第13話 CHAPTER 4: Sunny place PART 3

 龍子に恋慕する三人の男は、掛井宅での出来事を、後ほど彼女からそれぞれ(部分的に要約をした)話を聞く事になった。彼女が掛井宅から出てくるのを待った喬史が一番先に聞いて、翌日のテレビ放送を観て知った村井がそのまた翌日に、天童はずっと後の事になった。未だに天童は龍子の連絡先を知らず、また、横浜にある〈レーネ〉にそう度々訪れる時間の余裕もなかった。

 龍子の話は後日、天童と村井がお互い確認しあった時に、ほぼ齟齬が見当たらず、本当の話だと二人は思った。


 掛井武人は氷川龍子という名前を覚えていた。彼女自身から耳打ちでその名を告げられると、全ての記憶が鮮明に蘇えり、あまりの驚きにしばらく呆然とした。掛井は自室である書斎に彼女を通すと、飼犬の足拭きを済ませた後、遅れて部屋に入ってきた秘書の男に、彼女の持ち物を調べるよう命じた。

 龍子は持っていた小ぶりのベージュ色のショルダーバッグを、掛井に築島つきしまと呼ばれた男に手渡した。バッグの中身は黒い折り畳みの財布とスマホ、水色の化粧ポーチだった。さらに化粧ポーチも中身を調べられた。高級そうなレッドブラウンの書斎机の上に置かれたポーチの中に指を入れて、自らも確かめる掛井の仏頂面を見て、龍子は吐き気を催し、両腕をさすった。気分が悪くなったのは効かせ過ぎの冷房と、掛井の醜い容貌のせいだけではない、最たる原因はもちろん、敵陣に単身で乗り込んでいる、この状況によるストレスだ。

 千葉でニアミスしてしまったあの警察官から、掛井に情報が伝わるのは時間の問題だ。おそらく途絶されていた捜索は、再び開始されるであろうと考えていた。かといって、全国の警察官による大捜索なんて行われるはずはない。また関東を離れれば一生隠れ通せるのかもしれない。しかし、そんな日陰生活はもう真っ平なのだ。そう奮起して、追われる事に怯えるよりも、自ら懐に入って掻き乱してやろうとしているのだが、早まったんじゃないか、という自省を拭う事はできずにいた。どうも自分には追い詰められたり、煮詰まったりすると無茶をする傾向があるのだ。

 また、掛井の書斎にある調度品・・・古臭い社長室のように、部屋の出入り口に向けて置かれた大きな書斎机、どうせ見栄だけのために購入したであろう、洋書や古典文学、古くて厚い辞典等が並べられた書棚、手掘り枠の黒い革張りソファが四脚、真ん中に漆塗りのテーブル、万華鏡のような模様の赤紫色の絨毯、高くもない天井からは中途半端な装飾の古いシャンデリアがかかっている。所々に大小の壺や大皿、西洋画、日本画が節操なく飾られていて、おそらく十五~六畳程ある広い部屋のはずなのに窮屈な印象で、部屋に染みついている靴墨のような匂いも不快だった。

「携帯の電源は切っておくんだ」

 掛井がきつい口調で言うと、築島は言うとおりに龍子のスマホの電源を切って机の上に置いた。

「よし、お前は外せ」

「いや、しかし…」

「いいから」

「この方はいったい」

「行けと言っとるんだ! 口答えをするな、ばか者」

 怒鳴られて、築島は慌てて部屋を出て行った。

「ずいぶんとご機嫌が悪いようですわね」

 掛井は黒いリクライニングチェアに腰かけた。机を挟んだ位置に立つ龍子を、太腿から腰、胸、首筋へじっくりと目線を上げて行って、顔をまじまじと見た。頷くように頭をわずかに振って、「それで、何の用だ」と龍子から目線を離さないまま言った。

 少し沈黙を挟んで、「座っても?」と龍子が言った。余裕の笑みを浮かべて言ったつもりだったが、ぎこちない、ひきつった笑顔になっている事を自覚した。男からの卑猥な目線には慣れているが、掛井の顔からはいやらしさだけではない、得体のしれない化物とでも対峙しているような、寒気を共にした不快さと緊張を感じた。

