第35話 FINAL CHAPTER 「Detour to heaven PART 3」

 龍子と喬史は出口に向かった。今さっき迄、掛井暁といた部屋は本館の最上階である三階にあった。二人は用心して、エレベーターではなく階段を使って降りたのだが、すでに館内は不穏さを醸し出していた。弔問客の姿はなく、葬儀会館の職員らしき男女が戸惑いながら、足早に『関係者以外立入禁止』と書かれた扉の奥に入っていく様子が見られた。

「なんか、まずい雰囲気ね」

 喬史はひとつため息をついた。「どうして龍子さんは行き詰まると、いつも正面突破しようとするの? 任侠映画の出入りじゃあるまいし」

「実際、こうして事態が動くじゃない」

「それで窮地に追い込まれていたら、世話ないよ」

「それは相手も同じよ」

 階段の踊り場まで来ると、一階にある一般的なリゾートホテルのそれと同様の、広めの玄関ロビーが見渡せた。受付のカウンターには誰もいない。ソファに腰かけている者もいない。ベージュの絨毯が敷かれた床面に立つ、いずれもダークスーツを着た五人の男達の姿があるだけだった。玄関前に、人の出入りを塞ぐように二名。中央に三、四メートルほどの間隔を空けて立つ三名。その真ん中にいる男が後ろに手を組んで、階段をゆっくりと降りる龍子の顔をじっと見据えたまま、待ち構えていた。

 まだ男の顔は視界の百分の一程度の大きさだったが、若く美形ながら、顎をあげて、しまりのない口元を見せつけるような角度が、不埒で、自分を小ばかにしているかのように思えた。

 龍子は一階におりて男に近づいたが、十数メートルほどの距離を残したところで立ち止まった。左隣にいる喬史も従った。

 男は左右の二人と共に、ゆっくりと龍子に向かって歩き出した。

「それ以上近づかないで」そう声高に言って、龍子はジャケットで隠していた左のホルスターから、拳銃を抜いて構えた。全長十五センチ足らずの小型でマガジン式、スライド部はシルバー、グリップ部は黒のツートンカラーの拳銃。龍子はそれを握った右腕をまっすぐに伸ばし、へらへらした顔に照準を定めている。

 他の二人と共に歩みを止めた中央の男は、「偽物だろ?」と言った。

「あなた、町田まちだね」

「ああ、そうだ。どうせ偽名だがね」

「わたしを二度も殺そうとした」

「そうだな、三度目の正直だ」

 町田は一瞬の間に、右手に握ったまま背に隠していた拳銃を龍子に向けた。そして高らかに笑った。「咄嗟に撃てなかったな、それが偽物か、単にあんたに人を殺せる度胸がないか、どちらかを証明したってわけだ」

 龍子も負けじと笑った。「あなたも同じでしょう? とっとと撃てば良かったじゃない」

「そうくな、まだ話し合いの余地はある。一緒に来てくれよ、悪いようにはしない」

「嘘つけ、今さっき三度目の正直と言ったじゃない」

「ああ、そうか。言っちゃったな」

 喬史は町田を挟んでいる二人に目をやった。共に三十~四十代で、スーツの上からではそれほど頑強な身体つきには見えないが、険しくも落ち着いた表情からは、こういった状況に慣れているかのような印象を受けた。

