、氷川が店内に入ってからおよそ五、六分程度の会話は確認できなかったが、以降の店内での会話は全て録音している。


「龍子ちゃんの言う通り、そこの所はこちらでも疑問を抱いているんだ。だけど、今のところ、それは偶然という線で考えている」

「つまり、首が締って死んだのは結果であって、目的は事故を起こさせて、まあせめて、多少のケガをさせてやろうという意図だった、という事?」

「締っただけでなく、首の骨が折れていたんだ。丁度首の位置なんて、事前に正確に測っていたとしても、そううまく行くものじゃないだろう。その時の姿勢や、車体の微妙な角度でずれてしまう。直前にロープに気づいて、咄嗟に避ける事だってあるだろう。ヘルメットだってしていたしね。転がしてやろう、って程度に考えていたんじゃないかな」

「それで、現場の近隣住人が被疑者になっているという事?」

「ほとんど毎晩、深夜に騒音をかき鳴らしていたそうだ。そんな事を考える奴がいたとしても、おかしな話じゃない」

「そんな騒音に、警察はどう対処していたの?」

「十数回相談があって、実際一度引っ張った事はあったんだがね、厳重注意どまりだよ。ほんの一週間程大人しくしていたようだがね、ほとぼりが冷めた後、また繰り返したようだ。待ち構えて、直接文句を言った住人もいたんだが、まあ相当柄が悪かったみたいでね。次第に皆諦めていったようなんだが」

「それで、警察に相談したり、警察が頼りにならないから、勇気を出して直接文句を言った人達が今、疑われているのね」

「ああ、やんなっちゃうね」

「でも、住民の誰かを疑うならば、犯行が雑過ぎない? だって、通路にロープを張るだなんて、他に通行者がいたら、車や自転車だって大事故になるでしょう」

「そうだね、単独犯ではなく、かつ入念に練られた計画だったかもしれない。もともと深夜の交通量は少ない場所だし、ガイシャがそこを通る時間帯はほぼ同じ。準備を整える事はできただろう。バイクが通るほんの数分前に、ロープを張る事は可能なんじゃないかな」

「目撃者は全くいないの? 深夜にバイクが転んだんだから、大きな音がしたでしょうに」

「事故自体の目撃者はゼロだ。そりゃ目覚めて、外に出て見に行った住民はいたがね、三、四分のタイムラグはある。第一発見者は、ロープを持ち去る等、不審者の姿は見ていない」

「三分もあるかな、現場のすぐ前の住人は? 窓を開けて見たりしなかったの?」

「もう眠っていたらしいからね。もちろん事故の音は聞いているが、その前にいつもの騒音があって、転んだのかな、とは思ったみたいだ。しかし、誰があいつのために救急車を呼んでやるものか、なんて思って、知らんぷりしたんじゃないかな」

「そこ迄嫌われていたなら仕方ないわね、ご冥福を祈るのも馬鹿らしい、って感じかしら」

「簡単に言うなよ、いくらなんでもバイクの騒音くらいで殺されたなんて」

「おかしいかしら?」

「そりゃやり過ぎだよ、遺族は納得できんだろう」

「そうは言っても、深夜に馬鹿みたいな騒音鳴らしたりしたら、多くの人に迷惑をかけるのは解っていた事でしょう。その中には、寝不足でノイローゼになった人だっていたかもしれない。遅くまで働くサラリーマンがさらに胃を痛めて、毎晩赤ちゃんが驚いて大泣きするせいで、母親は疲労が溜まっていく、受験勉強のストレスで頭の毛を掻き毟っている学生が発狂しそうになって、病気で苦しむ老人の助けを呼ぶ声が掻き消される。単なる移動には不要なはずの過剰な排気音で、多くの人の命を削り取っていたわけでしょう。それくらいの事、どんな馬鹿だったとしても、想像できたでしょう」

