第36話 FINAL CHAPTER 「Detour to heaven PART 4」

  日差しはまだまだ弱まる気配はなく、蝉の鳴く声もまだ残っていた。

 浅田あさだ渉香しょうかの墓石は、周りのものと同様の角柱型で、黒っぽい御影石で作られていた。

「四十九日も初盆も過ぎちゃったわ、ごめんなさい」

 龍子は立ったまま手を合わせて、長めに拝んだ。

 花立にはまだきれいに咲いたままの菊やゆり、ナデシコやカーネーション、それから鮮やかな青紫色のりんどうが、溢れんばかりに刺さっていた。

 龍子は仕方なしに、自分が持ってきたゆりとりんどうの花束を墓前から引き上げると、背後で一緒に拝んでいた、また揃えてしまった半袖白ワイシャツ、ノータイ姿の二人の男に向けて差し出した。

「良かったら、誰かもらってくれない?」

 村井が返答しないのを確かめてから、天童が言った。

「じゃあ、俺がもらうよ。親父に持って行ってやってもいいかな」

「ご両親はお元気?」

「うん、母親は三年前に死んだよ」

「あら、知らなかったわ。今度お参りさせてね」

「ありがとう、やっぱり龍子ちゃんは優しいな」

「色々と、聞きたい事がある」と、村井が割り込んだ。

「俺だけ解っていない。一体何がどうなって、お前はそんなに不細工になったんだ?」

 龍子の左目と鼻にはガーゼが貼られていて、周囲の肌は赤紫色に変色していた。左目の周囲は腫れて盛り上がっていて、口元にも赤い痣がある。長袖の白い花柄のワンピースを着て隠しているが、両腕には包帯が巻かれていて、手首まで続いている。右手の中指には、添え木までされていた。右目だけでも、しっかりと化粧はしている。

「二時間サスペンスじゃあるまいし、こんなところで長々と話せますか。涼しいところに連れてって頂戴」


 村井の運転する黒のカマロクーペの狭いリアシートに横たわりながら、それから、村井の馴染みだという東京郊外にある個室レストランでパフェを食べて、追加でホットティーを飲みながら、およそ四時間、五年間に渡る長大ストーリーを、時系列は多少前後したが、解りやすく、情感をこめて二人に話した。五年前から最近までの幾つかの部分は、村井は真実だと知っていて、最近の部分のほとんどは、天童は真実だと知っている。しかし全体部分の半分以上は、龍子だけが真実か、または嘘かを知っている。

 行きの車中では、村井は笑いながら「ホントかよ」を連発した。龍子を殺そうとした黒幕が掛井暁の妻、晴美であった事、その晴美とガチンコのケンカをした事、ケンカの後、即日に二億円の現金が支払われた事。すべてを聞いて、村井は「やはり無理矢理にでも行けばよかった」と激しく悔やんだ。村井は龍子から無事を報告する電話があった後、素直に帰社してしまったのだ。

 二村にむら岳人たけひとについては、天童が主に話した。

 二村が殺された事は、龍子は既に知っていたようだ。つまりあの日、自分があの背の低い暗殺者から無事解放された事も知っていたというわけだ。

 女子大生殺害事件の、二村の共犯者と思われる塩崎しおざきについては、現在も行方不明となっているのだが、もしかしたらすでに殺されているかも知れない。掛井晴美が暁と婚約したのは五~六年前だから、それ以前に隠し子である二村の事を知っていたとは思えない。ならば二村の犯行を証明する存在である塩崎の殺害は、他の掛井の関係者、それも警察官という可能性もある。二村が殺害し、死体と痕跡を隠したという可能性だってあるだろう。だが、これは陰謀論に偏りすぎた推測と言える。今、何の証拠もないまま話をしても仕方がない。

 二村の母親もまた、行方が解らないままだが、二村愛美まなみはきっと生存しているのだろう。行方は警察にも、掛井晴美にも解らない。もしも解っていたならば、とうに母親と共に二村を処理していたはずだろう。二村を始末するためには事実を知る二村愛美、又はDNAという証拠を持つ掛井武人の死亡が前提条件だったのだ。掛井武人が死んだ今、愛美は息子の行方を探しているのだろうか?