 二人の男達の方も、自分たちの細かな挙動に絶えず反応した視線を投げてくる喬史に、只ならぬ緊張感を持ち始めていた。

「どうするの? そちらは消音銃サプレッサーのようだけれど、こちらは大きな音が鳴るわよ。外にはまだマスコミが残っているかもよ」

「葬儀場から銃声だなんて、誰も思わないさ」


 全長三十センチ程ある大きなレンズを付けたカメラを手にした三十代の男が、停車中の車の助手席で、退屈そうにあくびを繰り返した。

「おい、ちゃんと見とけよ」と運転席に座る村井むらいが、たしなめる様に言った。

「はい、でも、もう車は何台も出て行ったし、他のカメラも粗方いなくなっちゃいましたよ。誰も残っていませんよ。大体、掛井暁がのこのこ歩いて出て来るわけないでしょう」

「わかってんだよ、そんな事は」

「じゃあどうして?」

「社員教育だよ。編集長に向かってそんな態度をとるバカに、礼儀を教えるためのな」

「すみません、 大体なんで編集長がわざわざ…」

「ああ?」

「はい! すみません」男はレンズを葬儀場の正門に向けた。

「まったく、地味な役回りだよ」ぼやくように言って、村井は窓に頭をもたれた。

 窓ガラス越しに村井の頭を小突くように二回ノックをしてから、スーツ姿の男が車の前を横切って行った。

「おい!」村井は呼びかけたが、男は止まらない。村井は慌てて車から出て、再度大声で呼びかけた。「何をしに来たんだ!」

「マスコミは入れないんだろ」と、天童てんどうが返した。


 少し腕が疲れてきたので、若干肘を曲げた。龍子だけでなく、町田もそうした。

「本気でこの美女を殺していいなんて思ってる? 人類最大の損失となるわよ」

「はいはい、そういう虚勢はもういいから。ビビっているかどうかくらい、俺には解るんだよ。ずいぶん無理しているな。そうさ、あんたには復讐なんて無理だったんだよ。奪われたことをいつまでも恨んでなんていないで、与えられたものだけで満足して、ささやかに生きる。それがお似合いの生き方だったんだよ」

「勝手に決めないで」

「ずっと隠れていれば良かったんだ。その美貌だ、うまくすれば生きていける方法は幾らでもあったろう。掛井や俺なんて悪党は、放っておいてもいつか天罰が下る。地獄に落ちる。そう思っていれば、それで済んでいたんだ」

 龍子は撃鉄を起こした。

「悪いが全然怖くないね、だがこっちのお兄さんは違うな」町田は銃口を喬史に向け直した。「殺気というか、悪寒を感じるよ。なんと言うか、禍々しいね」

 喬史は町田に顔を向けた。瞬きせぬまま、町田の両眼を凝視し、少しずつ前傾姿勢をとり始めた。

「取り敢えず、こいつだけは先に殺しておこうか」

「待って」龍子は拳銃を下ろした。「解ったわ、再交渉よ」

「交渉になるかどうか、保証はしないぞ?」

 町田は喬史に向けた銃口を、逸らす事はしなかった。

「龍子」と、背後から怖々した声が聞こえた。 

(ややこしいのが来た)町田は舌打ちした。

「何をやっているんだ、いったい…」

 龍子は振り返って、拳銃を掛井暁に向けた。

 喬史の視線は、町田と他の男たちに動く事を許さなかった。

 龍子は銃口を振って、暁にそばに来るよう促した。

「従うな、逃げろ」

 そう町田は言ったが、すでに階段を降りてしまっていた暁に、振り切ろうとする勇気はなかった。暁は龍子の隣まで来てしまってから、「冗談はやめろ」と発言して、この場にいる全員を呆れさせた。

「おい、こっちを無視するな。このお兄さんを殺しちまうぞ」

「ならばこいつを殺すわ。この男相手なら、わたしは躊躇しない」

「・・・お互い、銃を置いて交渉に入るべきじゃないか」

 龍子は暁の背後にまわり、背に銃口を向けた。

「あなたの言葉が信じられるとでも? 交渉はあなたの雇い主と直接、今この場でするわ。そろそろ黒幕に出て来てもらって頂戴。どうせその辺で隠れて見ているのでしょう?」

「黒幕? マンガや映画の見過ぎだ」

「掛井武人はもう死んだ。ではなぜ、あなたみたいなやくざがまだこんな所にいるのかしら? さっき本人にも言ったけれど、この三太郎はひとりじゃ何もできない」

「何だと!」と暁は怒って言った。「三太郎とはどういう意味だ!」

「黙ってなさい」龍子は聞かん坊を叱るように言って、銃口を背中に押し当てた。町田も心の中で同意した。

「この男は何も知らない、あなた達が何者かすら解っていない。ただ親にすがって、何もかも押し付けて伏せていただけ。けれど、そもそも掛井武人があなたの雇い主だったとも思えない。人殺しを雇うほどの金も、力も、そして悪い意味での度胸も、いささか不足していたんじゃないかしら」