「どうぞ」と低い声で掛井が言った。

 龍子は後ろを向いてゆっくりと一番手前にあるソファに近寄り、腰かけた。三メートル程の間を空けて、掛井に対して横を向いた体勢となったが、すぐに右側に身体を寄せて、肘掛けにもたれて、左斜めの角度を掛井に向けた。長い素足を組んで、黒いショートブーツを掛井に向けると、黒のミニワンピースの裾から太腿が露わになった。龍子は改めて余裕の笑みを作った。

「直接お会いするのはこれが初めてになるのかしら、もしかして、病院にお見舞いに来て下さっていたのかしら」

 掛井は黙って龍子を睨みつけたままだった。

「病院に運ばれた後は、ずっと痛みで苦しんでいたか、薬で意識が朦朧としていたものでして、苦痛以外はほとんど記憶にないの。無事に歩けるようになった時には、わたしは行方不明扱いになって、しかも警察を退職させられていましたから。それからは大変でしたわ、仕事や住むところだけでなく、身分まで勝手に奪われて、どうしてこんな事にって…」

「一体何の話をしているんだ!」掛井が大声を出して遮った。

 数秒して、ドアをノックする音がした。

 ドアに向かって掛井がまた大声で「いいから控えていろ!」と怒鳴った。

(おそらく)築島がドアの前から離れて行く間を待って、龍子が話した。「今更とぼけないで下さいな」少しうわずった声になってしまった。不快さと緊張が増していた。

「わたしの名前を覚えていたのでしょう。あなたの息子と、あなた自身がわたしに対してどんな仕打ちをしたのか、あなたはしっかり覚えている。わたしがいつか現れる事を畏れていたはずよ。このまま無かったことにされてたまるもんですか、老い先短い年寄りには、きっちりと落とし前をつけてから死んでもらいたい…」

 掛井が両拳で机の上を強く叩いて、再び龍子の続く言葉を打ち消した。

 数秒経ったが、さすがに築島のノックはなかった。

「おしかけてきておいて、なんだ! その無礼な口の聞き方は!」

 掛井は机の上においた両拳をそのままに、身体を前に引き寄せた。銀縁眼鏡と腫れぼったまぶたで異様さを強調しているギョロリとした眼が、龍子を捕えていた。

「氷川龍子、君は数年前に私の息子、暁と交際していた。しかし君は暁との交際の裏では多くの男達と関係を持っていた。その事実を知った息子は、君との関係を清算するために君を自宅に呼んだ。別れ話にひどくショックを受けた君は、発作的にその場で台所に置いてあった果物ナイフを手に取り、自分の腹部を刺した。自殺を図ったんだ」

 何を言ってるの? 龍子の呟きのような声を意図的に無視して、ボルテージを上げた掛井は続けて話した。

「息子はすぐに救急車を手配し、君を病院へ運んだ。幸い、それで君の命は助かったのだ。しかし君は入院途中に無断で病院を抜け出し、行方を眩ませたのだ。君は職場にも一切連絡をしないで、住居もそのままにして消えたのだ。警察官にあるまじき失態をおかした事を恥じて、一切の責任を放棄して逃げ出してしまったのだ。それらの後始末の他に、治療費や入院費も全て息子が支払った。息子はひどく心配して、さんざん手をつくして君を探し回ったが、見つからなかった。それが今更あらわれて、何を非難がましい事をのたまうか! 大方筋違いの慰謝料でもせびりに現われたのだろうが、なめるんじゃない。さっさと立ち去れ、二度と顔を見せるな!」

 龍子は両目を閉じた。ほんの数秒間、落ち着きを取り戻すために頭を空にするよう努力した。湧き上がる感情を必死に封じ込めるために。しかし、それだけでは足りないようだ。心の中で深呼吸する。変な声が出ないように、静かに唾を飲みこんでから立ち上がった。

「トイレをお借りしてもよろしいでしょうか?」

 掛井はようやく龍子から目線を逸らして、軽く溜息をついた。「構わんよ」

 龍子は掛井に歩み寄って、机の上から化粧ポーチだけを手に取った。ファスナーが空けられたままで、龍子は確認するように中身を指で探りながら、ドアに向かった。

 突然、龍子は膝元から崩れるように倒れ込んだ。ポーチの中身が絨毯の上に散らばった。

「どうしたんだ」

「いえ、すみません」と焦った様子で、龍子は化粧品を拾い始めた。しばらく両膝をついたまま、あちこちに手を伸ばした。

「まったく…」呆れたような口調で言って、掛井は横目で四つん這いになった龍子の後姿を眺めた。丸く張りのある尻の形と、細く、滑らかで柔らかそうな太腿の裏を見て、自然に笑みがこぼれた。