「殺されて当然だ、と言うのかい」

「他人を不幸にする事で、喜びを感じていた奴よ。…たとえば、さっき複数犯だと言ったけれど、それこそ近隣住民全員が犯行に係わっていたらどうする?」

「え?」

「全員よ。それこそ住民の内、大人のほとんど、五十人から百人くらいが」

「ずいぶん突飛な事を言うね」

「だって皆が迷惑を被っていたんでしょう? 町内会とかで決めたんじゃない? それならば可能じゃない。実行犯が数名でも、皆が庇ってアリバイを証明すればいい。目撃証言もあらかじめストーリーをつくっておけばいいし、犯行に都合のいい、監視カメラがない場所を調べることだってできたはず。皆が協力すれば、ほとんど人目を気にせずにロープの仕掛けや後始末、何度もリハーサルをする事だってできたでしょう」

「無理だよ。大人達だけ、って言ったけれど、その通り、目撃者に子供がいた場合、証言にずれが生じる」

「深夜に事件の音を聞いて、現場を見に行った子供が何人いたの?」

「まあ、多くはない」

「数名の未成年の話と、数十名以上の大人の話。少々辻褄が合わないところがあったとして、どちらを信用するの?」

「まあ…大人だな」

「でしょう?」

「もっとも、未成年の証言に有益なものはなにもなかったけれど。しかしね、素人が集まって事件を企んだとして、そんなもの、すぐにボロが出るよ。事は殺人にまで発展したんだ。びびって自供してしまう者だっているだろう。第一企てていた時点で危険を感じて、離脱しようとする者だっているさ。そうなったらもう計画は頓挫だ。非現実的だよ」

「だから、そうならなかったのよ。皆が同意したから事件が起こったの。殺害に発展したんじゃなくて、殺害が目的だった。まあ住民全員と言うのは無理があるかも。でも例えば、長年信頼関係を築いてきた古くからの住人達、それでもかなり多くの人数がいるでしょう。それでも可能じゃないかしら。他の住民も、詳しい事は知らされずに、ただ黙っているだけならば、協力するかもしれない」

「・・・本気で言ってる?」

「いえ、面白がっているだけよ。でも、想像できない事はないんじゃない? 騒音は二年以上続いていたんでしょう? 警察は一度厳重注意を与えただけ。それならば、って考える人達がたくさんいても、おかしくはないんじゃない?」

「殺人はやり過ぎだ」

「ストレスで病気になった人がいるかもしれないのに?」

「皆が時間をかけて、真剣に問題に取り組んだなら、他の解決法があったはずだ」

「警察も真剣に取り組むべきだったわね」

「そんなあ、責めないでよ」

「別に天童さんを責めている訳じゃないのよ。住民が真剣に取り組んだために、そういう事件が起きた。法律も警察もまったく持って完璧じゃないのは、皆が解っている事でしょうから、自警する人だっていて当然じゃない、ってわたしは思っているだけよ」

「被害者がそういう人間になってしまった事については、社会を形成する皆が少しずつ責任と負担を負わなければならない…そういう物じゃないかな」

「大体負担を背負わされるのは、一般庶民よね」

「そりゃあ単に割合が多いからだよ」

「嫌な話になってきたわね、やめましょう」

「でも、もしそうなら挙げるのは難しいだろうな。住民全員による犯行だなんて」

「あくまでわたしの想像と創造よ。それ以外にもいくらだって考えられるわ」

「例えば?」

「例えば単純に、殺し屋の仕業とか」

「何それ?」

「だって目撃証言も、物的証拠もないんでしょ? じゃあプロの仕業よ。もしくは呪いとか超自然的な要因」

「電柱にロープの跡があったよ。それにさっき話した通り、死んだのは丁度よく首に当っての事だ。殺し屋がそんな不確実な殺し方をするか?」

「呪いはスルーしたわね。ロープの跡はフェイクよ。数日前に付けていたとして、誰が調べる? 違う場所で殺されて、車で死体を運び道路に放置した後で、別の者が同じ服装、ヘルメット姿で被害者のバイクを運転して、わざと横転させる。わざとだから当然無傷のまま、すぐさま現場を離れる」