「ほう、じゃあ誰が雇い主だと?」

「単純な話よ。わたしを死ぬほど嫌っている人。女の敵は女。この男の奥さん、掛井晴美はるみ

「何だと?」と、暁は振り返った。銃口の先は背から腹へ変わった。

「動くな、って言ってるのに、もういっそ撃つわよ」

「お前、何を言ってるんだ」暁は血の気を失った、呆けた表情をしていた。

「正確には奥さんの家って事かも知れないわね。由緒ある財閥家系の娘を、政治家一族に娶らせるなんて、よく聞く話でしょう? その婚約者が隠れて付き合っていた女を刺した、なんて事件が発覚したら、娘は家も含めていい笑いもの。婚約を白紙にしたってもう手遅れ。そこでこの町田という、おそらくこれまでも財閥の裏仕事を請け負っていた男を送り込み、掛井武人をフロントに置いて、わたしの殺害を企んだ。ところが掛井は口では威勢のいいことを言っておきながら、いざとなると殺害を躊躇し、わたしに逃げる隙を与えてしまった。そして五年が経過する間に、掛井武人の化けの皮がどんどん剥がれ始めた。二十年に渡る収賄疑惑に加えて、隠し子疑惑、さらに息子の殺人未遂が再び発覚しそうになった。とんだ外れくじを引いてしまったのだと、今更気づいた。しかし子供まで作ってしまって、もう後には引けない。スカな夫は今後手綱をきつく締める事として、家名を傷つける要素しか持たない舅には、疑惑を繋いだまま、あの世に行ってもらう事にした」

「何をバカな!」暁は大声を出した。

「舅と隠し子は始末させた。あとはわたしだけ」

「隠し子って、一体何の話だ!」暁はしつこく大声を出したが、誰も相手にしていない。

「何の証拠がある?」と町田が暁の背中越しに尋ねた。

「まあ、確たるものはないわね。でも疑惑の根拠となる材料はたくさんあるわよ。隠しマイクの音声とか、元秘書の証言とかね。わたしを殺しても、それらはすべて残る。知っているでしょう? わたしの彼氏の中には、警察官や雑誌記者だっているのよ。どちらも超有能よ」

「全員始末するさ」

「無理ね、他にもたくさんいるわ」

「ハッタリだろう」

「町田、わたしの殺害だけ、失敗したのはなぜかしら?」

「・・・さあな」

 受付カウンターの横にある、斎場に繋がる通路から女が一人、ロビーに現れた。通路は電灯が消してあったため、影に隠れて見えていなかったのだが、実はずっとそこにいたのかも知れない。

「晴美、お前」と、暁が意識せず、漏れ出たような小さな声で言った。

 掛井晴美は怯む様子もなく、暁の隣まで歩いて来ると、龍子に対面した。

「現金一億、それで手を打ちなさい」と、晴美は落ち着いた口調で言った。

「三億と、旦那さんの政界進出を諦めて」

 龍子と晴美はしばらくの間、黙ったまま睨みあった。

 晴美は睨みっぷりが堂に入っている。間に審判がいたなら、合図がかかると同時に飛び掛かってきそうだ。さっき会った時もそうだったが、かなりの敵意を表情にあらわしている。名家に生まれ、優秀な経歴を積んできた自分が、結婚という大切な節目で初めてケチが付いた、その原因となった女、つまり自分を激しく恨んでいる、という事だろうか。いや、随分勝手な言い分だし、良家の生まれと育ちにしては、ずいぶん余裕のない表情だ。兄弟姉妹は何人かいるだろうか? ひょっとしたら、かなりの劣等感を抱きながらこれまで生きてきたのかも知れない。政治家の妻となることだけが、彼女がアイデンティティを確立できる唯一の手段だとしたら。

 どっちにしろ、わたしにとってはいい迷惑なだけだ。詰まるところは、もてない女の嫉妬というわけだ。どいつもこいつも、老若男女を問わずに、よくもまあくだらない理由で人を殺そうとまで考えるものだ。