 机が邪魔だが、もう少しかがめば下着が見えるな。そう思ったところで龍子は立ち上がった。掛井はその背に向って「おい!」と、大声を浴びせかけた。

 龍子の背がびくっと動いたのを見て、さらに大声を出す。「築島、早く来い!」

 龍子は硬直したように止まっていた。

 やがて急いだ足音が聞こえてきて、ドアが開いた。

「トイレだと、連れてってやれ」

 築島に「どうぞ」と促されて、龍子は掛井に背を向けたまま部屋を出て行った。

(ふん、小娘が、俺にかかればあんな物だ)掛井は満足そうな表情で見送った。


 鏡に映る自分の顔を見て、龍子はがっかりした。しっかりメイクをしてきたはずなのに。いつもより目尻のアイラインを強調して、口紅もいつもは薄い色のものを好むけれど、少しだけ濃いサーモンピンクのものを塗って、眉毛も濃いめに、髪をおろし、ウェーブを整えてゴージャスな雰囲気にしたつもりだった。最近、化粧品を安価なものにしていたのが祟ったのだろうか。

 顔色が悪いな・・・青ざめているのか、この洗面所の蛍光灯のせいか、どこか生気がない、固い感じがする、つまり余裕が感じられない。テレビカメラの前に突入した時はこんな感じじゃなかったはずなのに、あの男の毒気に当てられたせいだろうか。

 掛井が話した内容…自殺を図った、というでっちあげは、とうに知っていたものだった。その話の通りに、警察や病院には記録されている。果物ナイフには掛井暁のものではなく、龍子の指紋だけがつけられていた。現場となった暁のマンションでは、なおざりの検証が行われて、疑いなく自殺未遂を結論付け、早々に処理された。もちろん極秘扱いであり、一切の報道は行われなかった事を、この五年の間で調べ上げている。

 しかし、改めてその吐き気がする話を、おそらくでっちあげを企んだ当人から淀みなく、更に怒りを込めてまで語られて、呆れも怒りも通り越して、ただ恐怖を感じた。悪人とは、悪の自覚をここまで自分で覆い隠して生きられるものなのだ。逆ギレなんて言葉では片づけられない程の掛井の態度に、尋常でない禍々しさを感じて、気分が悪くなった。

 だが、これで引き下がってはここまで来た意味はない。それどころか、この五年間を生きてきた意味すらない。生まれて一年も満たない間に捨てられて、命の危機にさらされ、成人してからも再び命を奪われそうになって、からがら生き延びたのに、さらにあと少ししたら、今度は社会的に死んだ事にされるのだ。冗談じゃない、何度も何度もふざけるな、こうなったら意地でも生きてやる。邪魔する者には容赦はしない、奴らが死んで地獄に行く前に、必ずこの世で報いを受けさせてやる。そう決めたのだ。

 龍子は両頬に手を当てて、マッサージをはじめた。

 

 トイレから戻ると、掛井は椅子に座ったままだった。ふんぞり返って、だぶついた顎を突き出していた。

 築島が黙ったままドアを閉めて、また部屋から離れて行った。

「まだ何か?」少し笑みを浮かべて、掛井が言った。

 龍子は立ったまま、軽く咳払いをしてから話した。

「真実をご存知ないのでしたら、お教えしますわ。あなたの息子、掛井暁は別れ話をした時、わたしに扱き下ろされて、逆上してわたしを刺したの。こきおろす、って言葉、いいわよね、響きがいかにもえげつない感じがするわ。こいて、おろすのよ。相手をボロボロにするっていう強い意志が込められているように感じるわね。

 さっきのあなたの話、取ってつけたようなもので、あまりにもそちら側に都合の良すぎる話だわ。それをそのままろくな取り調べもなく、自殺未遂と認定したのだとしたら、その警察はよっぽどの馬鹿か、でなければ何らかの圧力と裏工作があったと見るべき。つまりはあなたよ。元警察官僚、元知事、現国会議員。その息子が傷害事件、いや、殺人未遂事件を起こしたとなったら、どんな事をしても揉み消そうとする。息子自身が警察官でもあるし、そんな事がばれたら親子共々全てを失う事になるんだもの。あなたの色々と胡散臭いイメージを考えると、そういう疑惑を持つ事は当然でしょう」