「龍子、お前、二村に同情していたんじゃないのか?」運転中の村井が言った。

「同情?」助手席の天童が言った。

「あの…高藤たかとう有起哉ゆきやと同じようにな。もしも無実なら助けてやらないと、そう思っていたんじゃないのか?」

「誰?」

 この時は、まだ天童は有起哉の事を何も聞いていなかった。詳しく話を聞いた後で、天童は村井の言葉に納得した。

「有起哉と違って、二村はクロだったと思うぜ」

「そうだな、俺もそう思う。だが、確実な証拠は何もない」

「自白を聞いたんだろ?」

「父親、掛井武人に対する当てつけだったという見方もできる。過去の証言だってな」

「そんな事を言ってちゃあ、誰も裁く事なんてできない」

「でもやらなきゃいかん、そうしないと社会が保てない。でも、死んじまったらお手上げだ」

「……掛井武人もそうだしな。俺の立場から言うのもなんだが、まったく呆れたもんだ。日に日に贈収賄疑惑の報道は減っていきやがる。あとひと月も経ちゃあどうでもいい、って事になるんだろうな。解っちゃいたが。

……天童さんよ、掛井暁、晴美夫妻についちゃどうなんだい。このまま済ませるなんて、あんたらしくないんじゃないのか?」

「俺は村井さんが思っているほど頑固でも、潔癖でもないよ。第一、龍子ちゃんに迷惑がかかるだろ?」

「そんなんでいいのかい?」

「悪党が二人…三人死んで、もう一人はタマを潰された。妥協するしかない、今はな」

 天童は少し頭を動かして、バックミラーで龍子の様子を見た。けだるそうに、眠たそうに頭をふらふらと揺らしている。顔が腫れているせいか、怪談に出てくる幽霊みたいに、少し不気味に見えた。

「なぜ、わざわざ二村に掛井武人を殺させようとしたんだ」独り言のように天童は呟いた。

 町田の陰に殺し屋組織のような何かがいた事は、当然会話の中に組み込まれていた。三人は敢えてそこに注視しなかったが、龍子と喬史が、何かしらその組織と関りを持っている事に、天童も村井も気づいていないはずはなかった。

「頭がおかしいのよ」と龍子がはっきり言った。

「その殺し屋の頭がね。いやらしい口髭をした、いけ好かないおっさんなんだけれど、どうもねじが抜けているというか、中身に突き刺さって、そのまま貫通しているというか、とにかくいかれているの。昔、喬史君にわたしを殺させようとしたからね、それと同じ事を考えていたんじゃない?」

 嘘か本当か解らない。どういう意味なのか想像もできない。確かにいかれている話だ。

 村井と天童は笑うしかなかった。


 龍子は二億円をすでに使ってしまった事を、レストランで話した。天童も村井もそれを信じなかったが、龍子は使い道を説明せず、ただもう無くなってしまった、とだけ言って、口を閉じた。

 顔の傷跡が残っているうちは、龍子は〈りんどうの花〉に行くことはできなかった。杉原に何があったのか色々と聞かれるだろうし、児童達を怖がらせてしまう。適当な嘘も思いつかなかった。お盆には喬史だけ行かせた。喬史は一人で行く事を嫌がったが、龍子は叱って、無理矢理行かせた。

 杉原すぎはらは喬史に、龍子への言伝を頼んだ。施設の存続が確定したのだ。つい先日、東京の深川に住むある富豪が相続問題を聞きつけて、土地家屋を、遺族が納得する金額で買い取ってくれる事が決まったのだと。もちろん施設はそのまま、児童達の保護も職員達の雇用も継続して運営していく方針となったのだ。富豪本人は高齢で、浅田渉香と旧知の仲だったらしく、もしも自身が亡くなった場合でも、土地建物は全て施設存続を条件とした譲渡ができるよう契約書をつくる、と言ってくれている。実際、相手の弁護士と龍子が紹介してくれた徳山とくやま弁護士が、懇切丁寧に説明しながら、契約を進めてくれている。

 こんなに嬉しい事はない、と杉原は涙を流しながら喬史の手を握った。そして「きっと龍子ちゃんとそら君が、何かしてくれたんでしょう」と、見透かしているかのように言って、喬史を困惑させた。

 レストランでの他の会話は主に、天童が知らない、村井は少しだけ知っている、龍子の潜伏中の様々な出来事、事件の話が彼女の口から語られた。それらはミステリーやホラーであったり、落語や冒険小説であったりした。リアリティのあるもの、荒唐無稽なもの、面白いもの、つまらないものが混在していた。嘘か本当かはどうでもよく、会話は大いに盛り上がった。酒が飲めたなら、もっと楽しめた事だろう。