「それと、夫婦そろって精神科に通って頂戴」龍子は何度も鏡でチェックした事のある、地球上の花が一斉に開いたような、素敵な微笑みを作って言った。

 晴美は龍子の顔をじっと睨んだまま、十秒ほど経ってから、「始末して」と言った。

「ご主人の命は?」と町田。

「銃は偽物よ」

 サプレッサーを付けた銃声ではない、ドン、という大きな音が鳴った。出入口にいた大柄な男が尻もちをついて倒れ、すぐにもう一人がオオッ!と、意味のない雄叫びを上げながら、突然入ってきた男に組み付いたのだ。

「警察だ! 全員動くな!」取っ組み合いながら、天童は叫んだ。

 全員が出入口に気を取られた一~二秒の間に、喬史が床を蹴って、前方に駆け出した。

「甘い!」間は二メートルほどまで縮まっていたが、町田は正確に喬史の顔面に狙いを定めて、引き金を引いた。


 撃鉄は起こしていた。焦って銃口をぶれさせる事もなかった。拳銃を撃った経験は何度もあるし、人に向けて発砲したのも始めてじゃない。避けるよう身体を捻って、顔が右回転した様子を見たが、それでもあの距離で銃弾を躱す事は不可能だったはずだ。だが実際、喬史という名の男は無傷のまま身体を右に翻し、すぐにもぐりこむようにして、自分の下半身を両腕で掴んだ。そんな事があるはずないのだが、下半身を捕まれてから、躱された(いや、すり抜けた?)銃弾が、前方にある階段に着弾した光景を見た。

 町田はバランスを崩しながらも、銃口を喬史の背に向けたが、引き金を引く前に仰向けに倒された。が、床に腰を打ち付けると、すぐにまた持ち上げられ、まるで絨毯の埃を払って敷き直すかのように、軽々と町田の身体は波打って宙を舞い、最後に手を離されて再び仰向けに落下すると、最初よりもずっと激しい衝撃が腰と背、それから後頭部を襲った。

 町田が痛みを感じ始めた最中、喬史は足を開いて倒れた町田の股間を、ゴール前のサッカーボールに見立てたような勢いで、右足で蹴った。

 地球上の生物とは思えない呻き声を上げて、町田は身体を横にしてうずくまり、やがて口から泡を吹いて気絶した。

 その・・・十秒足らずの出来事に、全員が正に震撼した。龍子は銃を持った手で顔を覆って見ないようにしていた。暁と晴美は夫婦そろって顔をひきつらせて、町田の両側にいた男二人は完全に固まっていた。出入口近くで争っていた天童たちも、動きを止めていて、再開する気にはなれなかった。

 喬史は周囲が止まっている中、町田の様子を確認しつつ、さらに顔面に打撃を加えようと首をつかんだ。

「そら!」と、龍子が怒鳴った。「やめなさい」

 喬史は動きを止めた。「でも、とどめを刺しておかないと」

「もう刺したも同然よ」

 喬史は町田の首から手を放し、握ったままだった拳銃を奪い取って、龍子の傍までゆっくり歩いた。龍子から目線を逸らし、すごすごと、申し訳なさそうにしている。

 天童が小走りで龍子と喬史の傍に駆け寄っていった。固まっていた男二人は、横たわった町田の上体を抱き起し、天童と格闘していた二人の男は、お互い顔を見合わせて、その場に立ったまま状況を見守った。

 起こされた町田の顔を見て、晴美は表情を歪ませた。

 町田は人相が変わったような…整形がリセットされたかのような、一気に老け込んだ顔になっていて、口から下を吐物で濡らしていた。手足はだらんとしていて、死んだかのように見える。