「馬鹿な事を言うな!」掛井は立ち上がって、怒鳴りつけた。

「いちいち大声を出さないで頂戴、小物感が溢れ出ているわよ。脅しのつもりかもしれないけれど、そう何度も何度も怒鳴っていると、どんどん効果は薄れていくわ。何事も緩急が大事なのよ。わたしにはその赤ら顔で怒っている姿が、なにか滑稽に思えてきているの、その辺にしておかないと、今にわたしは笑い出してしまうわよ」

 実際、龍子はそう思っていた。掛井に対する脅威は、トイレでの切り替えで自分でも不思議なほどに失われていた。ただ怒声を張り上げているだけの老人にしか見えない。己の権力を笠に着ているのであろうが、今この場では関係ない。いちいち先の事を恐れていたら今日を生きられないという事を、この五年の潜伏生活で学んできたのだ。

「貴様が今更何をほざこうが、誰も相手にしない!」懲りずに掛井が大声をあげる。

「そうかしら、ならわたしはこのまま外に出て、おそらく待ち構えているテレビの取材にわたしが何者か、そして何の用だったか、全て話してさしあげるわ」

「この…」さらに赤味を増した顔になって、掛井は机の上にあった大理石でできた(ペンが刺さっていない)ペン立てを掴んでは、龍子の足もとに向けて放り投げた。

 龍子は反射的に右足を上げて避けようとしたが、元々届く距離まで投げられたわけでなく、一メートル程手前の絨毯の上に、ゴン、と音をたてて転がった。

(大丈夫、これくらい怖くない)また足音が聞こえてきた。(ご苦労様)

 遠慮がちなノックがあって、ドアが開いた。

 何も言わずに顔をのぞかせた築島に、掛井は「何でもない」と小さく言うと、引き下がろうとするのを止めて、「おい、まだ外にマスコミはいるのか、辺りを見てこい」と命じた。

 はい、と返事があってドアが閉められると、掛井は深呼吸して、再び座った。

 龍子は左手に化粧ポーチを握ったまま、両手を腰に当てた。念のため、掛井との距離は保ったままにしておいた。

「古くから子分根性がしみついた地元支援者以外、あなたの世間のイメージなんて、傲岸不遜そのものでしょう、鈍感力を誇示して、自分では大物然としているつもりでしょうけれど、単にずうずうしい老害と思われているだけよ。それで今回の闇献金疑惑も乗り切れると思っているの? ネットと、さらにスマホが普及して、ほんの数年前と比べても、悪評というのは数十倍のスピードで伝達し、膨れ上がるようになっているのよ。注目度が全然違うわ。過去の悪事も色々と掘り起こされるでしょう。そのひとつが、息子の殺人未遂事件とその隠蔽疑惑となったなら、芸能人や国会議員が束になって不倫したって、絶対に適わないわよ」

「黙れ! 与太話もいい加減にしろ」と相も変わらない調子で掛井が怒鳴った。

 龍子は呆れたように鼻をフン、と鳴らしてから滑らかな口調で続けた。

「この場にはあなたとわたししかいないのよ。二人とも真実を知っているのに、与太話ですって? 自分で自分に嘘をついておきながら、嘘じゃないと言い聞かせているのよ。あなた、親や先生に怒られている極度に老けた醜い小学生なのかしら?」

「お前が嘘をついているんだ! 証拠もないくせに」

「あら、証拠がないなんて誰が言ったの?」

「なんだと、じゃあ見せてみろ、ここに持ってこい!」

「馬鹿じゃないの? そんなことする訳ないじゃない」

「どうせはったりだろうが!」

「わたしが身を隠している長い間、何もしてこなかったと思うの? それでどうして今、このタイミングであなたの家まで来たと思うのかしら?」

 掛井は言葉に詰まった。場は龍子が支配する流れに変わった。

「わたしがいずれかのマスコミにこの話をすれば、事件が掘り起こされるのは必至よ。事件の取り調べ資料に、掛井暁の名前が記されている事も確か。当時はあの手この手でマスコミから隠す事ができたのでしょうけれど、今のあなたの状況では、そこまでの力を及ぼす事は無理なんじゃない? 色々と当時の鑑識や捜査資料に、問題があった事も判明するんじゃないのかしら?」

「何を馬鹿な」

「わたしがあなたの…意気地なしの息子に別れを切り出されて、自分のお腹を刺したですって? 冗談じゃないわ、むしろ喜んで別れてあげたわ。掛井暁にはうんざりしていた。エリート気質が高くて、その実自分では何も決められない、典型的なお坊ちゃん。責任を回避する事にしか頭を回転させられない、無能な人だったわ。今はどうなのかしらね。

