第21話 CHAPTER 6「Your reach PART 4」
「ふん、また男をたぶらかした、ってわけだ」
「人聞きの悪い事を言わないで頂戴な」
「それでどうしたんだ、連絡先を教えたのか」
「まさか、そんな事をして、もしもあちらに危害が及んだりしたらどうするの」
「かわいそうに、年を取っていたって、傷つくのは同じだろうに」
村井は氷が溶けて、大分薄まったウイスキーを一口すすった。
傍らに座っている龍子が、グラスいっぱいに注ぐ。さっさとこのボトルを空けてしまえ、と言わんばかりだ。彼女はモノトーンの花柄のミニワンピースを着ている。足と共に露出させた両肩と鎖骨に、下ろした長い茶髪を被せていた。
「別にふったわけじゃないわ。ちゃんと説明したのよ。わたしは今隠れて生活しているから、ごく親しい人以外にお教えするわけにはいかないんです、って」
「何の事やら解らないだろ?」
「言ってなかった? 私の過去の事は、会ったその日に話しちゃっているのよ」
村井は口元に運ぶ途中のグラスを揺らし、ソファと床の上にウイスキーをこぼした。
「何やってんの」と、おしぼりを取って、龍子は床に左手を伸ばした。
「お前こそ何やってんの? 過去って、腹を刺されて、警官をやめたって事をか?」
「ええ、その辺の事、もちろん特定の人物名は伏せておいたけれど」
「何の理由があって、そんな話をしたんだ」
「うるさいわね、別にいいじゃない、どうせ本気で信じちゃいないわ。それに、あとは知らんぷり、ってわけにもいかないから、徳山さんには今後も会う機会はあるでしょう、って言っておいたし」
「ずいぶん情け深いじゃないか、そんな性格だったっけ?」
「随分つっかかるじゃない、気に入らない事でもあるの?」
「べつに。 真相が…ずいぶんくだらない話だったな、と思ってね。龍子はそんな事で泣いたりする奴だったか」
「涙ぐんだだけよ。釣られちゃったのよ」
「そりゃ年だな」
「村井さん、新しいボトル入れたら? それで、今晩はもう帰ったら?」
「怒るなよ。俺はその、有紀哉くんに会っていないからな、それほど感情移入できないだけだ。くだらない理由で大ケガをさせる程に殴った奴、けしかけた奴、それを庇った奴も当然罰を受けるべきだ。そりゃあ、みんな不幸な境遇の子供達だと思うよ、でも、だからってやった事は悪質だ。同じ施設の子供達、いや全国の養護施設にとっても迷惑な話だろ。客観的に見て、それほど同情を感じる話じゃないな」
「べつに同情してあげて、なんて頼んでないわ。協力してもらったから報告しただけよ。村井さん、お腹すかない?」
「酒だけでいい。…被害者がかわいそうだよ。逆恨みが原因で、ひどく殴られて、PTSDまで発症しているんだろ? 災難って言葉だけじゃ済まされんよ。俺はそっちに感情移入しちまうよ。裕福だからって、優等生だからって、必ずしも皆が苦労知らずで、幸せに暮らしているわけじゃない。まわりを妬む気持ちは誰にだってある、どんな世代でもな。それを堪えられず、安直に暴力に訴えて溜飲をさげようだなんて、もっとも愚劣な行為だ。未成年だろうが、そういう馬鹿には厳しくお灸を据えなきゃならん」
「そうするんじゃない? 警察や裁判所がね。被害者には家族や友達、それに村井さんのような意見の大人も周囲にいるでしょうよ。その人たちがケアしてあげるでしょう。
わたしはおかあさんの代わりをやっただけよ。高藤有紀哉くんを守ってあげた、ただそれだけよ。もしも彼が本当に犯人だったら、なんて考えは無視していた。おかあさんは有紀哉くんが、どんな理由があろうと女の子を殴るわけがない、と言っていた、そう聞いたの。そんな子だから、彼女は
「根本的な解決にはならない。有紀哉が言った事、本心だろうよ。たまには痛い目にあっても丁度いい、ってのは。その殴った奴、梶山ってのも、そういう気持ちだったんじゃないか。そこに問題の本質があるんじゃないのか」