 最後に、天童は龍子に尋ねた。今後は身分も取り戻せるし、お金もある。これからどうするつもりか、という事を。

 龍子は「お金はない、と言っているでしょう」と怒って、それから悲しげな表情になった。「残りのお金がいつになるか、支払われる保証だってないし、まだまだたくさん働かなくちゃならないわ」

「まだキャバクラを続けるのかい?」天童が問うた。

「そうね」

「他の仕事だって出来るだろう。傷が治ったら、お前ならモデルにだってなれるぜ」村井が茶化すように言った。

「そうね」

 悲しげな表情は変わらなかった。傷は当然そのままだが、塞がっていない右の瞳が潤んで、輝いて、おそろしい程に美しく見えた。

(結婚だってできるだろう)そう言いたかったのに、口に出すことができなかった。

 近いうちに龍子はまた姿を隠すのだろう、理由ははっきりとは解らないが、天童も村井も、そう予感していた。まだ彼女は、その苦難から解放されることはないのだろう。

 店を出た後、「家まで送る」という村井の誘いを「この後約束があるから」と断って、龍子は去って行った。

 天童もまた、ここで別れる事にした。

 去り際の路上で、村井が天童に言った。「情けないな、お互いに」

 花束を手にした天童は、村井に言った。

「俺は刑事で、村井さんは記者だ。お互い、しつこく追いかけるのが仕事だろう?」

「ああ、そうだな」


 陽が暮れて、街の灯りが目立ち始めた。

 人と車で溢れる首都の街中で、左車線の真ん中に停車したままで、クラクションを鳴らされている白の普通乗用車の助手席に、龍子は素早く乗り込んだ。

 シートベルトをしない内に車は急発進して、信号が黄色に変わっていた交差点を突っ切った。

「もう少しやさしくして頂戴。乱暴な運転は、もてない男の証明よ」

「ボスが言ってたぞ、あんな金じゃあ利子にもならんとな。もっと手に入れたはずだろう」運転している野球帽を被った、背の低い男が愛想のない口調で言った。

「優先するべきものがあったのよ」

「とにかく、もっと働いてもらわなきゃならんぞ」

「はいはい」

 背の低い男は横目でちらりと龍子を見た。それから、バックミラーを動かしてさらに見た。ぷっ、と吹き出すと、堪えられない様子で大笑いし始めた。

「なんだその顔、最高じゃないか、いい気味だぜ!」

 ハンドルを叩いてはしゃぐ男に苛立った龍子は、笑い返し始めた。男よりもはるかに大声で、男らしく、ワハハハハ、と。

「なんでお前が笑うんだよ!」


 署から一歩出たところで、天童は名前を呼ばれた。

「あれ? どうしたんです」と天童は笑顔で答えた。

「丁度良かった。ちょっと近くまで用事があったもので、寄ったんですがね。お留守かもしれないな、と思っていましたが、ちょうど出て来てくれるなんて」

「そりゃ良かった」

「それで、ちょっと天童警視にお伝えしておこうと思いましてね」

 多賀たがが身を寄せて内緒話のように声を落とした。「本庁の戸谷とたに警視、依願退職されました」

「えっ?」

「掛井議員が亡くなった後、すぐに辞表を出したようですよ」

「多賀さん…」

「いえ、わたしは何も話していないですよ。真壁まかべさんはそのまま残っているし」

 天童は溜息をついた。

「良心の呵責ってやつですかね。まあ退職金をもらっているんだし、盗人猛々しい、と思わないでもないですが。まあ、私が偉そうに言える身分ではないですね」

「…あなたはわたしを助けてくれた」

「よしてください、何もしていません。見張りを手伝ったのと、気を失っていたあなたを拾っただけじゃないですか」

 二村が父である掛井武人の命を狙っているかも知れない、とひまわりを背にした龍子は言った。そしてできればそれを阻止して欲しい、と願った。その根拠までは教えてくれず、彼女は自分の獲物が奪われるから、という都合だけを話した。それは本心だったろうが、村井さんが言ったこと…二村を救おうとしていた、というのも本当だったと思う。

 そして龍子の殺害に失敗した町田から離れた多賀は、自分に救いを求めてきた。彼自身が行ったのは尾行だけで、他には何も知らない、上司の命令で行動しただけだ、と弁解した。彼を締め上げる暇はなかった。そこで…交換条件を示したのだ。

「私が掛井宅に忍び込んだ後も、待っていてくれた。帰っていいと言ったのに」

「気になっただけです。あんたが何をしようとしていたのか。でも、結局解らないままです。いつか説明してほしいものですね」

「そうですね、仲良くなれましたなら」

「願いたいものですね。キャリアと仲良くできるなんて、俺の人生も捨てたものじゃなくなる。でもまあ、きっとご迷惑をかける事になるでしょうから、ある程度距離はおいておきましょう」