 そしてそれ以上にわたしはそんな男を選んでいた自分に嫌気がさしていた。男はまず財力と地位が必要だと考えていたからだけど、いい年をして、そんなもので男を選んでいた事に、心底情けない思いになっていたわ。あなたの息子なんかよりずっといい男は、たくさん周りにいたのよ」そう言ってから、龍子は改めて自省した。

 不器用で、疎いところがあったけれど、ひたすら苦手な勉強を頑張っていた人。

 軽薄なところもあったけれど、常に周りに気を遣って、損な役回りをする気のいい人。

 皮肉屋で金持ちを鼻にかけるところがあるけれど、強い意志と気概のある人。

 自分の仕事の大切さを知っていて、出世よりも正義を優先させてきた誠実な人。

 とても辛い境遇で幼少期を過ごしながら、曲がらずに優しい気性を保っていた子。

 たくさんいたのに・・・

「あなたの息子は最低の男、その父親であるあなたもそう。似たもの親子ね。別れを告げられた時は羽が生えたような気分になった。その思いを素直に言ってあげたら、真っ赤になって怒り出したのよ、今のあなたのように」

 掛井の顔色は、首から下と画したように、真っ赤に変わっていた。

「まあ、ほんとそっくり。怒りっぽいのよね」龍子は堪えられずに、笑ってしまった。

「まあまあ落ち着いて。大体、発作的なんて簡単に言うけれど、咄嗟に自分のお腹にナイフを突き立てるなんて、そう簡単にできる事じゃないわよ。なぜわざわざそんな苦痛を選ぶの? 血を流すにしたって、せめて手首を切るとかあるじゃないの。あなたの言うようにわたしは多くの男性とお付き合いしていたわ。あなたの息子と本気で付き合うと決めた時には、きちんと清算していたけれどね。何人もの男と付き合って、地位やお金を第一に男を見ていたわたしの目は、すっかり乾いたものだったでしょう。ならば、そんな女が男から別れを切り出されたくらいで、発作的に自分を刺すなんて真似すると思うの? 不自然な話じゃない。それに、わたしが刺された場所はマンションの玄関だったのよ。帰ろうとした時にナイフを手にして、そう、あなたと同様の真っ赤な顔したあなたの息子が追っかけてきて、気づいて振り向いたわたしに襲いかかったのよ。それなのに、どういう現場検証をしたのかしら? わたしは別れを切り出された後、発作的に台所まで行って、果物ナイフを手に取って、玄関に移動して靴を履いてから自分のお腹を刺したの? そんな変な情景、イメージできる? その話誰が考えたの? その人の頭の中、脳みその代わりに糠みそでも入っていたんじゃないの?」

「もういい! 話すな! 口を開くな!」

「やなこった」パンナコッタ、と言うような口調でかわいらしく返し、龍子は続けた。

「今回の献金疑惑についても、今後どういう具体的な証言が出て来るかによるでしょうけれど、あなた方はどんなおもしろ話をつくりあげるのかしらね。政治家さん達の説明って、どうせ嘘ばっかりなんだから仕方ないんでしょうけれど、それにしてもトンチキな無理のある話をするわよね。ホントに勉強できる人達が作ってんのかしら、っていつも思うのよ。小説とか漫画とかあまり読まないんでしょうね、映画なんかも観てないんでしょう。そうぞう力については、どちらの漢字のものを取っても欠けている人が多いわよね、だから世間の感覚とずれてしまっていて、平気で税金の無駄遣いばっかりやらかしちゃうのよね」

「おい!」と、懲りずに掛井が、主導権を奪い返すように大きな声をあげた。

「貴様、私相手に政治家批判をするつもりか。一体何様のつもりだ。文句があるならば貴様が猛勉強をして、官僚なり、国会議員なり、総理大臣にでもなればいいだろうが。お前は孤児だったらしいが、それを言い訳にするんじゃない。日本には奨学金制度もあって、優秀であればいくらでも道は開けたはずだ。今の若い者は努力もしていないくせに、すぐに他人を羨み、妬み、己を憐れんでは政治に責任を押し付けるが、戦後先人がどれだけの苦労をしてきて、この日本を先進国にしていったと思っているんだ」