「死亡予想時刻とずれる」

「二、三十分くらいの誤差はあるでしょう」

「三十分前に同条件で殺したって言うのか、ロープで首を折って?」

「できない? 転倒を装う服は事前に用意しておくの。服を着せるのは、殺した後でも前でも、どっちでもいい」

「できるかも知れない・・・計画殺人。でも、なんで殺し屋に狙われるんだよ」

「そんなもん知らないわ。実は裏社会に出入りしているような男だったのかもしれない。相当タチが悪かったんでしょう?」

「確かにそうだが、ただの半グレもどきで、そんな大それたものじゃない」

「そんなの、しっかり調べ上げた後でないとわかんないわよ」

「無茶苦茶だ。なんでそんな面倒な殺し方をする?」

「う~ん、合わせ技じゃない? 住民と殺し屋の利害が一致したとか。殺し屋は警察の目を住民に誘導できるし、住民は実際何もしていないから、証拠も何も出てこない。住民達の溜飲も下がる」

「どうやって殺し屋と住民が繋がるんだよ」

「さあ、そういうコンサルタントがいるんじゃない? 地域密着型の」


「なんだこれ?」赤いラインが入った黒いジャージパンツと、色落ちしたような薄い水色のTシャツを着た町田まちだは、少し笑みを浮かべながら問うた。

「どうも、先月末に埼玉県川口市で起きた事件の事を話していたようだ」多賀たがはぶっきらぼうに答えた。

「氷川龍子と何の関係がある?」

 白い大理石テーブルの上に置かれたノートパソコン上で開かれた音声ファイルは、その後の龍子と天童の会話を再生し続けていた。〝いい感じのお店ね、とてもリラックスできる〟〝お昼以外は客が少ないからね、気に入っているんだ〟〝お昼はおいしいの?〟〝丁度いい味なんだ〟それからも他愛のない会話が二分程続いて、〝今日はいろいろと約束があるのよ、天童さんだって仕事中でしょう〟という龍子の言葉を最後に、再生を終えた。

「天童との会話はこれで終わりだ。何ら意味のない会話だろう。本庁の二人はわざわざその川口市の事件を調べてみるなんて言っていたがな、バカな奴らだ」

「なぜそう思う?」

「あの女も天童も、俺に気づいていただろうな。大して客がいない店内でわざわざ近くの席に座ったからな。警戒したんだろう」

「なんだ、もうばれたのか」平坦な口調で町田は言った。

「女は天童に尾行がついている可能性くらい、想定していたんだろう。俺が店に入った瞬間から、疑いを隠そうともしない目線をこっちに向けていた。女と天童に繋がりがある事がはっきりしたんだ。構わないだろう」

 多賀はてきぱきとノートパソコンを片付け、黒のビジネス鞄にしまった。

「この後は俺の面が割れたからな、近づいての撮影や録音はできなかった」

「ふうん、まあいい。他にわかった事は? 尾行をやめたわけじゃないんだろ?」

 多賀がグレーの布地のソファに腰を下ろすと、町田も合わせるように対面に座った。

 町田が宿泊しているホテルの一室は、寝室の他に広いリビングと和室、バーカウンターまで備えられたスイートルームだ。町田は部屋に似つかわしくないみすぼらしい格好で、髪はぼさぼさで、無精ひげが生えたまま。対して、多賀が着ている濃紺のスーツ(ノーネクタイ)はソフトな生地で皺もなく、光沢がある。多賀は町田よりもずっと年上に見えて(もっとも町田は整形しているのだが)五十歳前後だろう。背が高く、がっちりした体格。厚みのありそうな浅黒い顔の皮膚には、刻まれたような深い皺が走って、やや垂れ下がっている。太い眉毛の下の厳しい目つきと、折られた事がありそうな少し曲がった鼻にヘの字口。髭はきれいに剃られており、白髪交じりの短髪は清潔そうだが、男性ホルモン過多で脂ぎった風に見える容貌だ。

「もったいつけるなよ、早く話してくれ」

「ああ」と答えながらも、多賀は何かを考えている様子をわざと見せてから、話し始めた。

「女は次に電車で浦和から赤羽で乗り換えて、渋谷駅で降りた。それから井ノ頭通りを少し歩いたところにあるカフェに入った。それで本庁の、真壁まかべとか言ったな、あのおっさんを呼んで同行させたんだが、あいつも女に面が割れていると聞いていたからな、間をおいてから別々に店に入った。なにしろほとんど女ばっかりで、しかもほぼ満席だった。目立っちまう上に、通された座席は女から離れちまった。真壁の席の方が幾分近かった。奴には一応帽子と伊達眼鏡をかけさせたがな、怪しい事に変わりはない」