「多賀さん、町田のその後をご存知ですか?」

「町田? さあ、知りませんね。で、これからどちらかへ行かれるのですか?」

「ええ、この後有休を取っておりまして、ちょっと大阪の方まで」

「ちょっと、っていう距離じゃありませんな。引き留めて申し訳ない。それじゃあ、またいつか」

「ええ、またいつか」

 多賀は頭を下げて、足早に去って行った。

(一緒に駅まで行ってもいいだろうに、逃げたな。町田とはまだ繋がっているようだ)


 龍子と喬史が横浜から姿を消して、二週間が経った。どこに住んでいるのか教えてくれないが、携帯電話の番号は変わっておらず、連絡は取り合っている。電話をかける度に、いつか不通になるのではないかと恐れているが、その時には警察の力を使ってでも探し出せるよう、せいぜい出世しておこう。当分は無理だろうが…。

 龍子がいなくなった後、千葉の〈クラシオン〉を訪れたのだが、ハルは数日前に店を辞めて、すでに引っ越しまでしていた。行き先については、アマネとナオは北海道に行くと聞いたと言うのだが、店長は西に行くと聞いていた。

 彼女と龍子が会話している場面を、いつか見てみたいな、と天童は思った。


 天童は仏壇の前に座って、成人式の時のものと思われる、晴れ着を着て、溢れんばかりの笑顔をした被害者の写真に向かって、静かに手を合わせた。

 苦難を共にしてきたためであろうか、戸川とがわ香澄かすみの両親はともに五十代後半という年齢よりも、ずっと老け込んで見えた。顔には多量の細かい皺があって、シミも多く、共に痩せている。目や鼻の形はそれぞれ違うのだが、全身を見ると、身長以外は何故か夫婦そっくりに見えた。特に黒目がちな目が、同じものなんじゃないかと思うほどにそっくりで、とても善良で、澄んだものに見えた。

「遅くにお邪魔致しまして、ご迷惑をおかけします」

 父親は横縞の青いシャツとグレーのスラックス、母親は上下とも黒のシャツとパンツ姿で、共にシャツの袖を巻くっていた。二人とも、白い衛生帽を被ったままだった。

 天童は正座したまま、深くお辞儀した。

「いえいえ、わざわざ遠くからおいで頂きまして、ほんまに、ありがとうございます」と、父親もまた頭を下げた。

 母親がお盆に冷たいお茶を入れたグラスをのせて持ってきて、茶托と一緒に畳の上に置き、天童に差し出した。

「すいません、こんな狭い所で」と母親が頭を下げた。

「とんでもない、ありがとうございます」

 天童は「頂きます」と言ってから、お茶を一口すすった。

 四畳半ほどの和室には仏壇と、その隣に多量のお供えと、写真立てを置いた机の他には座布団が数枚、部屋の隅に積まれているだけだった。写真は香澄のものが一番多く、赤子のころから、小、中、高のものまで幾つもあって、また、祖父母と思われる写真も一緒に飾っている。部屋は仕事場と同じ一階にあって、仕事の合間でも度々線香をあげて、拝めるようにしているのだろう。

「はらまあ、山梨からおいで頂いたんですか?」と母親が尋ねた。

「いえ、私は埼玉県警のものです。捜査には、少し関りを持った事がございまして」

「そうですか、いや、こうして、今でも気にかけてくれる刑事さんがおってくれて、ほんまに癒されます」と再び父親が頭を下げた。追って母親も深くお辞儀する。

「いえ、そんな、頭を上げてください。未だに容疑者すら見つかっていない中で、本当に申し訳ございません」

 何度も頭を下げあった。


「娘が殺されてしもた後、ずっと、そうやな~、五年くらいは仕事ができませんでしたなあ。何もする気がせんのですよ。夫婦そろってね、もう死のか~、なんて事ばっかり話しててね」

「そうやったね~」

「取引も全部止めてもうて、貯金も減っていくばっかやのに」

「もう貯金なくなったら、死んだらええわ、ってお父さん言ってましてな。わたしもそうやな~、って」

「でもな~、このまま死んでしもて、もしもあの世なんてもんがあって、娘に会えたとしたら、なんて言われるか思いましてな。怒られるんと違うかな~、って。やっぱりちゃんと仕事せなあかんかな、ってちょっとずつ思いましてな。会社には夫婦二人しかおらんようになってもうたけど、少しずつやって行こうか、ってなあ」