「恩着せがましい事を言ってんじゃないわよ、あなたに世話してもらって生きてきた覚えなんかないわ」

「何も解っていない小娘が偉そうな口を叩きおって、日本に生まれたこと自体が恵まれていると言っているんだ。世界には親のいない子供達がどれだけいるか解っているのか、飢えと病気で苦しんでいる子供達がどれだけいると思っているんだ。お前たちの言う不幸がどれほどのものだと言うんだ。インターネットで動画や画像を見ているだけで、世界を知った気でいるのだろう。他人の批判に同意するだけでいい気になって、世の中を変えられるとでも思っているのか、そんなものクソの役にもたっていないぞ。マウスとキーボードを操作するだけの奴らになんの力があるものか。調子に乗るんじゃない、いつかパソコンもスマホも取り上げてやる!」

「一体なんの話? そんな話していないわよ。ああ、きっと自分がネットでボロカスに言われているのを知っていて、ずいぶんと鬱憤が溜まっているのね。大体親がいなくて、飢えと病気に苦しんでいる子供達に説教されているなら素直に頭を下げるけれど、どうしてあなたのような肥満体のじじいにそんな事言われなきゃならないの。たかが国会議員が偉そうに。あなた、ひょっとして今の日本を築き上げてきた一人だなんて思っているのかしら。勘違いしないで、あなたが政治家なんてならなかったら、その分もっとマシな国になっていたでしょうよ」(罵倒する言葉がすらすらと出てくる。元々悪口は得意だったけれど、いつもよりちょっと下品な言葉遣いになっているわ)

「ふん、若い女は自分が世界の中心にいると思いがちだ。消費社会が生んだ錯覚だという事に気づいていない。踊らされているだけなのに気づかず、まったく憐れだな」

「だーから、話逸らしてんじゃねえよ。いくら自分が老いて、醜さにさらに磨きをかけているからって、若い美女を羨んでんじゃねえよ。気持ち悪いな、この腐った中華まん」

(なんて下品な・・・こんな言葉が自分の口から出てくるなんて)

「何だと!」掛井が睨みつける。

 龍子の冷ややかで美しい顔は、完全にその威圧を跳ね返していた。

 掛井の表情はゆがみ、額いっぱいに汗をかいていた。場の雰囲気は完全に龍子優位の様相だった。もっとも、実際部屋の気温は龍子には少し肌寒く、掛井にとっては不十分なもので、掛井の頭には、さっきから血が上ったままだった。

「今何と言った!」

「腐った中華まんだと言ったのよ。臭いのよ、あなたもこの部屋も。腐った油とくず肉が合わさったような匂いを体から漏らして、さらにエアコンで部屋中に循環させやがって、こっちはずっと吐き気がしているのよ。

 誰があなたに親のいない不幸を訴えた? なんで化け物みたいな年寄りを妬まなくちゃいけないの。わたしはあなたに奪われた、堂々と生きる権利を奪い返しに来ただけよ。

 いい? あなたもあなたの息子も、ようやく年貢の納め時、溜まった油の火付け時(そんな言葉はないけれど)が来たってわけよ。観念して数々の悪事を洗いざらいにして、親子仲良く刑務所に行きなさい。あなたは牢屋の中でダイエットしながら一生を終えなさい。この臭い部屋の中の何もかも、家も財産も裏金も全て手放して、私と国民に賠償をしなさい。そうすれば許してあげない事もないかもしれないわ」

「何を馬鹿な」

「馬鹿はてめえだ、この全身大トロ野郎。さっさと覚悟決めねえと、解体して刺身にして、船盛りにしたあげくに、食わずに生ごみに出してやるからな」龍子は、自分の新たな一面が覚醒してしまったのだと感じた。

「貴様、この掛井武人に向かってよくもそんな口を! ただじゃすまさんぞ。今度は逃がしはせん、必ず殺してやる。五年前に生き延びた事を後悔させる程の報いを、地獄を味あわせてやるからな」掛井は立ち上がって、怒りで全身を震わせた。

 龍子は歯を見せて笑い出した。まるで結婚式でブーケを投げた時の花嫁のような、素敵な笑顔だった。

 掛井は、今度は本気で当てる気になって、机の上の物を探したが、さっき投げたペン立ては今も絨毯の上に転がったままだ。これといって他に攻撃性のあるものが見つからなく、龍子のスマホを掴んだ。