 男が町田の口の周りをハンカチで拭いてから、耳を寄せて呼吸と心臓の動きを確かめた。

「大丈夫です。息しています」

 龍子は安堵して、深呼吸した。

 目の前に天童が来ると、今更ながら状況を把握し直した。

「天童さん、何しに来たの?」

「随分だなあ、君を助けに来たつもりなんだけれど、…完全に彼に食われちゃったな」

 天童は喬史を見た。居心地悪そうに下を向いている。

「多分、来ているんじゃないかと思ったよ」

「天童さんこそ大丈夫なの?」

「ひどい目にあったがね、まあ、その話はあとだ。全員連行する、君も含めて」

 天童は振り返って、掛井夫妻に目をやった。夫は顔を伏せているが、妻の方は断固拒絶を表情で訴えている。

「嫌よ、冗談じゃないわ」龍子が代弁した。

「いや、そう言うだろうと思っていたけれど」

「これはわたしと、この夫婦との問題。五年も経ってから、今更警察がしゃしゃり出てくるんじゃないわよ」

「龍子ちゃん、ここで公にしておかないと君が危険だ。例え交渉できたとしても、彼らが約束を守る保証はどこにもない。ずっと命を狙われるかも知れない」

「それはあっちも同じよ。散々失敗したあげくに、今もこの有様。次はないわ。夫婦そろってああなるわよ」

 龍子はまっすぐ手足を伸ばして、床上に寝転ばされている町田を、銃口で指した。

 晴美は目の前に立つ喬史を見た。拳銃を握る右手の人差し指は、軽く引き金に触れている。少しだけ上げた顔は、両目は、晴美を完全に捕えていた。

 龍子は胸の奥底に溜まったストレスをすべて吐き出すかのように、「あ~、もう~~~~、もう~~~~~~~~」と、声を出しながら息を吐き続けた。

「なんでこうなるのよ。人ができるだけ話し合いで解決しようとしているのに、バカじゃないの? わたしを殺しても、他に話を知っている人間はこの五年間で不特定多数作っているわよ。誰かが代わりにあなた達を強請るか、全部ばらすだけ。それなのに、短絡して殺せば済むなんて考えやがって。そんなにお金が惜しいの? あなた達なら、多少家計をやりくりすれば済む話でしょう? わたしのエンゲル係数を教えてあげたいくらいよ。

・・・ちょっと天童さん、これ持ってて」

 龍子は天童にバッグと、拳銃を手渡した。

「ああ、これ、偽物だね」

 天童の言葉に男たちは反応したが、喬史が本物を握っている事を忘れてはいない。

「奥さん」龍子は少し動いて、喬史に代わって晴美の正面に立った。

「裏で糸を引いてフィクサー気取り、親の真似事をしているつもりなのかも知れないけれど、結局は先祖と親の威光を笠に着て、荒事は全て男に頼っているだけのバカ女じゃない。…まあ、そう言うわたしも同じなのよね。いろいろ策をめぐらせても、最後はいっつもこの子の無茶苦茶な暴力で決着がつくのよ。能がない、ったらありゃしないわ」

 隣の喬史はまた下を向いた。

「暴力による解決しか出来ないならば、せめてわたし達女も痛い目にあいましょう。わたしとあなたで、素手でケンカをするの、今、ここで決着をつける。あなたが勝ったらわたし達はこのまま消えるわ。二度と姿を見せない。わたしが勝ったら、慰謝料四億と、あなたの旦那さんは自首」

「無茶だよ」と天童、喬史が揃って言った。

 暁と他の男たちは(一億増えている)と心の中で呟いた。

「警察に任せるのは双方真っ平。でも、天童さんが言うように交渉したとしても、履行されるかどうか疑わしい。それはね、単にすっきりしないからよ、お互いに」

 龍子は晴美の顔をまじまじと見つめた。

 さっき一見した限りでは美人だと思ったが、こうしてじっくり見てみるとそうでもない。えらが張った輪郭を、内向きにカールさせた毛先で隠している。アイラインも太くて濃い、実際の目はもっと小さいだろう。鼻筋はきれいだけれど、いい点はそこだけ。体格がごつくて、ウエストと半袖口にフリルが付いたワンピースや、角張ったパンプスが全然似合っていない。