「そりゃあいい、笑えるな。何を注文したんだ?」にやけた顔で町田が言った。

「ほっとけ」(多賀が注文したのは、山盛りのホイップクリームがのったパンケーキとアイスコーヒーだった。なぜか真壁も同じものを注文していた)

「それで、女は一人か?」

「いや、相手がいた。天童の時と同様、待ち合わせしていたようだ」

「どんな奴だ?」

「高校生くらいの女だ。制服を着ていた」

「女子高生?」

「ああ、きれいな顔した子だった。氷川龍子と合わせて、随分周りの目を引いていたよ。

・・・いや、目立っていたはずなんだがな、 俺にはそう見えた」

「見えた?」

「いや、俺はその二人を見ていたんだが、真壁は一人だったと言うんだ」

「はあ?」

「真壁はその…氷川龍子一人だった、と言っているんだ。その女子高生の姿は見ていないと。あいつの方が俺より女の近くに居たんだ。見えなかったはずはない」

「はあ、なに? なんですって?」少し茶化すような口ぶりで町田が言った。

「テーブルにはそれぞれフルーツが山盛りに乗っかったパンケーキや飲み物が、ちゃんと二人分置かれていた。間違いない」

 多賀は落ち着いた物言いのままだったが、表情は険しくなっていた。その疑念を示す表情は、真壁に向けたものなのか、それとも自分に向けたものなのか。

「一時間ほど経って女達が店を出た後、メールで女子高生の後を追うよう真壁に指示を出したんだが、奴には何の事か解らず、店を出た所でぼうっとしていやがった」

「真壁がアホすぎる、って話じゃないのか?」

「言い訳にしても無理があるだろう。女自身いなかった、と言い張るなんて、それに・・・」

(なんだか、真壁にそう言われた時、妙な気分になった。フィルムが貼られたガラス壁からうっすらと差し込む陽光を背に、ふんわりとした長い茶色の巻き髪を胸の前に垂らした、マネキンのように整った顔立ちの氷川龍子と、光をあびた真っ白な肌、シャンプーのテレビCМに出てくるような美しく、長いストレートの黒髪と、はっきりした目鼻立ちが強い印象を与える、紺のリボンを胸元につけた制服姿の美少女の姿が、美術に凝ったプロモーションビデオのような非現実的な光景に思え、カフェにいる間、転寝うたたねでもしていたのだろうか、と自分を疑った)

「その女二人の会話は?」

「…さっき言った通り、俺との席は離れていて、会話は聞き取れなかった。まさか店内で集音マイクを取り出す訳にもいかないしな。真壁に持たせたICレコーダーの記録も、近くの客の声と雑音だらけだった」

「写真か動画は?」

「女だらけの店内でそんな振る舞いができるかよ」

 町田はふん、とひとつ鼻息を鳴らしてから、呆れたように「じゃあ仕方ないな」と言った。「それで、氷川龍子のあとは?」

「もちろん尾行は続けた。だがな、言っておくがそもそも一人や二人で尾行なんてするもんじゃねえぞ、金をケチっておいて過大な成果を求めるんじゃねえ」

「わかったわかった、怒るなよ。ケチっている訳じゃねえ。あんたも言ったように相手がとうに警戒しているのは解っていたからな。正直に言うと、あんたたちはおとりだ」

「どういう事だ?」

「まあ、それは後で説明するよ。それでその後は?」

「その後氷川は代々木公園まで歩いて、俺たちを撒くつもりだったのか、三十分ほど公園を歩き周ったあと、新宿駅まで歩いて行った。それから、西口京王前の人混みの中で、一人の男と会っていた」

「男?」

「中年…実際のお前くらいの年頃の男だ。写真がある」多賀は内ポケットから折畳んだ用紙を一枚取り出して、町田に手渡した。「画像はPCにも入れてある」

 町田は用紙を開いた。拡大された画像が印刷されてあり、大勢が行き交う中で壁を背にする事もなく、氷川龍子と並んで、立ちつくしている様子の男の姿があった。よれよれのチェックの半袖シャツにベージュの綿パンツ、野球帽を目深に被っていて、はっきりと顔は見えないが、多賀の言うように、四十は確実に超えているように見える。