 強いノックの後、返事を待つことなくドアが開いた。

「お声が家の外にまで漏れていますよ」築島が焦った表情で、大きな声で言った。

 掛井はスマホを握った手の甲で、額の汗をぬぐった。「マスコミは…」

「まだ県道に車が止まっています。あとスチルがひとり、家の前にいましたが、さっき離れて行きました。一体どうしたんですか、あんな大声を出して」

「何でもない」

 築島は龍子を見た。自分に向けてウインクする龍子の笑顔に、心臓が波打ったような衝撃を覚えた。

「築島!」その怒声に一気に冷やされた。

「…その女を追い出せ」

 焦った様子の築島に、「お手間は取らせませんわ」と言ってから、龍子は掛井に近づき、財布が入ったショルダーバッグを取って、化粧ポーチをバッグの中に入れた。

 掛井は龍子から顔を逸らしていたが、顔前に差し出された手に、黙ってスマホを返した。

「それじゃあね」龍子は築島の前を通って、開かれたドアから部屋を出て行った。

 掛井が顎で合図すると、築島は龍子の後を追ったが、掛井宅のすぐ前に、いつの間にか止まっていた白い軽のワンボックスカーの助手席に龍子が乗り込むと、引き止める間もなく走り去っていった。

 この後、車のナンバーを確認しなかった事で、築島はひどく掛井から叱責を受けた。


 龍子が掛井宅を出てから、およそ七時間後に、町田まちだという名の男が掛井宅を訪れた。

 陽はすっかり落ちて、辺りにマスコミの姿はとうにいなくなっていたが、町田は築島が運転する、スモークフィルムを窓に貼った黒のベンツが、敷地内の駐車スペースに停められて、数分が経過するまで後部座席から動かなかった。築島が周辺に誰もいない事を確認してからドアを開くと、ブラウンのスーツに薄黄色のシャツ、サングラスをかけた姿の町田は車から降りて、足早に家の中に入って行った。

 書斎に迎え入れた掛井武人は、龍子には一切見せなかった笑顔で町田に挨拶した。

「よく来てくれた、静岡に来るのはひさしぶりなんじゃないか」

「ええ、そうですね」

 促されて、掛井と町田はソファに向かい合って座った。例のごとく築島は席を外す様言い渡され、今日散々怒られ続けの築島は、不満げな態度を示すように、返事なく部屋を出て行った。

 その様子を見て町田は言った。「彼はいつから?」

「ああ、ほんの二年前からだ。旧知の息子でな、人手不足で使ってやっているんだが、ダメだ。政治をやる才能はない」

「それなら、却って役に立つこともあるんじゃないんですか?」

「どうかな」

「真面目そうだし、ぴったりなんじゃないですか」

「いやあ、それは…」と言って、ごまかすように掛井は笑った。

 町田も付き合うように小さな笑い声をあげた。

 町田は面長の輪郭で、薄いサングラスの奥にはくっきりした二重瞼、まっすぐな鼻筋、清潔感のある、俳優のような細身で美形の青年だ。築島と同じくらいの年ごろ、二十代後半に見えるが、実は整形しており、本当の年齢は四十を越えていると掛井は聞いていた。

 会って話すとそれは確かで、とても二十代の青二才からは吐かれない言葉を聞き、その佇まいには得体の知れない迫力を感じた。

「自宅にお呼び頂くのは光栄ですが、今はまずいですよ。わたしみたいな事件屋との接触がばれると、お互いに面倒な事になる」

「いや違うんだ。どうしてもと言って、君にわざわざ来てもらったのは、緊急に手を貸してもらいたい事情ができたからだ」

「ほう、と言いますと?」

「五年程前に一度、相談させてもらった件だ」

「五年前と言うと、息子さんのあの件ですかな」

「そうだ」

「しかし、あれはもう解決したんじゃないんですか? 相手は行方不明になって、確か海外に逃げて、もう帰ってこないと聞きましたが」

「本当のところ、海外にいたのか、それとも日本でずっと隠れていたのかは解らない。しかし、今日現われたのだ。いきなり」

 掛井は、今日龍子が自宅前に現れた事の顛末を、町田に説明した。息子の暁が起こしてしまった五年前の事件、その隠蔽工作の説明を改めて加えてしまったために、四十分以上を要した。町田は昔に説明されていた事を詳細まで覚えていたので、その要領を得ない、また掛井の愚痴が多く交った長ったらしい説明に、少し苛ついた。