「偉そうに、今さらジャーナリストぶった事を言わないで。身の毛がよだつわ」
「へえへえ、悪かったよ。どうせ俺はくだらない三流雑誌の、三流編集だ」村井は一気にグラスを空けた。数日前に社長、つまり父親から激しい叱責を受けた事に対しての苛立ちが、未だに残っている。
「そんなにお酒ばっかりだと身体に悪いわよ。なんか食べなさい」そう言って、龍子はボーイを呼んだ。何を注文したかは、村井には聞こえなかった。
村井は右隣の龍子に身体を寄せて、腕を肩にまわした。
「たまには慰めてくれよ」と、自分でも気持ち悪く思うような甘えた声を出した。
「何を落ち込んでるの?」と、龍子は素直に身体をあずけるように、村井に寄り掛かった。
これ以上の事を望めば、龍子はすり抜ける様に身体を離して、立ち去ってしまうだろうと、村井は龍子との長年の付き合いから確かな予測をした。この姿勢を大切に保持するため、優しく、それでいてしっかりと龍子の肩をつかむ手に、少し力を込めた。あごと首に触れる柔らかな髪、龍子の髪はヘアスプレーで固めたりしていないので、しっとりと心地いい触感がする。胸元にかすかにあたる龍子の甘い息が、胸中に蠢く、身体を蝕んでいる事を実感できる程のストレスを、たやすく祓ってくれる。
先日のイベント時と違って、〈レーネ〉の通常営業時は、フロアの照明は明るく、白とシルバー、プラチナの色調でデザインされている店内は華やかで、四方から光を受けた龍子の肌は輝いているかのようだ。
村井はしばし、この光景で得られる癒しに全神経を委ねた。
一昨日の夜遅く、龍子、徳山と一緒に〈光翼園〉を訪れた日の前夜に、掛井武人と会った。父親である村井
「氷川龍子はタイに逃げて、それからは行方不明になった、君はそう私に報告したのだぞ。女が航空券を買った形跡、実際に出国手続きもあった。その後は消息不明で、君は現地にも行ったが、足取りは掴めなかった、と」
誰かに説明しているかのようだ。
「ええ、確か出国手続きの証拠もお見せしました。しかし、それが解ったのは彼女の出国後、確か、すでに五日ほど経ってしまっていて、その後おっしゃる通り、現地まで探しに行きましたが。彼女が最後に泊まったホテルの宿泊記録も、写真でお見せしましたよね。それ以降の帰国の形跡等は、ご自分で調査されるとお聞きしましたから、私の調査はそこで終わりました」
(どうせその後は帰ってこない状況をいい事に、次第にほっぽらかしていったんだろうに)
「君は彼女の親しい友人だった、と言っていたじゃないか。だから、彼女の考えや行動が想像できるかもしれない、等と言って。私はそれを信用したのだ。それ程良く知った仲だったと言うくせに、その後の連絡は一切なかった、と言うのか」
「ええ、ありません。そうですか、彼女は帰国していたのですか、今までどこで何をしていたんでしょうかね」
「それを知りたいから、君を呼んだんだ!」と、掛井は大声を出した。
「いや、その、ちょっと待ってください。話が見えません。彼女が帰国していると知ったという事は、彼女は掛井さんか、息子さんにコンタクトを取ったという事なんでしょう? ならば、ご自分たちで尋ねればいいんじゃないですか?」
掛井はしばらく押し黙って、それから厳しい表情をしたままだが、繕うように言った。
「私は忙しい身だ。その時は急いでいて、連絡先も聞かずに帰してしまったんだ。後日きちんと話をする席を設けようと思っているんだ。だから、彼女の居所、いや、電話番号だけでも知りたいと思って、それで君を呼んだんだ」
「はあ、帰してしまったんですか、それで、わざわざ私をお呼びに…」