 嫌らしい事だと自覚しているが、同年代の女の容貌に対しては、図らずも上から目線の評価を下してしまう。別に平凡な顔が嫌いなわけでもないのだが・・・

「わたしはこの女が嫌い。この女はわたしが嫌い。そして、お互い自分も嫌い。このカスが原因になっている事が、心底情けないのよ」

 龍子も晴美も、いっさい暁に目を向けなかった。

「負けた方が、大人しく従う保証はない」天童が言った。

「どちらも痛い目にあったなら、少しは懲りるのよ。他人にやらせているから、いつまで経っても怖いままで、恨みが全然減らないのよ」

(君はもう、十分痛い目にあっているじゃないか)と天童は思ったが、言葉には出さなかった。もう何を言っても止められない。言われるまでもなく、龍子はさんざん懲りている。暴力にうんざりしている。

「馬鹿馬鹿しい」晴美が冷たく言った。

「暴力でも警察でも、好きにしてみればいいわ。お金と権力を甘く見過ぎているようね。たとえ私達を逮捕したって…」

 言い終わらないうちに、龍子は晴美の左頬を平手で強く叩いた。すぐに二発、三発と叩くと、今度は晴美が一発、龍子に返した。

 龍子は後ろに引いて距離を空け、ボクシングスタイルの構えを取った。

「ここからはグーで行くわよ」

「…ふざけるのもいい加減にしろ」晴美は脅すように低い声を出して、足を肩幅に開き、少し腰を落とした。

「龍子さん、たぶん相手は格闘技経験者だよ」

「身体つき見りゃ、解るわよ」

「龍子さんより、数段上だと思うけど…」

 それも解っているわ。おそらく柔道やアマレスと言った組技系よ。でもどうせ十年も前の事でしょう。しかもあの服装、ピチピチのワンピースに踵五センチのパンプス、動きはかなり制限されるわ。対するわたしはパンツルックにローファー、距離を保ったらこっちのもの。まずはリーチを活かしてジャブを…

 龍子が繰り出した二発の左ジャブは、ガードする晴美の両腕にほとんどダメージを与えることもなく弾き返されて、晴美が反撃した。奥襟を掴みにかかった晴美の右手をぎりぎりで振り払ったが、追って襲った左の拳が、浅く龍子の鼻に当たった。

 計算が狂った事を自覚する暇も与えず、晴美もまたボクシングの構えを取って、ラッシュをかけた。数発は腕で防いだが、ガードが崩れた瞬間に、右パンチが一発、龍子の顔をまともに捕えた。手打ち気味のパンチだったためダメージはそれほどないが、龍子は鼻血を噴出した。

 晴美は休むことなく、後ろに下がった龍子に追い打ちをかけようとしたが、スカートが邪魔をしてスピードを落としたところで、龍子が無我夢中で出した前蹴りが腹に当たって、足を止められた。

(あれ、打撃系? それとも総合?)龍子は人差し指で鼻の片方を押さえ、もう片方の孔から息を吐き、血を抜いた。

「龍子さん、僕がやる」堪らず喬史が言った。

「それじゃ意味ない、って言ってんの! 絶対に手を出すんじゃないわよ!」龍子が怒って言った。

(ここでこの女を倒しても、町田を倒した男が襲ってくるとしたら、とても敵わない。男どもは突っ立っているだけ? なぜ助けを呼びに行かないの? 本気でケンカで決着がつくなんて思っているの? 銃なんて持ってくるからこんな事に…どいつもこいつも無能ばかり!)晴美は靴を脱いだ。少し前屈になって、両腕を前に拳を目の高さまで上げて、上半身を固めるように構えた。

 龍子は唾を飲み込んだ。

 じりじりと、少しずつ晴美は龍子との距離を詰めた。

 けん制するためにローキックでもするべきかと龍子は考えたが、あの太い足に効くだろうか。逆にこちらがバランスを崩してしまって隙を与えるかもしれない。 …めんどくさいな、いちいちそんな事を考えるほど、自分も相手も達人じゃないだろう。

 龍子は考える事をやめて、勢いよく低い蹴りを繰り出した。蹴りは最初膝に、二発目は外腿に当たって、晴美を少し後退させた。

(ダメだ! 効いていない。トレーニング不足だよ)喬史は焦って思わず、「くそっ!」と大声を出した。

 晴美は喬史の大声に一瞬怯み、追い立てられたように強引に龍子に迫った。龍子は膝を蹴って止めようとしたが、晴美は右に躱し、一気に詰めてジャブとストレートをガードの上から何発も連打した。