「くそ生意気な女だ。ずっと美人を鼻にかけたような、この私を見下した態度をとりおって、みかけが良いだけの女など、他にいくらでもいるという事が解っておらんのだ」

「話が逸れていますよ、そんな事はどうでもいい」と冷めた口調で、たしなめるように町田は言った。

「そうか、そうだな」

「その、氷川龍子という女と話した場所は、この部屋ですか?」

「そうだ」

「部屋に入れる前に、身体検査はしましたか?」

「携帯電話は取り上げて電源を切った。他に怪しい持ち物はなかった。服装も、隠せるようなところはなかったはずだ。大体、相手はただの頭の悪い女だぞ」そう力説するように言ったが、掛井の額からは、また汗が噴き出し始めていた。

「探知機などはお持ちじゃないですか?」

「まだ、警察や検察は動いていないと情報を聞いていたから…」龍子と話していた時の、十分の一くらいの声量だ。

「収賄疑惑の事を言っているんじゃありません。五年間、潜伏生活を送り、敵の自宅に一人で堂々と乗り込んできた女の事をお話しているんでしょう?」

 掛井は顔を真っ赤にしてドアを開け、「築島ぁ!」と叫んで出て行った。

 町田は部屋中を探った。ソファの下、テーブルの下、壁にかかった絵画の一枚一枚、皿の裏、壺の中。しゃがんで、それから絨毯の上にうつ伏せになってあちこちに目を配った。出入り口の隣に配置されている、木製アンティークのキャビネットの下に隙間があり、何かが落ちていた。一度立ち上がって近づき、それを拾い上げた。五センチ四方ほどの、ゴールド色のコンパクトだ。開くと蓋の裏側が鏡になっていて、片方にファンデーションが組み込まれている。しかし、ただのコンパクトにしては、厚みと、重量が余分にあるように思えた。パフがなく、ファンデーションの下に通気孔のような細かな穴がいくつかある。蓋側にも穴がある。普通のものに、そんな意味のないものはない。町田は後ろポケットから小さなナイフを取り出すと、刃先をファンデーションの端にひっかけて外した。

 掛井が部屋に戻ってきて言った。「今、技術者を連れてこさせる」

「もう必要ないです」

 ファンデーションの下には小さな基盤と、厚さ八ミリ程、三センチ四方程の超小型バッテリーらしきものが取り付けられていた。

「ここ、ファンデーションの上の方を強く押すと、スイッチが入るようになっているわけだ。よくできている。これは素人が作れるものじゃないですよ」

 町田は小型バッテリーを取り外した。

「あの女、くそ!」掛井は龍子がトイレに行く前に倒れ込んだ時の事を思いだした。自分の迫力に圧倒されて、調子を崩したのだと思っていた。あれは芝居だったのか、気が狂いそうなほどの屈辱感が沸き上がった。

「落ち着いてください。このバッテリーなら、およそ二、三時間程度ってところでしょう。女がこれを仕掛けてから三時間以内の会話は、おそらく女の仲間が受信して録音していたと思われます」

「あの女と話したのは十五分程度だ。その後は車に乗って去ったはずだ」

「どこか近くに隠れて盗聴していたはずです」

「その後、この部屋で話したのは…何もない。君に電話をかけたくらいだ」

「女と話した内容を、詳しく、正直に話してください」

「さっき話したろう」

「正直に、詳細にだ」

 町田の口調に、掛井は龍子の時よりもずっと見下されている気持ちになったが、抵抗する気は起きなかった。素直に、落ち着いてから自分の発言を思い出す。

・・・犯行を自供していた。


 築島の携帯電話が鳴った。ディスプレイには非通知の文字が表示されていた。電話に出ると、男の声がして、掛井の事務所から築島の携帯番号を教えてもらった旨を伝えられた。築島は「失礼ですが、どちら様でしょう」と答えた。

 男は恐縮したように謝罪の言葉を言って、それから名乗った。「私、警視庁刑事部の戸谷と申します」

 築島は一斉に冷や汗が噴き出したような感覚に襲われた。

「あ、はい、あの、どういったご用件ですか」

「いえ、違うんです、どうかご心配なさらず。私は捜査第三課ですので、あの、違いますから」

「はい…」

「あの、今、掛井先生は今、大変お忙しい身でいらっしゃる事と存じますが、なるべく早くに、お耳に入れておかなければならないお話しがございまして…」

「はあ…」

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