まさしく狐と狸の化かし合いだ。だが狸のほうは、明らかに尻尾が見えている。掛井は今思い出したかのようだが、俺が協力したのは、彼女が掛井暁との交際破棄を苦にして、自殺未遂を起こして病院に運ばれ、その後入院先から脱走した跡を追うためである。俺は掛井暁が龍子を刺して、その後も彼女の殺害を企んだ、という真相を知らない事になっている。ところが俺は真相を知っている。俺が掛井に自らを売り込んだのは、病院を脱走したばかりの龍子から頼まれたからだ。俺の父親と浅からぬ、おそらく黒い関係がある掛井は、俺の素性と、俺が龍子と掛井暁の交際を知っていた事を知ると、すんなりと懐に招き入れた。俺は掛井の追跡をかく乱するために、わざわざバンコクまで行って、偽の情報を流したのだ。掛井に渡した証拠は全て捏造、龍子はずっと国内で隠れていたのだ。
五年前を思い返すと、なんだか笑えてきた。あの時よりも白々しく、この醜い老人は嘘を連発している。緊張は解け始め、ただ滑稽さを感じるようになっていった。
「水臭いなあ、氷川さんも。それにしても、辛い思いをしたからって、何も行方不明にまでならなくても。そこまで息子さんを愛していたんですかねぇ。いやあ、あれですね、男冥利に尽きるところもありますね。自殺をしようとするほどなんて。息子さん、警察庁を退職されて、今度政治家に転身されようとしているんですよね。あの後結婚されて、娘さんが一人。奥様は確か、さる財閥系列の金融会社社長のご息女でしたかね。さすがに、掛井家はあらゆる所に、いくつもパイプを繋いでいらっしゃる」
「よしなさい、君の取材を受けるために呼んだんじゃないんだぞ」掛井は力なく言った。
「本当に君は知らないんだな、嘘をつくとためにはならんよ。君の父上が悲しむことにもなり得る」
「ええ、そりゃあもう、心得ております」
やや調子に乗ってしまったような軽い口調とへらへらした笑顔を、掛井以外のだれかに見られている感じがした。個室は入り口の障子戸と、その向かい側のライトアップされた庭園が見えるガラス戸以外は、板張りの壁で仕切られていて、隣室の話声はそうたやすく聞こえはしない。障子戸の向こうに人の気配は感じない。だが、同じく人の気配がかすかにも感じられない両隣の部屋の様子が、却って不自然に思えた。もう夜も遅いから、隣に誰もいないのは不自然ではない、しかし・・・村井は再び緊張感を取り戻した。
「しばらくしたら、彼女の方から連絡があるんじゃないですか? もしなかったとしたら、もう会う気はない、という事でしょう。まあ、もしも彼女から私に連絡があった場合は、すぐにお知らせしますよ」
「その時は必ず連絡するんだ。わざわざ彼女にことわったりするんじゃないぞ、私が知りたがっている事を気づかせるな、いいか、必ずだ」掛井は村井の顔を指差しながら、また力が戻ったかのように、表情を歪めて強く言った。
村井はまた笑い出しそうになったが、必死に堪えた。
掛井と会った事は、龍子にはまだ話していない。別に話してもいいのだが、龍子は掛井宅におしかけて以来、すでに警戒を強めているから同じ事だ。あらそう、なんて言われるのがオチだ。もしも今後、もっと深く掛井側に入り込むことができて、有益な情報が得られた時に明かす方が効果的だ。何を考えているか解らない不気味な若造や、ゾンビのように蘇えってきた中年刑事、さらに初老の三流弁護士なんかに負けられない。自分だって中年の三流編集者だが・・・掛井暁と言い、ろくな奴がいないな。この女、もしかするととんでもなく男運が悪いのかも。村井は龍子の小さな頭を見つめながら、そう思った。
心の中を読んだかのように、龍子がぱっと身体を離した。反射的に肩にまわしていた腕を引っ込めてしまった。
龍子はボーイが運んできた料理を受け取るために、腰を浮かせただけの事だった。机の上に料理を置くと、結局は村井の身体との間を少しつくって、隣に座り直した。
「さあ、あったかいものを食べなさい」
村井はテーブルの上を見て言った。
「またか、なんでこの店はなにかって言うと、そばを出して来るんだ」
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