「そうなんですわ。お父さん、言いましたんや。死んで娘に会えるんやったら、色々話のネタ持っとかんとあかんな、てな~。あれやったんやで~とか、こんな事あったんやで~とか、そんな話をできるようなっとかんと、って」

 話しながら、母親はぼろぼろと涙を流し始めた。

「まあ本当のところは、思い詰めた先で、死にたない言う、人間の生存本能ってやつが機能したんやと思うんですけどな。せいぜい真面目に生きたなら、少し遠回りしても、娘はちゃんと待っとってくれるやろ。その方が、喜んでくれるんちゃうかと・・・」

 天童は何度もうなずきながら、黙って、真摯に耳を傾け続けた。

 夫婦は事件や捜査の事については、何も尋ねなかった。 


 帰り際、母親は商品を白いビニール袋に入れて、天童に手渡した。

「うちで作っております、蕎麦とうどんです。乾麺ですよって、長持ちしますんで」

「こんなものしかなくて、すいません」

「いえ、どうもありがとうございます」

「大して美味しくないと思いますが」照れ笑いしながら、父親が言った。

「いいえ、そんな事ありません」(多分、食べたことがあります)


 夜の太平洋、緩やかな波の上を、大型のカーフェリーが航行していた。

 サイドデッキの柵の上に両腕をのせて、喬史は海面を見つめていた。白いTシャツとジーンズ、スニーカーを身に着けているだけで、カバンも何も持っていない。風が吹きつけていて、さすがにその恰好では寒いはずだが、気に留める様子もなく、ただフェリーの灯りを揺らせて反射する黒い波をじっと見つめていた。

 段々と・・・腕が痛くなってきた。柵に掴っているだけなのに、ひどく疲れてきた。一瞬、波が自分を吸い込むような錯覚に捕らわれたが、今度は逆に自分が海面を引き寄せているような感覚が襲ってきた。

 船に酔ったのだろうか? かなり気持ちが悪い。トイレに行って吐いてしまおう、そう思ったのだが、なぜか柵を掴んだ両手が放れない。どんなに力を入れても放れない。違う、力を入れていては外せないのは当たり前だ。力を抜くんだ。手の力を、腕の力を抜くんだ。全身の力を抜くんだ。何も考えなくていい。意識を全て飛ばしてしまって、身体から解放されればいいんだ。波に吸い込まれればいい。全てを委ねればいい。海に沈んでしまって、底にたどりつけばいいんだ。

 喬史はずるずると、崩れるようにデッキの上に膝をついた。

「何してるの?」

 後ろから龍子が呼びかけた。フード付きの白いジャージを着ている。風呂上がりのようで、風に靡く髪は、まだ若干濡れていた。

「ああ、龍子さん。なんか、気分が悪くて」

「風邪ひくわよ、さっさと中に入って」

「ごめんなさい、今立つよ。なんだか僕、船に弱かったみたいだ」

 龍子は喬史に近づいて、右手を差し伸べた。

「しっかり握って」

 腫れも痣もほとんどなくなった美しい顔は、笑顔ではなく、怒りも悲しみも、憐れみもなかった。人工的に見える程に整った顔は、青白い月の光とオレンジ色の灯りで着色されて、(格好はともかくとして)まるでファンタジーのデザイン画のように見えた。

 喬史は龍子の手を、壊れないよう、優しく握った。

「大丈夫、わたしがついてる」

 そう言って、龍子は喬史の手を力いっぱい握って、引っ張って立たせた。そして、手を握ったままで、左腕を喬史の背に回して、しっかりと抱き寄せた。

 右手から伝わる体温が、首元にかかった息が、鼻と唇に触れた髪とおでこの感触が、喬史に血肉を取り戻させた。

「・・・龍子さん」

「さあ、もう寝るわよ。外はもう立入禁止になっちゃうわ」

 龍子は身体と手をさっと放して、中に入って行った。

 喬史はすぐに後を追った。


 フェリーは月を背にして、海面を進んだ。

 二基ある大きな煙突の内、展望デッキに隣接した船首側の方のてっぺんに、制服を着た女子高生が一人、腰かけていた。

 スカートを両手で押さえているから、長い黒髪は無防備に風に煽られて、顔を全て覆った。彼女はスカートを押さえたまま座る角度を変えて、船首方向に身体を向けた。風はドライヤーのように髪を巻き上げて、美しい顔が露わになった。

 彼女は気持ちよさそうに、夜風を顔に当て続けた。


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