「こんな画像しかないのか?」

「真壁が持ってきたカメラじゃ、これが限度だった。何度も言うが、ずっと警戒されていたから、そう近づくわけにもいかなかった」

「それにしたって…」

「わざと人混みで会っているんだ。通行人が邪魔をして、なかなかまともに捉えられなかった。その画像だって、動画からフレームを抜き出したものだ」

「この男のあとは?」

「撒かれたよ。ついでに言うと女にも駅で撒かれた。二人じゃ無理だ」

「ふん、まあ天童との繋がりがはっきりした事と、女が一人で隠れて暮らしていた訳じゃない、という事が解っただけで良し、とするか」

(…この写真の男は、どこか気になるところがあるがな)

「じゃあ、俺の仕事はここまでか。一旦本庁まで出向いてするほどの事だったのか?」

「俺が出張るわけにもいかないからな」

 だが、多賀の言う通り無意味だ。こんな事は他の誰にだってさせられる。この件に本庁の刑事である戸谷とたにと真壁を深く係わらせておくための手続き、多賀には、俺との繋ぎをさせただけの事だ。

「なあ、多賀さん、相談なんだが…」

「なんだ」

「こんな手伝いだけじゃあ小遣いにしかならんぞ。あんたもつまらんだろう」

「あんたが小遣い稼ぎに、と誘ったんだろう」

「まあそうだがね、あんたも気づいているだろうが、今回のスポンサーはまあ、実力者ってヤツだ。それなりの仕事をすれば、バックも大きくなるぞ」

「仕事って何だ。お前、俺の職業を覚えているんだろうな」

「もちろん、勤続三十年の警察官、刑事様だ。ちょっと悪いところがある、な」

「ああ、ちょっと悪いだけだ」

「なあ、その年で巡査長って事は、もう昇進は考えていないんだろう? 素行不良なのはもうばれちまっているんだし、このまま定年まで勤め上げられるかどうかも怪しいんじゃないのか? ここらで大金を稼いで、退職金を足して外国に店でも買って暮らした方が、残りの人生楽しいんじゃないのかい?」

 多賀とは古くからの付き合いだ。主に生活安全部に所属してきたこの男は、様々な場面で利用価値がある存在だった。もっとも、事件屋と付き合いのある警官に、周囲から黒い噂がたつのは当然だったが、幾度もギリギリのところで危機を回避してきた。もちろん俺の協力があったおかげだが。

「で?」多賀は、用件や報酬をたずねる時は、必ずこの一文字を使った。余計な事は話さない、また聞かない、が奴の信条だ。この仕事の背景に掛井かけい武人たけひとがいる事は知らない(という事にしているだろう)。つまり、氷川龍子が何者であるかも知らない。ただ女の住処と背景、周囲との関係について、短い期間で可能な限りの情報を得ることが目的であり、そして女がスポンサーにとって、邪魔な存在である事が伝えられているだけだ。

 町田は右手を開いて金額を示し、その後は同じ手で拳銃の形をつくって、その指先(銃口)を自分の首元にあてた。

 多賀は首を振って立ち上がった。町田は「あっ、あっ」と引き留めるように声を出して、もう一度手を開いて多賀の視界に突き出した。(ケタを間違えるな、お前の退職金の三倍近くにはなる。もちろん無税だ)

「なぜ俺を使おうとする? その金額なら他にもあてがあるだろう」多賀は立ったまま、町田を見下ろして言った。

「・・・あんたを信用しているからだ、と言って信じるか?」

「いや」

「以前にプロを使おうとしたんだがな、ぐずぐずと下調べに時間をかけてばかりで、その間にターゲットに逃げられちまった。今回はスピードが重要でな。あんた、嫁さんも子供もいないし、親しくしている親族だって、もういないだろ?」

 多賀は少し沈黙をおいてから、一言「で?」 …方法は? その後の逃亡ルートは? 殺す程の理由とは? まだやるとは言っていないぞ。

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