「いたい、いたあい」と、龍子は急にかわいらしい声を出し始めた。

 その声とは裏腹に、龍子もパンチを応酬し始めた。カウンター気味に龍子の右拳が晴美の左顔面に当たった。連打して次も、その次もパンチを当てた。しかし晴美も緩んだ龍子のガードの隙間から、拳を突き上げて龍子のおでこを殴った。

(二人とも顔ばかり狙っている、女は怖いな)と、天童は思った。しかし、そろそろ無理矢理にでも止めないと…

 思わず頭を押さえた龍子を見て、晴美は腰を落として大きく右に動いた。龍子の左側に回り、それから両腕を広げて、龍子の胴に掴みかかった。

 やっぱり! 掴んでくると思っていた。わたしを人質にしようと考えたのでしょう。後先の事を考えてちゃ、ケンカに勝てるはずがない!

 龍子は両腕を上げて誘いこんだ。胴を捕まれると同時に、長い左足を伸ばし、ずっと狙っていた晴美の左素足の甲に、思いっきりヒールを刺した。

 晴美は甲高いうめき声を上げて、龍子の胴体から腕を放した。龍子は絶好のポジション(=龍子の左側の腰元)に来た晴美の顔に向けて、左肘を打ち下ろした。頭の右側面に打撃を受けて、晴美は床に突っ伏すると、すぐに頭ではなく、左足を押さえてうずくまった。

 龍子は晴美を見下ろしながら、高らかに言った。

「わたしの勝ち!」(お願い、もう顔も腕も拳も、何もかもが限界)

 晴美はうずくまったまま返答せず、戦闘意欲を失った事を表していた。

 晴美の顔はところどころ赤く腫れ、足の甲は特にひどく、出血し、すでに大きく腫れあがっていた。おそらく骨折しているだろう。着ているワンピースも、両肩の部分が大きく綻んでいた。

 龍子もまた、鼻が腫れて出血している。時間が経つと、顔も腕ももっと腫れて激しく痛み、痣がしばらく残るだろう。髪はグシャグシャで汗まみれ。美貌は見る影もなくなっていた。

 男たちは皆、言葉を失っていた。

 息を整えてから、龍子は晴美に向けて「四億と自首、いいわね」と言った。

 晴美は腫れあがった顔を上げた。涙でアイラインが流れ落ち、黒い涙が頬を伝っていた。

「二億と、自首はダメ」

「三億と自首」

 条件を下げたようでいて、もともとのものだ。

「二億、私の力じゃあ、それが限界よ。あなた高卒の警察官だったんでしょう? そのくらいが妥当よ」泣きじゃくりながら晴美が言った。「お願いよ。残りは、国会議員になった夫が分割で払う。これ以上駄々をこねると、あなたも私も面倒な事になる」

 龍子はしばらく考えるそぶりをした。この辺が落としどころだと解っている。

「じゃあ前金二億と、残り二億を分割ね。解っていると思うけれど、反故にしたり、今後わたしやわたしの彼氏達に危害があったりした時は、こんなもんじゃ済まさないわよ」

 晴美は涙を拭って、「わかった」と言った。「二度とあなたには会わない」

「そうして」

 それから龍子は暁を見た。妻を介抱するわけでなく、ただ茫然と立ち尽くしている。

 父親を殺した妻に手綱を握られて、今後本当に国会議員になれるのかしら。もしもなれたとして、迷惑なのは国民よね、知った事じゃないけれど。

 暁は視線に気づいて、龍子に顔を向けた。

「もしもあなたが切腹したら、二億で許してあげるわよ」

 暁は小さく首を振った。

 龍子は天童と喬史の方を向いて、笑顔を見せた。

「解決したわ。帰りましょう」

 天童と喬史は、あまりにひどい笑顔を見て、顔を伏せた。

「何よそれ、失礼ね」

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